東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

馬込からの古道、田無街道~その四:萬福寺(1)

2015-04-05 19:19:49 | 大田区
前回の神明神社の辺りから、最初の時計塔のある家の通りに戻って、更に坂を下っていくとこの寺の裏手に出る。裏からと言うのも何なので、表に回って順番に見ていこう。このお寺は萬福寺といい、鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)の創建という古刹である。少し前に掲載した朝日観音もこの寺の一部のようなのだが、その辺りの説明が探しても見付からない。
門前の辺りは、尾根筋から下ってきた道と環状七号線方向へ伸びていく道が交叉しており、更にこの寺の参道もあって、五叉路になっているところがある。


最初に目に入ってくるのは、萱葺きの山門。斜面にある寺。
「江戸時代名所図絵に「慈眼山萬福寺馬込村にあり、曹洞宗の禅林にして本尊は自然銅阿弥陀、観音、勢至、一光三尊なり。相伝う当寺は梶原平三景時創立の梵寺なり」とあります。当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により、大檀那となり、梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として、大井丸山と言う処に建立されたのが始まりです。
 元応二年(1320年)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建されました。」(萬福寺サイトより)
最初に建立された大井丸山というのは、以前にここで紹介した現在の品川区東大井三丁目辺りであったようだ。今も梶原稲荷神社がある。


慈眼山の扁額。
「室町時代末期になり、寺域が荒廃し、天正三年(1575年)に相模鎌倉の禅僧明堂文龍大和尚によって、従来の密教寺院から曹洞宗に改め再興されます。
 江戸時代の初期、慶長十一年(1606年)に梶原家の後胤、安部家久が梶原一白斉、助五郎の逝去に当たり、荒廃していた開基梶原景時の墓と共に一白斉の墓を建立し供養しました。」(萬福寺サイトより)


山門を潜ると左手には馬の銅像がある。
「名馬「するすみ」の像
 当山開基梶原景時は源氏の武将その子梶原源太景季は父共々源平の合戦に出陣して数々の武勲を上げた。頼朝は恩賞として頼朝の名馬「するすみ」を景季に「池月」を佐々木高綱に与えた。宇治川合戦での先陣争いは名勝負としてあまりにも有名である。
 その「するすみ塚」は当山南二丁の処(南馬込三丁目臼田坂上)に祀られている。
 その昔馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んであった。「するすみ」は馬込の産とも云われて生地に葬り祀ったと云われている。
 「するすみ」の紋所は鎌倉殿の「源氏笹りんどう」である。
 この「するすみ」の像は当山創建八百年を記念して供養のため梶原家ゆかりの当山に建立したものである。
 昭和六十一年秋彼岸会  萬福寺護持会」
「するすみ塚」は通りから入った所にあったそうで、見逃してしまった。


右手には閻魔堂がある。昭和28年に建立されたもの。


萱葺きのまま残されているのは珍しい。銅葺きに改修されている例はよく見掛ける。


奥には無量門がある。こちらは瓦葺きのもの。平成十年に作られたもの。


元々はこちらの鐘楼門が入口になっていたらしい。平成九年に移設したとある。


これも平成10年に作られた魔尼輪堂。景時公八百回記念事業として、色々造ったということのようだ。


日待供養塔という。
「日待供養塔 大田区文化財
 この供養塔は、寛永十五年(一六三八)に馬込村の人々が造立した。
 高さ三・一メートル。現在は新しい台石の上にのせられ、総高約四メートル。相輪が大きく、笠石・基礎が比較的小さい、近世初期によく見られる形式の宝篋印塔である。
 昭和三十年頃までは、中馬込三丁目二五番地附近の梶原塚と呼ばれるところに建てられていたが、今は当寺の境内に移されている。
 馬込では大正期まで日待の習俗が行われており、江戸初期から現代まで伝承された民間信仰の資料として貴重である。
 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

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