旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

ただ(無料)ってことは・・・

2018年03月12日 12時01分00秒 | 淡路島のこと
ただ(無料)って「もらうこと」だと思ってた。

淡路島で暮らし始めてから、ただでモノをいただく、何かしてもらうことが増えた。
そのたびに本当にありがたい気持ちでいっぱいなのだけれど、ただっていうのは
「もらうこと」ではなく「差し出すこと」「ひきうけること」なんだと考えるようになった。

そう考えるようになると、簡単に頭をさげるばかりではいかんなーと思うようになった。
私は代わりになにを「ひきうける」ことができるのだろう。

地に足のついた生き方をしている人たちが周りにたくさんいる。
古新聞の結び方すら「ほほう」と二度見してしまう。あんなにヨボヨボ(失礼)やのに
どうしてこんな頑丈で美しい結び方ができるんだろう。とほれぼれしてしまう。

「今晩は風が吹くよ」と言われて、家の周りの落ち葉を掃き集める。畑の野菜を早めに収穫しておく。
散らばっているいろんな道具を物置に片づける。それだけで半日過ぎる。
溝に網がきっちりかかっていること、畑の道具が物置にきっちりのサイズで収納できるように
作られていること、「ここにほうきがあればなー」という場所にスッとほうきが置いてあること、
塵取りが板で補強されていること、100均の便利グッズはどこにもないけれど、ひもとネジとくぎで
あらゆるものが工夫されていること、「暮らしの手帖」の世界を垣間見ているようで感動する。

“ただ”って卑しいものではなくて、人は本来あげたいものだし、もらいたいもんなんだよな、と
シンプルに思う。ここでは「あげる」と遠慮せずに言うことができる。そして「ちょうだい」と
言うこともできる。その裏の思いを勘ぐったり、計算したりすることなく、それができることが
どれだけ心を豊かにしてくれることか。

うーん。非常に奥深い。
老人の顔が都会とは全然違う。人生で積み重ねたものが顔に出るのだとしたらやっぱり日常のこの
“ただ”の交換はとても大きい役割を担っているように思える。

私はここで歳をとりたい。「差し出す」ものをみつけたい。