東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

ブラタモリ~江戸の運河・後篇を見る

2012-02-24 22:27:14 | ブラタモリ
さて、先週に引き続き江戸の運河の後篇。しかし、二週続けてテーマを通していって江戸の運河が川向こうだけというのは、どうにも収まりが悪いように思えてしまう。やはり、旧京橋区、日本橋区、神田区とも運河が区内を巡っていたわけで、そこには全く触れないままでテーマを通してしまうことにどこか居心地の悪さを感じてしまう。やはり、小名木川とか、深川とか、土地をメインにしていった方が収まりがいいのではないだろうか。

小名木川が江戸の物流の拠点であったことは確かだけど、上方からの荷物というのは小名木川を通らなかったのではないだろうか。江戸の物流のどの程度の割合が上方からの荷物であったのかは手元に資料がないけど、大阪という都市の役割と上方の洗練された商品生産が江戸という一大消費地を背景にしていたことは確かだろうと思う。全国の物流を小名木川で押さえたという説明をされると、少々違和感があった。
番組でも出て来た小名木川クローバー橋。


そこから北側を望むと、スカイツリーが聳えている。


直ぐ近くには、猿江恩賜公園がある。この公園は元々江戸幕府直轄の貯木場だったところで、明治維新後も政府の貯木場であったところ。


昭和7年に公園として南園部分が開園した。北園が開園したのは、1980年代になってからのこと。


そして、横十間川の大島橋を渡ったところに小さな公園がある。そこには石碑がいくつか建てられている。そして、この公園前の通りを釜屋堀通りという。「東京・遠き近くを読む(10)谷崎潤一郎の日本橋」でも触れた谷崎の祖父が大番頭を務めた釜などを鋳造する店がこの辺りにあった。


大きな石碑には、この地が明治中期以降人口肥料生産を始めた土地であると記されている。工業生産地域として、まずはこの辺りが発展していったことを示すものと言えるだろう。いまは、小名木川沿いはすっかり工場とおぼしき建物は姿を消していて、その跡地に出来たであろうマンションが建ち並ぶところになっている。


そして、富岡八幡。私の仕事上の師匠が木場の出身で、あまり深川に馴染みのなかった私に色々と深川の良さを教えてくれた。直ぐ隣の深川不動の参道にある其角という煎餅屋は、薄く堅く、塩辛いという江戸好みの美味しい煎餅屋だ。参道入口の伊勢屋は昔からの親しみやすくて手頃な値段で美味しいものが食べられ、下町らしく惣菜として持ち帰ることも出来る。とにかく、気の利いた店が多いところという印象が強い。
そして、深川といえば鰻の宮川というのは明治の頃の話ということになる。深川の宮川といえば、市中でも知られた鰻の名店であった。この店を継いだのが、宮川曼魚という江戸文化の研究で知られた人物。黄表紙や洒落本の収集で知られた人だけに、書くものも軽妙でとても面白い。そして、この深川宮川が廃業したことで、暖簾分けした築地の宮川が本店となり、今では東京中に出店を持つまでになったというわけである。

番組中で、江戸初期の頃の深川の様子が出て来たが、やはりこういった所を見せて貰えるのが面白い。自分の興味で追いかけているところには詳しくなっても、見ていない部分で改めて見せて貰えるとなるほどと思う。

とはいえ、今回の番組はやや薄味感があったようにも思う。運河や貯木場の話までしておいて、それを背景にして出来た深川という町のキャラクターを掘り下げる方向に行かなかったのは少々残念。やはり、なんといっても木場という存在が、深川という土地を決定したといえるのではかなかろうか。先に触れた私の仕事の師匠も、中学生の頃に近道をして帰ろうと木場の丸太の上を渡っていたら、足元の木がくるっと回って、そのまま水にずぼっと落ちたことがあると話してくれた。そんな水辺の近しさであり、また木場の材木商の旦那衆という存在が大きかったことはいうまでもない。江戸の商人というと、日本橋界隈の大店を筆頭にしっかりと締まり屋でというのが通り相場と言えると思うが、木場の旦那衆といえば粋で鯔背で気っ風で生きる男という印象が強い。「東京・遠き近くを読む(8)大川端」で若き日の小山内とおぼしき主人公に、遊びをの手ほどきをするのも深川の材木問屋の若旦那である。そして、その贔屓を受けて育ったのが辰巳芸者であった。江戸の粋の象徴的な存在とまでいわれたのが辰巳芸者である。

小名木川沿いの北側、今の都営新宿線沿線が少々地味なのに対して、深川は華やかで強い色合いを持つ土地柄と言えるだろう。

また、川の上に高速道路を通すのは都心部では常套手段であり、それが故に日本橋がかくも無残な有様になっていることはいうまでもない。外濠でも首都高速の出入り口の下で、突貫工事で雑に突き崩された石垣がそのままにされている所なども今でもある。築地あたりでは、築地川を干した跡がそのまま高速道路になっているところもあるし、首都高は江戸のカーブで出来ているものなのだ。

埋められた川の後が、公園になっているケースは多い。綺麗に整備されて、運河であった歴史を偲べるようにして貰えれば上出来。


木場は1969年に新木場に移転し、跡地は広大な公園や美術館へと変わった。それでも、町を歩くと材木商のお店がある。


材木屋さんらしく、しっかりとした木造家屋。江東区は戦災による被害の大きかったところ、それだけに戦前からの建物などはほとんどのこっていない。


これも元々は材木屋さんの倉庫だったと思われる建物。


そして、川は埋められ、橋は消えていく。


次回は新宿誕生編とのこと、ここも大きく変わっていった土地だけに楽しみである。期待したい。

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