旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

自分の頭で考えること

2020年03月27日 18時13分46秒 | 日々のこと
頭からシュワーーと水蒸気があがってきそうな今日この頃。

「何が正しくて、何が正しくないのか」
「何をしたらよくて、何をしたらダメなのか」
「今をどう生き抜くべきなのか」

そして“信頼できる情報はどこにあるのか”という大きな疑問。

自分の頭で考えることが大事なことはわかっているが、私は自分の
性格の浅はかさを嫌というほど知っているので、自分で自分の考えたことが
正しいのかどうか全く自信がない。(もう40歳こえているというのにこの有様)

今日子どもたちと車のテレビでニュースを見たのだけれど福が
「なんか、これ怖くなるだけやから消してほしい」
「この人の喋り方、なんかおかしい。嘘な気がする」と言い切ったので
びっくりした。昔からそういう変な勘が働く子ではあったけど
(居心地のよくない店に入るといつまでも泣き続ける。変な人に会うと
絶対に目を合わせない。窓のない授乳室では乳を飲まない赤ちゃんだった)
子どもはその人が話している内容ではなく“声色”で判断してるんだな、と
深く納得した。
そういえば私も言葉の通じない海外に出るとその人の声色や
話しているときどこを見ているか、とか、どれくらいのスピードでしゃべりかけて
くるのか、とか、その時の表情や手のしぐさで何を伝えようとしているのか
判断しているから、それと同じってことか。納得。

アメリカの医療現場の最前線で働いている友人からメールが届いていた。
「とにかく家から出ないで。とにかく家にいて。」「Stay Home!!!」
彼女の住む街では公園もビーチも完全に封鎖されているそうだ。

晴れた日はのんびり海で過ごしていることが多い私たち。
ビーチが封鎖された淡路島は・・・厳しいなあ。
雨がやんだら、畑の草むしりに励みますか。

そして、最近毎日毎日思うことがある。
私たちが置かれている状況は「ウイルス」との闘いであって、人間と人間が
争っているわけではなく、人との接触を防げと言われているだけである。

もしこれが戦争だったら。家がなかったら。言葉が通じない国に難民として
逃れる身だったら。今の冷静さを私は保つことができただろうか。

そして福島の人たちのことを思う。
あの時、あの人たちはウイルスではなく「空気」と闘う状態だったんだ。
公園で遊ぶ遊ばないの選択どころではなく、窓も開けることができなかったんだ。
換気扇をまわすこともできなかったんだ。逃げても逃げても「空気」から逃げることは
できない。気持ちのよい春の海を眺めながら、空気を水を汚染された人たちのあの時の
気持ちを思うと、胸が締め付けられるのだ。

それに比べたら、あるものを食べて、(とりあえず今は元気いっぱいの)家族一緒に
朝を迎えることのできる日々なんて、なんてことない、とも思うのだ。

なんてことあるけど、なんてことない。

できるだけそんな風に、心を正しい場所にとどめて、この状況を切り抜けたい。

それにしてもこの世界のありかたが変わるような一大事を誰か一人でも
今年始めの占いで当てた人はいないのだろうか。
どの占いをみても今年は山羊座にとって12年に一度のラッキーイヤーなんだけど
なにひとつ変化ない・・・私の人生を左右する一大事は一体どこへ??
まさかそれがコロナ??

スリリングな日々はまだまだ続く気配だけれど、それぞれの持ち場でできることを
できるだけ機嫌よくやっていけますように。





おいでよ

2020年03月07日 22時33分49秒 | 淡路島のこと
「学校休みになって子どもの体調が悪くなった」
「日に日に子どものエネルギーが落ちていくような気がする」
「どこにも行けなくて一日中家でかわいそう」
「電車に乗るのがこわい、周りの人の反応がこわい」
「一人っ子だから、遊び相手がいなくて一日中一人遊びをしている」

こんな声がリアルに届いてくる。

いろんな考え方があるのは当たり前。どの意見もどの角度でとらえるかによって
180度意味合いが変わってくるから、ここで多くを述べることはしない。
私のことを知っている人は、なんとなくわかってくれると信じているから。

うちに来たら、遊ぶ場所はいくらでもありますよー。
衣食住の心配はありません。おいしいもの一緒につくって食べよ。
レンタル子どもそろってます(笑)タイミングがあえばレンタル父ちゃんも可。
もちろん私のことも自由に使ってくださいー。

以上、ようは春めいてきたので、遊ぼうぜー!あわよくば飲もうぜー!という
お知らせでした。ちゃんちゃん♪

あっ、本日無事にパスポート更新することができました。脱出準備完了。
行きーはよいよい、帰りは・・・入国できない??まさかー。いや、ん??ありえる??


学ぶこと。学びあうこと。

2020年03月05日 23時22分19秒 | 日々のこと
「学校と塾の一番大きな違いは
 学校は“学びあう場所” 塾は“学ぶ場所” です。」

福の一年生の時の担任の先生が、入学してすぐの懇談会でおっしゃた言葉だ。
ストンと心に落ちて、ずっとこの言葉を大事に持っていようと思ったのを覚えている。

だから、学ぶだけの目的であれば塾でもいいし、ホームスクーリングでもいいし、
独学でも構わないということ。学校の目的はクラスメイトと、先生と、地域の方たちと
「学びあう」ことでその年齢に必要な知識を吸収していくことだと。

今、この国の子どもたちが置かれている状況に日に日に疑問と怒りが深まっていく。
「ネットで授業配信したらいいのでは」
「ホームスクーリングのお試しになってよいのでは」
「タブレット教育を今後推進していくにはいいきっかけになるのでは」
「誰もが誰も学校に“登校”するという前提がおかしいのでは」
「塾あいてるし、普段から学校には期待してないからそんなに危機は感じない」
そんな声もあちこちら聞こえてくるが、じゃあ、言わせてもらおう。

今のこの状況は【ゲームやりたい子のゲーム機から電池を抜いてるようなもの】
【タブレットで勉強しようとしてるのにネットに接続できないようなもの】
【塾に行こうとしたらいきなり倒産して塾ごとなくなったようなもの】

私にはそんな風に思えてならない。

家でプリントをしている子どもたちの表情に授業参観でみたようなイキイキさは
全く感じられない。うちの家のトランポリンに集まってくる中学生たちは明らかに
エネルギーの放出先を失って、変なハイテンションになっている。

お昼ご飯を一人でチンして食べた子、今日この国に何人いたんだろう?
やりきれない。

政治が暮らしに直結していることを頭では理解しているつもりだった。
でも、こうして適当に決められた政策に、ドカンと日常を乗っ取られると
どうやって動いていいのかさっぱりわからなくなる。
結局私もゆるゆると日常を疑うことなく“平和ボケ”していたその一人でしか
なかったのだと呆然としている。

保育園を開けている理由はなんや?
学童と教室とどっちの方が接触度が高いか、知ってるよな。
(政治家は知らないとでも?じゃあ、今すぐ視察しろ)

「でも、しゃーないよな。こんな時だから」

こんな時ってどんな時?黙って言うことを聞かなあかん時なのか?
誰が決めた?それ本当に自分で考えた?
せめて、専門家の意見をもっともっと公表してほしい。自分で判断する基準が欲しい。

で、なんでこの国には小学一年生の子どもにわかるように、今回の休校を説明しようと
する大人がどこにもいないのか??当事者はこの子たちだ。
子どもはもっと直感的な感覚でこの空気をじゅうぶん理解している。
大人のやることをみている。先生がやることをみている。そして自分の頭で考えている。
その年齢なりに現実としっかり向き合っている。

学校は全ての子どもにではなくても、確かに子どもの「居場所」なのだ。
学びの場をいとも簡単に奪われた子どもの尊厳はどこにあるのか。
それをずっと考えている。