東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

馬込からの古道、田無街道~その五:萬福寺(2)

2015-04-06 21:57:47 | 大田区
前回に引き続いて、南馬込の古刹萬福寺を見ていこう。無量門を潜って境内に入ると、目の前にあるのが本堂。木造の立派なもの。年譜によると、関東大震災では東海はしなかったものの大きな被害があったらしい。大正15年に草葺きであった本堂を、銅葺きに改修したと出ている。現在の本堂は、平成17年に木造復元工事として新築と出ている。この寺の中でも、一番新しい建物。


扁額。天井に照明が埋め込まれていて、手の込んだ造り。


境内の景色。この寺には、日蓮聖人にまつわる話が残されている。
「「弘安五年(1280年)九月十八日聖人参籠」
 ある秋の夜のことでした。庫裡の雨戸をたたく風の音の中になにやら人の気配があります。寺のものが出てみると一人の武者が立っていました。一夜の宿をというので訳をきくと、重病の聖人をお連れしているといいます。これは池上へ向かう途中の日蓮聖人の一行でした。侍僧と武者に抱きかかえられた聖人は、疲れ切って身体を動かすのもままならず、激しい痛みに苦しんでおられたので、すぐさま堂内へ運び、さまざまに介抱してさしあげました。そして「これから行かれる池上は近いところですが、このように病気の重いお身体では夜道は無理でございましょう。まずはよくお休みになり、明朝にご出立なさいますように」と申し上げました。
 翌朝、まだ痛みが続いてつらい中にもようやく身を起こされた聖人は、ずっと身につけてきた鬼子母神の尊像を侍者に持たせ、当山の住持に「私は大志をもって、名を万夫にあげ誉れを後代に著わそうと覚悟を決めて一宗を開きました。池上村で養生し、病気がよくなりましたならば鎌倉へ行きたいと思っておいます。これからはお互いに助け合ってまいりましょう。」と申され、尊像を寄進して池上村へ出発されました。
 後日「馬込村には私の宗旨は広めません。」との言葉が伝えられ、以来当山と本門寺との親交は深く、事実この大戦まで馬込には日蓮宗は一ヶ寺もなく、池上にも曹洞宗は一ヶ寺もありおませんでした。また、「本門寺建てかえの時には萬福寺から屋根用の竹が寄進され、本門寺奥殿には萬福寺席が常置されていた」と伝えられています。」(萬福寺サイトより)
本堂の隣には、洗心閣。このお寺の総受付になっているという。


そして、その鬼子母神に纏わるストーリーも興味深い。
「萬福寺の鬼子母神
総檀中の心願により霊跡塔を建立した処その念願成就して鬼子母神現る。誠に不思議なる因縁なり。昭和初期の荒廃時に当山を離れてより風説五十年。その間所処を転じ、いみじくも聖人の足跡を辿って身延近き富士吉原に在りしが諸行無常なり。故に自ら法輪を転じ聖人の意志である本来の鎮守たる馬込の萬福寺に無事帰山した。是正に神通力による奇蹟なるべし。時恰も聖人の七百回忌なり。鬼子母神の霊験かくの如くあらたかなり。
本鬼子母神は日蓮聖人が参籠された九月十八日の翌朝謝誼として持佛を奉納されたものと伝えられている。
当山では堂宇の守護神として歴代の住持が護持相伝したもので馬込の貴重な文化遺産である。
昭和六十二年十月吉祥日 曹洞宗 萬福禅寺」(境内の案内板より)


「魔術の女王 松旭斉初代天勝の墓
 初代天勝(本名・中井カツ)は日本一の魔術師松旭斉天一の弟子として入門。十一才の春初舞台、十六才で欧米巡業の旅に出て二〇才で魔術の女王と謳われ、明治・大正・昭和の三代に亘り一世を風靡した。
 天勝劇団は百名に及ぶ座員これを率いて国内始め欧米諸国を長期公演すること数十回、その名声は日本の天勝から世界の天勝へ飛躍す。
 震災後、後藤新平東京市長の要請により海外からの見舞御礼としてハワイ・シスコ・ロスを興行中、人気沸騰して全米を圧し、遂に念願のニューヨークの檜舞台に上る。この間一年有半となる。
 大正十四年四月帰国。帝劇で帰朝披露をなし見事ダイヤの女王時代を築く。この時初めて我が邦にジャズダンスとレビューを入れて天勝の全盛期を迎える。戦中は国のため滅私奉公として国内・朝鮮・満州・支那の奥地まで悉く巡業慰問したことは特筆すべきものである。
 又、日本の伝統文化を広く海外にPRした民間外交の先駆者でその功績は偉大なもので枚挙に暇がない。
 天勝の舞台生活四十年、昭和十九年十一月十一日、目黒権之助坂水明荘にて六十年の波瀾万丈の生涯を極めた。しかし天勝の芸魂は不死鳥の如く日本芸能界に異彩を放っている。
 中井家の菩提寺西徳院に埋葬されたが三橋支配人の「天勝を残す会」がもたれ当山及高野山に分骨され魔術の女王としての面目躍如たるものがある。
 ●三橋支配人は、泉州の生まれ堺段通の貿易商でロスに店をもった成功者である。成駒屋(先代雁次郎)の幼な友達で川上音次郎や上山草人と別懇の仲であった。当時渡米した芸能人はこの人の世話にならない者はなかったと云われている。特に天勝の人柄と至芸には心底から惚れ込んで親身の世話を生涯した人である。
 昭和六十一年秋彼岸 萬福禅寺」


「徳川幕府棟梁 木原義久之墓
 徳川家の木工頭で木原家は元来尾張にあったが徳川家康の上洛と共に江戸に入り大森山王高台を木原山と称して所領し邸を構えて永く江戸幕府の棟梁を務めた。その主な建物は次の通りです。
 一、日光東照宮の奥ノ院及び御廟
 二、上野寛永寺の徳川家御廟
 三、浅草寺の旧本堂
 四、上野東照宮の社殿(拝殿内に掲げてある棟札には義久の名前がある)
 五、赤坂の山王日枝神社旧本殿
等が代表的なもので現存のものはすべて国宝・重要文化財となっている。
 一族のうち義久、義永の二代が最も有名であるが、その後幕末まで地頭。代官を務めていた。
 昭和六十一年秋彼岸会 萬福禅寺」
幕府の木工頭として功績を残している反面、木原家は所領では厳しい領主であった面も持っている。過酷な年貢のために、領地は荒廃し、直訴を思い立った領民が命を落としてもいる。新井宿義民六人衆の話を知ると、複雑な思いでこの墓を見てしまう。


この寺の墓地も尾根筋から下ったところだが、谷に向いた斜面にあることが分かる。


そして、墓地の中央の小高いところに木々が茂っている。


「当山開基 梶原平三景時の墓
 梶原景時は源頼朝の重臣で鎌倉幕府の代表的武将である。治承四年(一一八〇)頼朝は伊豆において源氏再興の挙兵をなし小田原石橋山の戦いで平家の軍勢大庭景親に敗れた。この時景時はいち早く頼朝を助け洞穴にかくまい機を見て真鶴海岸より舟で安房(千葉)に逃れさせた。その後、頼朝と共に東国武士を臣属せしめて鎌倉幕府を擁立した。建久年間(一一九〇)には頼朝の命により当山を建立し大檀那となり三国伝来の三尊像を本尊として祀り鎌倉殿の昌運と必勝祈願をなした。その霊験あらたかなり。源平の戦いでは義経・範頼等と共に兵を率いて富士川の戦・一ノ谷の合戦などで勝ち赫々たる武勲を上げその名を天下に轟かす。
 景時は鎌倉殿の絶大なる信任により頼朝の随臣として常に幕府の要職にあり終生変わらず頼朝に忠節を尽し全うした。最も頼朝は命の恩人である景時がいなかったら頼朝もなく鎌倉幕府もなかったと言われている。景時の功績は大きく実に天下を揺るがすものであり誠に美事と言わざるを得ない日本の歴史上重要な人物の一人である。頼朝薨去(一一九九年)後の正治二年正月二十日(一二〇〇)三河、今の静岡で壮烈な戦死を遂げ当山に祀る。歌舞伎十八番の石切梶原の鎌倉八幡宮頭の名場面は余りに有名である。
 昭和六十一年秋彼岸 萬福禅寺」
寺の縁起を読むと、景時が戦死した後、13世紀中頃にここに墓と阿弥陀堂を造ったという。その後、14世紀になってから大井丸山にあったこの寺がここへ移ってきたという。


「室生犀星(1889~1962) 詩人・小説家
俳号魚眠洞。金沢生。俳句や詩を学びながら放浪生活の後、詩誌【感情】を創刊。その後小説にも目覚め、詩人・小説家として活躍する。主な作品には、【藍の詩集】【叙情小曲集】【幼年時代】【あにいもうと】【杏っこ】などがある。1928年大森区馬込町谷中に在住。1932年馬込東3丁目萬福寺西隣に新居を構える。1962年3月26日、やすらかに永眠天寿74才。没後「われはうたへどもやぶれかぶれ」が刊行された。この度縁在りて犀星がこよなく愛した庭石をもって坪庭を復元しゆかりの句碑を建て往時を偲ぶものなり。
 1995年6月吉祥日  室生朝子 高野量有 萬福寺山主・安本利正 萬福寺護持会 総檀中」
犀星というと、馬込に来る以前には田端の文士村の住人であった。佐多稲子と窪川鶴次郎の「驢馬」の同人に纏わるエピソードなど知ると、犀星という人の優しい包容力のある人柄を感じる。震災後、芥川龍之介の自死の後に馬込に移ってきたというタイミングのようだ。

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