旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

今日は手抜きでたこ焼きのはずだったのに

2017年05月31日 20時53分18秒 | 日々のこと
星の幼稚園でAEDの講習を受けてきた。
久しぶりに全く違う頭の回路を使うのはとても充実した時間だった。

午後から来客もあり、夕方は福が公園に行きたいと言っていたので、「今日はこのまま終了やな・・タコ焼きで楽しよ」と考えた私が甘かったのか。
つばさがスプーンを振り回し、どれくらいの角度で口に持っていけば入るのかあれこれ試している。もちろんテーブルも床もご飯粒だらけ。うまく入らないことにイライラしてだんだん不機嫌になっている横でたこ焼きをひっきりなしに焼き続ける私・・・無理やん。しまった。大失敗。

福と星は「てつだおうか?」「じぶんでやろうか?」「なんかもってこようか?」と気を遣ってくれているけれど、どのお手伝いも微妙にお願いすることができない。たこ焼き機から離れることもできないし。ああ、完全に私の作戦ミス。猛烈に後悔しているところに福の担任の先生から電話。学校でやらかしたらしい。やられた方ではなく、やった方。「はあ・・・バカ息子め」ひたすら謝り、無言でタコ焼きを焼き続ける。福に言いたいことは喉まででかかっていたが、私は現場を見ていないし、家で追い詰めるまでのことだとは思えなかったので(だいたい私に謝ることでもないし)この件に関してはスルー。

「はあ・・・焼いても焼いてもなくならんっ!!」腰に手を当て、たこ焼きを凝視する私は怖かったことだろう。
まんまるにしないと気が済まないから片時も離れることができない。

中断してつばさを寝かせる。たこ焼きを焼きながら福星に本を読む。
で、今。たこ焼きを焼きながらブログを書く。冷蔵庫のビールにもちろん手が伸びる。ごめんよ赤子。

ダンナ氏は何をしているのか。さっさと帰ってたこ焼き焼かんかい!!と思うのだが(タコはすでになくなって、チーズとかネギとかそこらへんにあるもの入れて焼いている。もはやこれはなんや??)
夕方妙にウキウキしながら家に帰ってきて、「ラマダンのごはんに誘われたからいかなきゃ。いかなきゃ。今日は遅くなるわ」と言い残して5分くらいで再び出て行った。会社にモスリムの方がいるのだが、モスクでのラマダンのお祈りが終わったあとの夕食にお呼ばれされたらしい。「あなたは一度だってラマダンのお祈りしてないんだから、そんなおいしいものだけ食べるなんてずるい」と抗議してみたが、聞く耳もたず。「だってラマダンなんだもーん♪」と。(ラマダン後の夕食はめちゃめちゃ豪華で美味しいのだ)やれやれ。だめだこりゃ。

私がアジアの話をする時にぽわーとするみたいに、ダンナ氏はイスラムとかラマダンとかイエメンの話をする時にぽわーとする。その頃のダンナ氏に会ってみたかったな。とそのたび思う。

明日5時に起きて洗い物するから、もう本日閉店!!星の弁当はたこ焼き弁当に決定!!

電力会社を変えました

2017年05月30日 00時09分40秒 | 日々のこと
ようやく、やっとこさ、電力会社を変えることができた。
生活クラブの電気に無事切り替え完了。ああ、嬉しい。これで少なくとも我が家のコンセントは原発につながらなくなった。スッキリした。罪悪感がないことがこんなにも心を軽くしてくれるとは!

といっても、5人家族の一軒家で月の電気代が2,954円。これって高いのか?安いのか?よくわからん。
台所に備え付けてある食器乾燥機はまだ怖くて使ったことがない。便利さに慣れるのが怖いのと、電気を頼る生活に違和感を持たなくなる感覚が怖いのが理由。

お客さんが来ているときに便利だよ。といろんな人に言われるが、私は誰が来てくれても一緒に並んでお皿を洗えるような時間が好きだなー。勝手に台所を使って、おいしいものを「ほれ食べてみ」と作ってくれる関係が好きだなー。
スマホと一緒で便利なのは重々承知しているけれど・・・まあ、今はいらないや。

ちなみに生活クラブの電気は100%自然エネルギー。
いろいろと調べてみると自然エネルギーだから〇(マル)という考えは間違っていることにも気づいたけれど(風力発電や太陽光発電にもデメリットはある)少なくとも原発よりは何倍も何十倍もマシだ。
電気料金を安くしたらお客が戻ってくると関電は考えているようだがそれは違うだろう。少なくともある一定の人たちはもうとっくに気が付いている。原発はいらない。原発に頼る電気もいらない。それなら不便で構わない。電気を使えば使うほど安くなるというシステムは根本的におかしい。高いとか安いの前に、私は生き延びたい。原発事故なんかで生活を奪われたらやりきれない。それだけだ。

さあ、電気を消してもう寝よう。もったいない。もったいない。(笑)

変わっていく、進んでいく

2017年05月29日 06時57分56秒 | 日々のこと
一日の時間の使い方であったり、子どもたちの送迎のタイミングであったり、つばさの昼寝時間をいかにして
確保するかであったり、妊娠に伴う静脈瘤のせいでスカートをはけないことであったり・・・日々の課題は次から次に押し寄せてきて、頭の中はいつもフル回転しているけれど、でもとにかくこれだけは言える。“変わっていくし、進んでいく”

だから、あんまり深く考えずにとにかく今日のことと明日のことを精一杯やるしかないのかな、と。一週間先の懸念事項で今、胃がキュッと痛くなるのは無駄なのだ。

棚上げ事項満載。おおいに結構。

実は引っ越しした翌日につばさが気管支炎で入院というピンチに見舞われた我が家。
あの時は本当に目眩がしたけれど、倒れている場合でも泣いている場合でもない!と自分を奮い立たせて10分で入院準備を整え(まだほとんどの荷物が段ボールに入っていたので私にしか物のありかが分からなかった)自分用の枕とためこんだビックイシューまで突っ込んで病院へ乗り込んだ。つばさは幸い4日間で退院することができたけれど、今回は隔離された小児病棟ではなく、内科の入院病棟だったので、様々なケースで入院されている方をたくさん見かけた。独特の匂い、病室から漂ってくる気配、夜中のうめき声、つけっぱなしのテレビに吸い込まれている人たち・・・どれもが私にとっては衝撃で「子育てなんか・・・ままごとやん。子どもが入院してその付き添いで泊まり込んでいるなんて全然大変と違うやん」と心底思った。今までの育児でで一番辛かった入院付き添いという経験がまさかままごとだったとは。それだけ介護の世界は(するほうもされるほうも)大変そうに見えた。あれからまたひとつ、物事の見え方が変わったような気がする。

入院している間は福も星も春休みでどこにも行き場所がなかった。ダンナ氏に任せていたから不安は全くなかったが、私が「こっちは大丈夫だから。何とかするから。洗濯がたまるとか、私がシャワーを浴びれないとか、そういうのはどうでもいいからとにかく二人のことをお願い。退院するまでもう来なくていいから。」と言ったにも関わらず、一日に一度は二人を連れて顔を出してくれた。兄弟は病室に入れないのがこの病院の規則だったから、来ても二人はつばさには会えないというのに何故?最初は私に気を遣ってくれているのだと思っていた。だから「もう来なくても大丈夫だ。それよりも二人を早く寝かせてあげて」と言った時ダンナ氏が私の目を見て静かに言った。「ちがうでしょ。あなたは大丈夫でも、福と星があなたに会いたいでしょ。ほら向こうで待ってるから」と。病室を出ると、長い廊下の端っこで二人が手をつないで不安そうにこっちを見ていた。手に持っている袋から私とつばさへの手紙と謎の折り紙があふれている。ほんの少しの間ベンチに座って話をした後、じゃあねまた明日ね。と私が病室に戻ろうとすると、二人は「かあちゃん、がんばーれ!」とずっと手を振ってくれた。何度振り向いてもずっと。小さい姿がますます小さく見えた。
私は子どもの何を見ていたんだろ。こんな非常事態になってもまだ、自分のことしか考えていなかったのか、と情けなくてつばさの点滴が規則正しく落ちるのを眺めながらその晩は涙が止まらなかった。(妊婦という生き物は常に情緒不安定)
ダンナ氏が気づかなかったら、そして子どもの気持ちを汲み取って行動に移してくれなければ、とりかえしのつかない思いをさせるところだった。病室から見えていた満開の桜を私はずっと忘れないだろう。






隣の芝生は青いというけれど

2017年05月28日 09時10分21秒 | 日々のこと
新しい出会いがたくさんあった春。自己紹介したり、幼稚園の母さんたちとお茶(!!!)に行ったりすることも何度かあるわけで・・・楽しくもあり、違和感もあり、それはもういろいろ。

つばさとは物理的に片時も離れることはできないわけで、おなかも目立った状態での初めましてはやっぱり印象に残るらしく、いろんなことを言われる。聞き流せばいいだけなのだけど、妙に心にひっかかってしまったり、言い返せない悔しさが澱のようにたまっていくのを感じている。

びっくりするのは、夫の悪口?育児のできなさを馬鹿にしたり、けなしたりする人がこんなにも多いのかということ。
おもしろおかしく言うのはまだ笑えるとして、私がその夫の立場だったら、こんな風に言われたくないなーということがたくさん。どれだけ夫が非協力的なのかを競っているのか?と思うほどみなさん数多くのネタをもっている。夫をけなす人ほど「母親って大変だよねー」と同意を求めてくる。そして私のことを心配してくれる。「見てるだけでも大変そう」「すごいよねー。私にはできないわ」「幸せそうでうらやましいわ」だいたいこの3つ。

あのさ、よく考えてみてよ。
大変だったら子ども3人も育ててないでしょ。絶対に無理だったら避妊するでしょ。それかとっくにセックスレスになってるでしょ。私にはできないわって別にあなたもやってみたら?なんて誰もひとことも言ってないやん。すすめてないやん。ほんで幸せそうでうらやましいって、全然笑ってない目で言われてもそんなん見たらわかるやん。考えたらわかるやん。あなたは幸せじゃないの?自分が選んだ夫と望んだ子どもとの生活はそんなにも不満だらけなの?たいして親しくもない私にペラペラしゃべるほどに。

隣の芝生は青いとはよく言ったものだけど、うちの芝生は青いです。というのは本当に本当に難しい。お互いの不幸自慢みたいなのに安心している自分は小さくてみじめすぎる。それなら叩かれてもいいし、鼻を折られても構わないから「私は幸せ」と言い切ったほうが(多少無理してでも)よっぽど社会の雰囲気は明るくなると思うのだけど、子どもを抱えた小さな母親の輪の中でそのハードルのどれだけ高いことか。

夫のことを(妻のことを)ほめる人が本当に少ないのも不思議。それがこの国の美徳なのかどうなのかはわからないけれど、そりゃ50代、60代になった時、もっさりと輪郭を失った大人が徘徊しているのも仕方ない気がする。異性でなくても構わない。友達同士でも家族でも、もっともっとお互いがお互いを認め合っていることを言葉で態度で表現してもよいのでは。別に減るもんでもないしさ。

夫婦が尊敬しあい、互いを高めあっている姿を見せることで、子どもたちが「大人になっても楽しいんだな」と思ってくれたら、それだけでもう何も伝えることはないと私は思う。将来を脅す必要なんてない。「子どもはいいね」なんて言う必要はない。そもそも子どもはいいのか?子ども時代に感じていた得体のしれない不安や、怒りや、将来に対する心細さ。私はもう二度とあんな不安な年齢に戻るのは嫌だ。子どもはお気楽に生きているわけではない。産まれた瞬間から大人の世界にしっかり巻き込まれている。そこから逃げられない。

そんなに立派な夫婦なのかい?あんたたちは?と聞かれると、モゴモゴ口ごもるかも知れないけれど、それでも私は「幸せだよ」と言い切って、この人生をがっしがっしと歩んでいきたい。連れションしてる暇はないのだよ。残された時間は永遠ではないのだから。







遅ればせながら「ララランド」

2017年05月27日 16時41分35秒 | 日々のこと
4月に観た「ララランド」 重たい腹をえっちらおっちら抱えて久々の夜の外出。
ベビーカーがないだけでものすごい開放感。このままどこにだっていけちゃう!と
スキップしたかったけどそれはできなかった・・・残念。

「ララランド」よかったなー。
冒頭のシーンも素晴らしかったし、後半の切なさといったら。
ロスへのラブレターなのかな、と思うシーンもたくさんあって、無我夢中で歩いたあの街のことを
懐かしく思い出したりもした。21歳だった私。英語が大好きだった恋人と自転車で走った海。
アジアばっかり旅していると言われるのが悔しくて、その負けん気だけで乗り込んだ街。(バカモノ)

映画を観る理由ってこれだよね。と断言できるほど清々しい気持ちに包まれて帰宅。
1か月以上たった今もいくつかのシーンを思い出すだけで明るい気持ちになる。

よくまあ、あのクソ忙しい時に映画なんか観に行ったわ。と苦笑してしまうが
忙しい時ほどいい恋愛できるし、お酒も美味しいし、見える景色が全部くっきり鮮やかに見えるもの。
なんやかんやいうて私は忙しいのが好きなのだ。

次は河瀬直美監督の「光」を観に行きたい。カレンダーとにらめっこしながら、いつこの日常から
抜け出せるのか息をひそませてその時を狙いたい。