旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

インフルがやってきた~

2016年02月24日 18時28分27秒 | 日々のこと
あと一週間がんばるぞ、とか言ってたらあっさり翌朝ふくのすけがダウン。
朝起きてこないので布団に手を入れてみると
「熱い・・・」

40.6度あった。久々の高熱。
今日の予定全てキャンセル。仕事をどうしようとか考える選択肢もなかった。
とにかく、今、できることを。

幸いなことに水分はとれたので、お茶を飲ませる。

星は今のところ大丈夫そう。となるとすみやかに隔離せねば。保育園に連れていく。
本当に保育園ってありがたい。

病院へ行き、タミフルをもらい、いちごとゼリーとアイスクリームを買ってタクシーで帰宅。
家ごもりに備える。

病気をしても、打てる手があることに、心から感謝する。
今週はこれにて終了。私が罹るのも時間の問題かなあ・・・気合だけで撃退できるかしら。

5歳の時間軸はどこに?

2016年02月17日 21時38分05秒 | 日々のこと
仕上げ磨きを毎日していると、こどもの身長が植物のように伸びていくのがよくわかる。

私  →「ふくはいつか かあちゃんよりも大きくなるんだろうね」
ふく →「ああ、かあちゃんが しんだころにね」

人はいつか必ず死ぬことを、とうちゃんもかあちゃんもいつか死んでしまうことを、
できるだけ普段の会話の中で、怖がらせないように気を付けて伝えてきたつもりだ。
死ぬことは怖くないんだよ、だからおびえなくていいんだよ、と伝えてたくて。

それがこの言葉に結びついたのだとしたら・・・喜ぶべきところか。
5歳の頭の中で過去と、未来と、永遠はどんな風につながっているんだろうか。

小さな人との生活はおもしろい。


ベビーカーから見える世界

2016年02月16日 21時16分34秒 | 日々のこと
仕事柄、立場柄、ベビーカーを見かけるとついつい観察してしまう。
10か月くらいまでなら対面式のタイプに乗っている赤ちゃんが圧倒的に多い。
赤ちゃんからすると、景色が後ろに流れて行って、お母さんやお父さんの顔が常に見える状態になる。

ここで素朴な疑問。赤ちゃんってそんなにいつもいつもお母さんの顔を見ていたいものなのかな?
これ、ずっと思っていたんだけど誰も言わないんだよね。

生まれたての新生児ならともかく、赤ちゃんだって外に出たい。外の空気に触れたい。おひさまの
光を浴びたい。赤ちゃんには赤ちゃんなりの外の世界との出会いがある。と私は思う。
赤ちゃんにとってお母さんが全てではない。お母さんは赤ちゃんの全てでもない。
赤ちゃんってもっといろんなことを分かっているし、求めているし、知っている。
だから意味もないのにやたらと「バア」ってのぞきこんだり、ずっと監視するかのように見て欲しくも
ないと思うのだけど、どうだろう。


せっかく外にでているのだから、赤ちゃんだってお母さんと同じ向きで同じものをみたいかもよ。
ぷくぷくのほっぺたに風を感じたいかもよ。そんな包み込まんでも大丈夫、大丈夫。
おんぶが好きな赤ちゃんは多いけれど、おんぶする時の一番のポイントはできるだけ高い位置でおんぶ
すること。赤ちゃんはおんぶしてくれる人と同じ目線でみえる世界が大好きだから。そして高い位置で
おんぶするほうが絶対にお母さんが楽だから。

私は心の中で“エルゴの功罪”と勝手に呼んでいるのだけど、あの赤ちゃんをすっぽり包んで頭の上から
カバーかけて(赤ちゃんは多分眠っているから)どこにでもでかけていくお母さん、お父さんがいるけれど
あれって本当にベストな方法なんだろうか?
新生児ならあのスタイルは確かに落ち着くだろうな、とは思う。頭からカバーをすっぽりかけてしまうと
深く眠ってくれるのもよく分かる。
だけどそもそも首が座っていない赤ちゃんを縦に抱っこするのは無理があるのでは?だって「まだ縦には
できまへんでー。首も頭もグラグラでっせ。でも中に大切なものがいっぱいつまっているから丁重に
扱ってやー」というのが新生児期のはず。いくらスヤスヤと眠ってくれるからといって長時間あの姿勢は
無理があるはず。

エルゴで楽なのは一体誰なんやろ?といつも思ってしまう。(非常に優れた抱っこひもではあるけれど)

なんだか思いつくままに述べてしまったけど、100人いたら100通りの赤ちゃんがいるわけだから、
どの赤ちゃんにもあてはまるわけではないのはもちろんのこと、お母さんの考え方もそれぞれだ。

それらを考慮したうえで、「もっと、赤ちゃんに自由を!」と思ってしまう。
お母さんにギュッと包み込まれる安心感とか、耳元で優しく響く声とか、あたたかい眼差しとか、
そういうのは赤ちゃんが本気でぐずり始めた時のために温存しておけばいいんじゃないかなーと思う。
ぐずり始めたら、赤ちゃんは悪魔ですから(笑)化け物ですから(笑)全身全霊をこめて嫌がらせですから(笑)
そうでない時は、こちらもふつーでいいんやないの?と思う。やけに高い声をださなくても、機嫌を
とらなくても、いつもいつも覗き込んでいなくても、お母さんがまっすぐ前を向いて、空でも見上げて
スタスタ歩いていたら、赤ちゃんも安心して自分の世界と出会えるはず。

「早くでておいでー。」ポンポンとお腹をたたいてみる。ぐるぐる動いているのが分かる。
新生児マニアの私のところで、この世界の扉を一緒にあけてみよう。楽しいよ。待ってるよ。

Home は ここに

2016年02月15日 22時56分40秒 | 日々のこと
2月11日、映画の上映会が無事に終わった。
一人で行って、一人で帰ってきた。
いろんな人が“想い”を持って集まっていて、もちろん私もその中の一人なのだけど
私のやっていることや、考えていることや、話すことに、さっぱり自信がもてなくて
普段は「それが何やねん!」なんて思っているけれど、何の肩書も実績もない自分が
ひどく小さく思えて、シュンと背中をまるめて帰ってきた。

上映会が行われた明石は私が育った町。(正確には隣の伊川谷だけど)
20歳で家を出るまで、ここから電車に乗って大学に通っていた。
行きは必ず右側に、帰りは必ず左側に座るか、窓にもたれかかって外を眺めていた。
しばらくすると明石海峡大橋がすぐ目の前に現れ、そこからしばらく窓の外は海になる。

明石駅前は再開発ですっかり変わっていた。
私がいたのは本当にここだったのかな、と立ち止まるほど新しい街になっていた。

上映会が終わり、まだ夕方早い時間だったので、この時間をどう使うことも自由だった。
「少し実家に寄ってみようかな。母とお茶でもしようかな。」
「誰か久しぶりの友だちに連絡をとって、軽く食事でもして帰ろうかな。」
「一人で海の方まで散歩して、魚の棚で魚と天ぷらでも買って帰ろうかな。」
「くるみやのソフトクリームを食べたらちょっとは元気になるかな。」
新しくなった駅ビルの入り口でぼんやりと考える。人がどんどん通り過ぎてゆく。
昔のように「誰かいるかな~」と無意識に知り合いを探している自分がそこいた。

しばらくそんなことをしているうちにハッと気づいた。
もうここで会える人はいないし、ここで私を待ってくれている人もいないし、ここでやりたいことも
何もないのだということに。

もう戻らないんだ。時間も、場所も、気持ちも、この場所との親密さも。

悲しいわけでもなく、懐かしさにひたる訳でもなく、ただ心もとない感じだけ抱えて電車に乗った。
夕方の海がとても美しかった。「私、やっぱりこの景色が好きだなー」と心から思った。

駅に着くとダンナ氏とちびが改札のところで待っていてくれた。
大きな人と小さな人が二人、手をつないで私を探している。とても不思議なものを見ているような
気がした。「この三人は一体どこからきたんだろう?」「私、ついこの間まで独りぼっちだったはずなのに
なんでこんなことになってるんだろ?」だんだん距離が近づいて目と目が合った時、「あっ、ここなんだ」と
思った。なんてありがたいんだろうと思った。

「アイス買って帰ろう」とみんなでスーパーに立ち寄り、気の向くままカゴに入れていく。
栄養バランスとか、値段とか、食い合わせとか、なーんにも考えていない無節操さ。ビールも揚げ物も
何でもありだ。ちびたち大喜び。こういう時に何も聞かないし、何も言わないけれど、ただ黙って
好きにさせてくれるダンナ氏。もしここで「何やってるの?」「今日どうだった?」「家にごはんあるんだけど」
とか言われたら、私は多分何かの糸が切れておかしくなっているだろう。甘えているんだ、私はこの人たちに。
小さい自分がますます小さくなるけれど、この時私の保護者はダンナ氏とちびだった。

家に帰って、小さいながらも自分たちが作り上げたHomeでまるくなって眠る。
相変わらず何も聞かず「疲れたんでしょ」とひとこと言って、家事と育児の全てを淡々とこなすダンナ氏。

失くしたものと、手に入れたもの。
過去にしがみつかずに生きていられるのは、今があるから。
「バイバイ、もういいよ」と手を離すことができるのは、今ここに手をつなぐ人がいるから。
身勝手だなと思う。みっともないなと思う。傷つけた人もたくさんいるから。
それも抱えて、美化することなく、時に胸を張って、時に背中をまるめて、いったりきたりするしかない。

自立しても、仕事をもっても、家庭をもっても、子どもを産んでも、結局何も変わらない。
Homeを切望する気持ちはきっと変わらない。守るものに守られていることに気付いた冬の一日だった。