大津での事故から一日。昨日の園長先生の会見はあまりにも胸が痛んで見ていられなかった。
痛い思いをして亡くなった小さな子ども二人。
そのご両親。
引率していた保育士。
運転していた女性。
誰一人としてこんなことを望んでいなかったはず。誰の気持ちも自分事として迫ってきて
「ああ・・・」と絶句するしかなかった。
連休明けのよく晴れた気持ちのいい午前中、子どもたちを外に連れ出してたくさん歩いて、
お花をみて、琵琶湖の周りを自由に駆け回って、保育園に戻りおいしい給食を食べるはずだったのに
交差点で車が突っ込んできて、自分のクラスの子ども二人が亡くなってしまうだなんて考えただけで
頭が真っ白になって倒れそうになる。
保育園見学に行くという友人知人に私が必ずアドバイスしていたことのひとつに「乳児クラスが散歩に
でかけているかどうか聞いてみてね。もし連れて行っている園ならば、他の面でもかなり子どもの
主体性に沿った保育がなされていると考えて間違いなし」とよく言っていた。
保育園で子どもを散歩に連れて行くのはとても大変なことで、様々なリスクは園内にいる時に比べると
格段にあがる。今回のような事故のリスクはもちろんのこと、不審者対応、突然の子どもの体調変化、
万が一の災害対策、ケガ、ルート設定、帰園の時刻、数え上げると切りがない。はっきりいって
子どもを園内で(できれば室内で)管理する方が100倍いやそれ以上楽なことは分かりきっている。
それなのになぜ散歩に連れて行くのか?
それは子どもの生活に欠かせないものだから。
子どもは保育園に管理されているのではなく、保育園で生活しているから。
子どもは大人の都合で生かされているのではなく、自由に生きる権利を持った小さな人だから。
保育園は子どもの預け場所ではなく、子どもの昼間のおうちだから。
「あー、今日はいいお天気だね。さっ、お散歩いこか!」
「いこー、いこー。やったー!」
出発前にはこんなやりとりがあったに違いない。
園に落ち度はなかったはずだ。今のこの時代、積極的に散歩に出かける園はどんどん少なくなっている。
そもそも散歩にでかけられる余裕が保育園から失われている。保育士不足、業務過多の問題を何年も
放置した結果、どこの現場も保育士のスキル不足だ。(←これ、なんでもっとはっきり言わないんだろう?)
散歩に連れ出せるだけの判断力と、統率力をもった保育士がどんどんいなくなっている。
それでもこの保育園は積極的に散歩にでかけていたということは、それなりの人材もそろっていたのだろう。
園長先生は心から子どもたちのことを愛されていたんだな・・・あの会見で泣き崩れる姿を見て
「よくも悪くもああいう姿をさらけだせる人間が保育士なんかなー」と考えさせられてしまった。
“保育園”という箱をみている法人理事の男性と(この役割はそれはそれでとても重要)
保育園という箱の中に入っている“かけがえのないひとつひとつの命”をみている園長。どちらも大事で
そのバランスが取れていないと運営はできないが、それでも子どもの一番そばにいる大人があの園長で
よかったな、と思った。
記者からの質問で「保育士は道路側を歩いていたのか?」というものがあったが、その時は思わず机を
バンバンたたいて「当たり前やろが!!」と画面に向かって言い返してしまった。
最初はこの質問に対する猛烈な怒り、その後にやってきたのはなんとも言えない悲しみだった。
この人は子どもがもつ力や優しさを何一つ知らない。子どもってこんなにも大人に理解されて
いない存在なんだ、と改めて思い知らされた気がして心底落ち込んだ。
子どもは自分よりも少しでも弱いものや小さいものを見つけると必死に守ろうとする。
5歳と3歳を一緒に散歩に連れて行く時、保育士が何も言わなくても「こっち歩きや」と5歳の子どもたちが
3歳の子どもを道路の内側を歩かせていた。道を渡るとサッとつないでいた手を入れ替えて「ほら、こっち」と
いつでも3歳の子どもたちを守ってくれていた。その時の優しさにあふれた表情、誇らしげな後ろ姿は
私が散歩中にひそかに楽しみにしていた毎回お約束の光景だった。たった5歳の子どもたちの心にはもう
そんな優しさがしっかりと育っているのだ。誰に教えられなくても、誰に命令されなくても、人は人に優しく
できるのだ。
子どもは小さいけれど強いのだ。優しいのだ。たくましいのだ。今を生きているのだ。せまい保育園に
閉じ込めておくことなんか無理なのだ。そんなことをしていたら心が育つことをやめてしまうのだ。
だけど、小さいのだ。やっぱり小さいのだ。無力なのだ。あっけなく死んでしまうのだ。
悲しい。本当に悲しい。悔しい。
それでも散歩は必要。特に園庭のない保育園では絶対に必要。
今回の事故を教訓に、社会が少しでも変わることでしか前に進めないのだとしたら、いくらでも言って
いかねばならないとグッと腹に力が入った一日だった。忘れない。
痛い思いをして亡くなった小さな子ども二人。
そのご両親。
引率していた保育士。
運転していた女性。
誰一人としてこんなことを望んでいなかったはず。誰の気持ちも自分事として迫ってきて
「ああ・・・」と絶句するしかなかった。
連休明けのよく晴れた気持ちのいい午前中、子どもたちを外に連れ出してたくさん歩いて、
お花をみて、琵琶湖の周りを自由に駆け回って、保育園に戻りおいしい給食を食べるはずだったのに
交差点で車が突っ込んできて、自分のクラスの子ども二人が亡くなってしまうだなんて考えただけで
頭が真っ白になって倒れそうになる。
保育園見学に行くという友人知人に私が必ずアドバイスしていたことのひとつに「乳児クラスが散歩に
でかけているかどうか聞いてみてね。もし連れて行っている園ならば、他の面でもかなり子どもの
主体性に沿った保育がなされていると考えて間違いなし」とよく言っていた。
保育園で子どもを散歩に連れて行くのはとても大変なことで、様々なリスクは園内にいる時に比べると
格段にあがる。今回のような事故のリスクはもちろんのこと、不審者対応、突然の子どもの体調変化、
万が一の災害対策、ケガ、ルート設定、帰園の時刻、数え上げると切りがない。はっきりいって
子どもを園内で(できれば室内で)管理する方が100倍いやそれ以上楽なことは分かりきっている。
それなのになぜ散歩に連れて行くのか?
それは子どもの生活に欠かせないものだから。
子どもは保育園に管理されているのではなく、保育園で生活しているから。
子どもは大人の都合で生かされているのではなく、自由に生きる権利を持った小さな人だから。
保育園は子どもの預け場所ではなく、子どもの昼間のおうちだから。
「あー、今日はいいお天気だね。さっ、お散歩いこか!」
「いこー、いこー。やったー!」
出発前にはこんなやりとりがあったに違いない。
園に落ち度はなかったはずだ。今のこの時代、積極的に散歩に出かける園はどんどん少なくなっている。
そもそも散歩にでかけられる余裕が保育園から失われている。保育士不足、業務過多の問題を何年も
放置した結果、どこの現場も保育士のスキル不足だ。(←これ、なんでもっとはっきり言わないんだろう?)
散歩に連れ出せるだけの判断力と、統率力をもった保育士がどんどんいなくなっている。
それでもこの保育園は積極的に散歩にでかけていたということは、それなりの人材もそろっていたのだろう。
園長先生は心から子どもたちのことを愛されていたんだな・・・あの会見で泣き崩れる姿を見て
「よくも悪くもああいう姿をさらけだせる人間が保育士なんかなー」と考えさせられてしまった。
“保育園”という箱をみている法人理事の男性と(この役割はそれはそれでとても重要)
保育園という箱の中に入っている“かけがえのないひとつひとつの命”をみている園長。どちらも大事で
そのバランスが取れていないと運営はできないが、それでも子どもの一番そばにいる大人があの園長で
よかったな、と思った。
記者からの質問で「保育士は道路側を歩いていたのか?」というものがあったが、その時は思わず机を
バンバンたたいて「当たり前やろが!!」と画面に向かって言い返してしまった。
最初はこの質問に対する猛烈な怒り、その後にやってきたのはなんとも言えない悲しみだった。
この人は子どもがもつ力や優しさを何一つ知らない。子どもってこんなにも大人に理解されて
いない存在なんだ、と改めて思い知らされた気がして心底落ち込んだ。
子どもは自分よりも少しでも弱いものや小さいものを見つけると必死に守ろうとする。
5歳と3歳を一緒に散歩に連れて行く時、保育士が何も言わなくても「こっち歩きや」と5歳の子どもたちが
3歳の子どもを道路の内側を歩かせていた。道を渡るとサッとつないでいた手を入れ替えて「ほら、こっち」と
いつでも3歳の子どもたちを守ってくれていた。その時の優しさにあふれた表情、誇らしげな後ろ姿は
私が散歩中にひそかに楽しみにしていた毎回お約束の光景だった。たった5歳の子どもたちの心にはもう
そんな優しさがしっかりと育っているのだ。誰に教えられなくても、誰に命令されなくても、人は人に優しく
できるのだ。
子どもは小さいけれど強いのだ。優しいのだ。たくましいのだ。今を生きているのだ。せまい保育園に
閉じ込めておくことなんか無理なのだ。そんなことをしていたら心が育つことをやめてしまうのだ。
だけど、小さいのだ。やっぱり小さいのだ。無力なのだ。あっけなく死んでしまうのだ。
悲しい。本当に悲しい。悔しい。
それでも散歩は必要。特に園庭のない保育園では絶対に必要。
今回の事故を教訓に、社会が少しでも変わることでしか前に進めないのだとしたら、いくらでも言って
いかねばならないとグッと腹に力が入った一日だった。忘れない。