旅の終わり、私はいつも帰りの飛行機の中で手帳に思いついたことをどんどん書きつける。
ハワイからの帰りなんて、それだけで日本に着いてしまってびっくりした。いきなりドンって
音がしたから何事かと思ったら、着陸していた・・・それぐらい集中して書きつける。
多分この時間が一番鮮やかにその旅を「言葉」に変換していると思う。
今回もそれは変わらず。
沖縄に通い始めて22年。今回の旅でストンと腹におちたことがあった。今までモヤがかかって
どうしてもわからなかったことが、本当にある瞬間「あっ!今わかった」とわかったのだ。
思わず立ち止まって、まわりを見渡して、空を見上げて、ふぅと息をはいて、誰にかはわからないけれど
「ありがとう」って心の中でつぶやいてしまった。
それは読谷祭りの夕方のことだった。
読谷村のヨナハさんに連れられて、祭り会場で飲んで食べてうたって踊って、とにかくもういい感じに
できあがりつつある夕方だった。福星もなんとなく雰囲気をつかんで自分たちであちこち歩きまわっては
インチキ臭いあてもんで小銭をせっせと巻き上げられたり、周りの大人にいろんな食べ物をもらって嬉しそうにしていた。
私と友人とヨナハさんは泡盛とビール片手にバカ話。牛汁のうまさに感動しつつ、まつりに身をゆだねていた。
読谷村にももちろん米軍の基地がある。基地を中心に町があるといっても過言ではないぐらい
基地がドカンとそこにある。私たちのホテルも基地のゲート真正面だった。ギョッとしたけれど
これが読谷村の「暮らし」であるならば、それをほんの少しでも体感したいと思った。
基地があるということはその基地に関係する人の「暮らし」もそこにある。それはとても身近で
すっと馴染んで、おそらくここからここまでと線引きできるものではない。人間の「暮らし」は
そんなシステマティックにはできていない。
祭りにも大勢の基地関係者(というと仰々しいが、ようは同じ村に住むご近所さん、みたいな
感じで短パン、タンクトップ、でっかいベビーカー連れの家族や友人たち)が来ていた。
ものすごく当たり前だけれど、私たちと同じようにビールを飲み、ウインナーをほおばり、
子どもをあやし、トイレに並んだりしている。そりゃそうだ。
そんな光景をいい感じにネジのゆるんだ頭で俯瞰していると、あまりの平和さに「あれ?
もしかして沖縄の人が願っているのはただただこういう夕方なのでは?」と思った。
軍人でも観光客でもゆるやかに受け入れてくれるおおらかさとしたたかさ。混ざり合った
状態を「不安」ととらえるのではなくここからうまれるものに希望をもつことのできる人たち。
『基地に反対しているのではなく、戦争に反対しているんだ。だから基地に反対しているんだ。』
やっとやっとそれがわかった。私が今まで見ていた視野のせまさが心から情けなかった。
なんで沖縄の人たちがここまでやりこめられても抵抗を続けるのか。なんであんなアリとゾウが
戦っているみたいな辺野古の現場から撤退しないのか。なんであんなに強くなれるのか。
なんであんなに優しく戦えるのか。
ずっとずっと探していた答えを私はようやく自分で見つけることができた気がした。
この答えは私の答えであって、マルではないかも知れない。あなたの答えとは違うかも知れない。
でもそれで構わない。私は私の見つけた答えを信じて生きていく。考えていく。
それしかできないから。
基地に反対していることだけを見ていたら、きっと私もいつか見失っていただろう。
沖縄の人は心から平和を求めている。平和の尊さを本土の人間の何倍も知っている人たちが
まだまだ現役世代にたくさんおられる。私が阪神大震災の揺れを体にこびりつけて年を
重ねているように、沖縄の人は戦争の恐ろしさと大事な人を理不尽に失う悲しみを抱えたまま
ここまで年を重ねてきたんだ。一緒や・・・
もう心底戦争が嫌なんだ。もう二度とあんな目にあいたくないんだ。
あんな光景をもう一度見るくらいなら、どれだけ勝ち目がなくても抵抗を続けたほうがまだ
マシだと思っているのかも知れない。だからこそ「あきらめる」という選択がはじめから
ないのかも知れない。
「わかった」ことはすぐに伝えたい。ヨナハさん聞いて、今すぐ聞いて、と話したら
顔の全部で笑ってくれた。「こんな沖縄をもっともっと知りたい」と言うと「まつりを
最後までみなさい」と誇りに満ちた顔で(いや、ただの酔っぱらいのゆるみきった顔だった
かもしれない)ビールを追加された。福星は行方不明やけど、多分大丈夫。どっかにいる。
(いた)
まつりの最後は再現された立派な船の出航と、(すいません知識不足)
大輪の花火とカチャーシー。
ほんのすこし沖縄が「みえた」夜。「わかった」だなんて一生言えないけれど
旅をしたから「みえた」こと。そこにいたから「みえた」こと。
私は私の答えを自分でみつけたいだけ。自分のものさしをもっていたいだけ。
平和を求めるために抵抗を続ける沖縄の現状はやっぱり異常だ。
抵抗の先にあるものは、この日の夕方、読谷まつりの会場に全部あった。
言葉にすると恥ずかしくてすっ飛ばしたくなるけれど、愛、平和、共生。
そしてこのみっつがあるところでしか人は穏やかに「暮らす」ことができないのだ。
読谷村の小さなまつりが教えてくれたこと。ヨナハさんが教えてくれたこと。
今度は私が誰かに伝えたい。そう今このブログを読んでくれているあなたに伝えたい。
「好き」の力はこれぐらいすごい。私は沖縄が大好きだ。
(淡路島も好きです。デヘッ)
ハワイからの帰りなんて、それだけで日本に着いてしまってびっくりした。いきなりドンって
音がしたから何事かと思ったら、着陸していた・・・それぐらい集中して書きつける。
多分この時間が一番鮮やかにその旅を「言葉」に変換していると思う。
今回もそれは変わらず。
沖縄に通い始めて22年。今回の旅でストンと腹におちたことがあった。今までモヤがかかって
どうしてもわからなかったことが、本当にある瞬間「あっ!今わかった」とわかったのだ。
思わず立ち止まって、まわりを見渡して、空を見上げて、ふぅと息をはいて、誰にかはわからないけれど
「ありがとう」って心の中でつぶやいてしまった。
それは読谷祭りの夕方のことだった。
読谷村のヨナハさんに連れられて、祭り会場で飲んで食べてうたって踊って、とにかくもういい感じに
できあがりつつある夕方だった。福星もなんとなく雰囲気をつかんで自分たちであちこち歩きまわっては
インチキ臭いあてもんで小銭をせっせと巻き上げられたり、周りの大人にいろんな食べ物をもらって嬉しそうにしていた。
私と友人とヨナハさんは泡盛とビール片手にバカ話。牛汁のうまさに感動しつつ、まつりに身をゆだねていた。
読谷村にももちろん米軍の基地がある。基地を中心に町があるといっても過言ではないぐらい
基地がドカンとそこにある。私たちのホテルも基地のゲート真正面だった。ギョッとしたけれど
これが読谷村の「暮らし」であるならば、それをほんの少しでも体感したいと思った。
基地があるということはその基地に関係する人の「暮らし」もそこにある。それはとても身近で
すっと馴染んで、おそらくここからここまでと線引きできるものではない。人間の「暮らし」は
そんなシステマティックにはできていない。
祭りにも大勢の基地関係者(というと仰々しいが、ようは同じ村に住むご近所さん、みたいな
感じで短パン、タンクトップ、でっかいベビーカー連れの家族や友人たち)が来ていた。
ものすごく当たり前だけれど、私たちと同じようにビールを飲み、ウインナーをほおばり、
子どもをあやし、トイレに並んだりしている。そりゃそうだ。
そんな光景をいい感じにネジのゆるんだ頭で俯瞰していると、あまりの平和さに「あれ?
もしかして沖縄の人が願っているのはただただこういう夕方なのでは?」と思った。
軍人でも観光客でもゆるやかに受け入れてくれるおおらかさとしたたかさ。混ざり合った
状態を「不安」ととらえるのではなくここからうまれるものに希望をもつことのできる人たち。
『基地に反対しているのではなく、戦争に反対しているんだ。だから基地に反対しているんだ。』
やっとやっとそれがわかった。私が今まで見ていた視野のせまさが心から情けなかった。
なんで沖縄の人たちがここまでやりこめられても抵抗を続けるのか。なんであんなアリとゾウが
戦っているみたいな辺野古の現場から撤退しないのか。なんであんなに強くなれるのか。
なんであんなに優しく戦えるのか。
ずっとずっと探していた答えを私はようやく自分で見つけることができた気がした。
この答えは私の答えであって、マルではないかも知れない。あなたの答えとは違うかも知れない。
でもそれで構わない。私は私の見つけた答えを信じて生きていく。考えていく。
それしかできないから。
基地に反対していることだけを見ていたら、きっと私もいつか見失っていただろう。
沖縄の人は心から平和を求めている。平和の尊さを本土の人間の何倍も知っている人たちが
まだまだ現役世代にたくさんおられる。私が阪神大震災の揺れを体にこびりつけて年を
重ねているように、沖縄の人は戦争の恐ろしさと大事な人を理不尽に失う悲しみを抱えたまま
ここまで年を重ねてきたんだ。一緒や・・・
もう心底戦争が嫌なんだ。もう二度とあんな目にあいたくないんだ。
あんな光景をもう一度見るくらいなら、どれだけ勝ち目がなくても抵抗を続けたほうがまだ
マシだと思っているのかも知れない。だからこそ「あきらめる」という選択がはじめから
ないのかも知れない。
「わかった」ことはすぐに伝えたい。ヨナハさん聞いて、今すぐ聞いて、と話したら
顔の全部で笑ってくれた。「こんな沖縄をもっともっと知りたい」と言うと「まつりを
最後までみなさい」と誇りに満ちた顔で(いや、ただの酔っぱらいのゆるみきった顔だった
かもしれない)ビールを追加された。福星は行方不明やけど、多分大丈夫。どっかにいる。
(いた)
まつりの最後は再現された立派な船の出航と、(すいません知識不足)
大輪の花火とカチャーシー。
ほんのすこし沖縄が「みえた」夜。「わかった」だなんて一生言えないけれど
旅をしたから「みえた」こと。そこにいたから「みえた」こと。
私は私の答えを自分でみつけたいだけ。自分のものさしをもっていたいだけ。
平和を求めるために抵抗を続ける沖縄の現状はやっぱり異常だ。
抵抗の先にあるものは、この日の夕方、読谷まつりの会場に全部あった。
言葉にすると恥ずかしくてすっ飛ばしたくなるけれど、愛、平和、共生。
そしてこのみっつがあるところでしか人は穏やかに「暮らす」ことができないのだ。
読谷村の小さなまつりが教えてくれたこと。ヨナハさんが教えてくれたこと。
今度は私が誰かに伝えたい。そう今このブログを読んでくれているあなたに伝えたい。
「好き」の力はこれぐらいすごい。私は沖縄が大好きだ。
(淡路島も好きです。デヘッ)