東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

番外編~広島県呉市豊町御手洗~その七

2013-08-18 22:45:23 | 東京以外の町
御手洗については、前回で終わりと思っていたのだが、やはりもう少し町の概略などについて、まとめておいた方が良さそうだと思い、もう一回書いてみることにした。この町のことを網羅した「瀬戸内御手洗港の歴史」後藤陽一編より引用、或いは要約を掲載している。
私がこの町を訪れたのは、私の曾祖父がこの隣の愛媛県今治市岡村島の出身で、明治の早い時期にこの御手洗の港から船で大阪へ出て行ったという経緯があったからである。その後、曾祖父は東京に出て来て、商売をするのだが、この港町から旅立ってきてくれたので、今の私がいるわけで、何とも不思議な気持になる。いまは岡村島にも親類は居ない。

御手洗の歴史
「幕府は寛文十二年(一六七二)河村瑞軒に命じて日本海沿岸航路の改修整備をはからせたので、東北・北陸・山陰方面からも容易に内海航路を経て大阪に達することができるようになった。かくて、内海航路は従来の内海諸地域や九州沿岸各地の舟運のみならず、東北・北陸方面から来るいわゆる北前船を加えて、年とともに活況をましていったのである。」

 この辺りの事情は、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読むと、よく分かる。航路整備と共に、丈夫な帆布の開発と船磁石の普及によって、航海術が大きな進歩を遂げたことも、北前船の全盛期を呼び起こす大きな要因になっている。ちなみに、北前船の最盛期というのは、江戸時代ではなく、明治になってからであるという。維新後の時代でも、動力船が大規模輸送をになう時代になるのは、かなり後の話であって、どんどん大規模化していった和船による北前船の輸送は永らく続いていたそうだ。

 この航海術の進歩によって、それまでの地乗りと呼ばれた沿岸航海から、沖乗りという直線的なコース取りをした航海へと船の航路も転換していくことになった。これによって、斉灘を行く船が増加していくことになる。瀬戸内海は、潮の干満によって流れが反転することになるのだが、これが日に二度切り替わることになる。そこで、帆船はその行方によって、この潮目の変わるタイミングに合わせて航海をする。風待ち、潮待ちというのは、そういった意味合いなのだが、その待避港が必要とされることになる。



 安芸藩領の大崎下島は、その隣の松山藩領の岡村島との間に南北方向の瀬戸を持っている。瀬戸内海の大きな潮の流れは東西方向に起きるので、その流れに直角の方向の瀬戸は比較的、その影響を受けにくくなる。つまり、潮待ちをするのに都合の良い海面ということになる。この恵まれた条件に気が付いた船が最初に潮待ちをするようになった。そして、その眼の前の大長の農家が、この船に水や食糧など、供給することを始める。そして、港として恵まれた条件を備えていることに多くの人が気付くようになっていく。
 江戸時代には、農村の人が町へ移ることは厳しく規制されていた。農業を捨てることは許されないことでもあったのだが、ここに新しい港町が造られていくことは、地元の協力無しには有り得ないことでもあった。海の際まで山が迫るような地形の中で、僅かな平地を活かして御手洗の港町が造られていく。この最初が、寛文6年(1666)のことであった。大長村から移住してきた人たちが家を建てたのが、この年であった。その後、約百五十年の間で御手洗は人口千五百人、総戸数三百この町へと成長している。



 沖乗りが主流になっても、幕府の公の御用では安芸地乗りのコースが公式だったのだが、現実には沖乗りのコースを行く船が多くなっていた。御手洗に立ち寄った公船にどんなものがあったのかというと長崎から江戸へ参府するオランダ人を乗せた船、漂着した南京人やその他異国人を長崎へ送る船などの外国人の寄港を始め、将軍へ拝謁のため江戸へ行く琉球王の使者を乗せた船、江戸や大阪から隠岐・天草へ連れて行く流刑人を乗せた船、長崎奉行を初め、四国等の幕府直轄領へ往復する幕府役人等を乗せた船などが、御手洗へ寄港していた。
 当時は外国人に接することがほとんど無かった時代だが、御手洗の人々はオランダ人が足跡を残している。文化十一年(一八一四)にも文政元年(一八一八)にも、オランダ人が若胡屋で遊んだ記録が残っているという。文政九年(一八二六)には、ドイツ人医師であるシーボルトも、江戸からの帰途、六月二十四日に御手洗に寄港し、数名の町民の依頼に応じて診察をしたという。
 鎖国体制下であっても、御手洗ではこんな風に西洋人に接していた訳で、この辺りも人やものだけではなく情報も最先端を走る、海の道沿いに出来た町らしいものだと思う。

 北前船の特徴として、単純に荷請けしたものを最終目的地へと運ぶと言うだけではない、寄港地ごとに積荷の売り買いを繰り返していくという、ただの貨物船ではない、動く商家とでも言うべき機能がある。これによって、北前船の寄港地は、それぞれが貿易を行うようになっており、その利益も大きなものになっていた。港周辺の特産物などを売り込んでいたことは勿論だが、船から買い取った品物を別の船に転売すると言うことも盛んに行われて、そういった取引で巨大な富を築いた者もいた。

 そして、御手洗の名を全国の船乗りに知らしめていたのが、王子には四軒あったという茶屋である。明和五年(一七六八)に御手洗の全人口五四三人のうち、九四人が若胡屋、藤屋、海老屋の遊女であったという。蒲刈に籍があるので宗門人別帳に記載されていない堺屋を加えると、一二〇~一三〇人の遊女がいたことになる。全人口の二割以上が遊女で占められていたわけで、御手洗という町の特異な有り様が感じられる。
「文化文政頃の遊女の生活を藩府に報告したものによると、「遊女は足懸け一二年満一〇年が身売りの期限となっていて、平常のつとめは、昼間は「かり」といって、宿屋や船へも遊びに行き、夕方より茶屋にて「夜店」を出して、当時の流行歌を唱い、三味線や胡弓をひいて客を待った」と、その風俗を伝えている。(国郡志御編集下弾書出し帳)」
 御手洗港を素通る船は
 親子のりか金なしか  (櫓音頭)
とうたわれたという。

 ペリー来航以降の幕末の動乱期には、御手洗の港も瀬戸内海がその動乱の舞台の一つなっていったように、激動の時代に巻き込まれていった。御手洗の町役人が郡役所へ報告した記録にも、異国船の航行が記されていた。
 文久二年         フランス船御手洗へ停泊、薪を売る
 元治元年八月二十一日   異国蒸気船十二艘沖合を上筋へ向け通行
 元治元年九月一日~二日  フランス船一艘碇泊、異人上陸、上筋へ向け出帆
 元治元年九月六日     異国蒸気船二艘下筋より沖合通過
 慶応元年二月一日~二日  フランス船一艘碇泊(長崎を一月二十八日に出発し、横浜へ向かう途中)
 慶応元年七月一日~二日  イギリス商船二艘碇泊、異人上陸、上筋に向かって出帆
 このうち、元治元年八月二十一日の十二艘の蒸気船が沖合を航行していったというのは、下関を砲撃した後の艦隊が航行していく姿で、恐らくは下関で起きたことも御手洗には直ぐに伝わっていたことだろうし、激動の時代を皆肌で感じとっていたことだろう。
 幕末には、維新の志士の来島も多かったようだが、後に有名になる人々の無名時代であったこともあり、吉田松陰が立ち寄ったこと、七卿落ちの三条実美などの名が知られているくらいであるとのこと。

 慶應三年十一月二十五日長州軍は家老毛利内匠指揮のもとに、奇兵・遊撃・整式・鋭武・振武・鷹懲・第二奇兵の七隊が二艘の帆船に分譲し、汽船鞠府号に先導されて三田尻を出帆し、翌二十六日夕方御手洗に来着した。広島藩からは、これと会合するため、諸兵総督岸九兵衛以下お歴々や少壮志士が兵一五〇余を率いて、二十四日汽船震天丸に乗って広島を出帆し、御手洗で長州軍の来るのを待った。そして、二十六日夜金子邸において長州との約定が結ばれ、その夜震天丸を先発として、長・芸連合の倒幕軍は京阪へ向けて出発した。これが有名な御手洗条約である。

御手洗条約の結ばれた金子邸。


中は非公開なのが残念。案内看板が出ていた。


 こうして、広島藩は倒幕側に付いたことで、維新後も御手洗の町には大きな変化はなかったようだ。お隣の岡村島は伊予松山藩領であり、親藩の松平家であったことから、維新後は長州藩の統治下に置かれ、長州征伐に出兵したことの報復を島民が恐れたという。その後、土州預かりとなり、藩主が蟄居して詫びたことで、許されることとなっていく。この辺り、西国でのやり方と、東国でのやり方に大きな隔たりがあり、結果的に多くの血を流すことになったことは多くの人の知るところである。

伝承 遊女とおはぐろ
「今からおよそ百六・七十年前、御手洗の港には千石船が幾艘か入港して、北陸米の陸揚げをしていた。朝から沖仲仕の勇ましいかけ声や、威勢をつける太鼓の音が、幾棟も立ち並んだ白壁造りの米倉に響いていた。大きな船の間を縫うように、オチョロ舟が、櫓の音をきしませながら、忙しそうに漕ぎ回っていた。揚屋の女主人公は昼間から、女共を口やかましく叱りながら、今宵の船頭衆のために、余念なく支度をしていた。
 北前船が入港すると急に町中がざわめきたつ。御手洗の遊女屋が全盛をきわめた頃のことである。中国筋でも宮島・尾道についでの色町、御手洗の若胡屋といえば瀬戸内を航行する船人たちの、誰知らぬものはない遊女屋で、奥まった座敷は、むせかえるほどの脂粉の香りと、三味や太鼓の音で賑わいでいた。
 入母屋本瓦葺・火燈窓のついた、江戸造りの豪壮な若胡屋の支度部屋では、先ほどから、今をときめく遊女が、夜の化粧をいそいでいた。昔から人妻になると、「おはぐろ」をつけて歯を黒く染めることが、習わしとなっていた。たとえ一夜の妻とはいえ、おいらんには「おはぐろ」をつけさせて女房気取りになることが誇りでもあり、またそれをさせるほどの上客でなければ、通客としてもてはやされなかった。これには、莫大な金で、「おいらん」の機嫌をとることは勿論、回りの人たちにも、沢山な祝儀をやらなければならなかった。
「モーシ、おいらんえ、おはぐろ付けなんせ」と、言葉やさしく可愛いカムロがおはぐろツボを出した。
 遊女は羽根筆に、おはぐろをたっぷりふくませて、鏡に向かってつけはじめたのだが、どうしたことか、この日にかぎってはよく付かない。
 ほかのおはぐろツボを取りかえさせたが、これもまた思うようにつかない。再三、再四、火鉢のそなで、しきりに気をもんでいる小さいカムロは、いらいらするおいらんの横顔をじっと見つめて、ハラハラしていた。
 客は金の威光で、「まだか、まだか」と矢のような催促、おいらんは気が気ではないほどいらだち、カンは高ぶり、厚化粧のひたいに思いなしか青筋が浮かんできた。
 カムロは小さな胸を痛めながら、目には涙の露さえやどらせてふるえていた。
 ひときわ高まる三味・太鼓の音。
 「エー、口惜しい!」
 絹を裂くような叫び声を上げて、おいらんは煮えたぎったおはぐろを、そばに居ったカムロの口へいきなり注ぎこんだ。
 唇を食いしばり、虚空をつかんでのけぞったカムロの口からは、おはぐろ混じりの黒血が流れた。
 支度部屋の壁にもたれるようにして死んでいったカムロの顔には、深い恨みがこもり、つり上がった眼尻からは一筋の涙が頬ををつたわっていった。
 薄暗い行燈の灯に、おいらんの影が、ぼうーっとうつって不気味であった。
 ひとり鏡にむかって化粧していたおいらんの目に、死んだカムロの姿がぼんやりとうつった。かすかな滅入るような声で、「モーシおいらんえ、おはぐろ付きなんしたか」と聞こえてきた。暗い支度部屋、あれからずっと独りで部屋にとじこもるようにしていたおいらんは、ぞっと背筋が冷たくなった。
 大きな足の長いクモが壁の隅にへばりついて動かない。
 翌日も、その翌日も、幾たびか気をうしなったことすらもあった。
 さすがにいま全盛のおいらんも、いたたまれなくなった。
 前非を悔い、四国八十八ヶ所をめぐって、カムロの霊を弔おうと思い立ち、舟で今治へ渡った。
「モーシ、おいらんえ、ここから一人でいきなんせ」とひとこと言い残して、つきまとうカムロの姿は消えていった。
 それから若胡屋では百人になると、必ず一人死んで、ついに九九人の遊女で押し通したといい伝えられ、古びた白壁に残されたカムロのおはぐろの手形は、その後幾たびか塗り替えられたが、今なおにじみ出てその跡をとどめている。
   御手洗女郎衆の髪の毛は強い
    上り下りの舟つなぐ
 カムロの悲しい物語を秘めながら、若胡屋は西国諸大名を、維新の志士を、北前船の船頭を、そして或る時にはオランダ商船員矢、文人濹客を送り迎えして、歴史の一コマ、一コマを裏庭のヒヨンの樹の年輪に刻み込みながら亡んでいった。」

この話の舞台、若胡屋。


一階奥の座敷から見た庭。庭の向こう側にあるのがヒョンの樹。


この伝承で言われている、支度部屋の壁。全体に黒ずんでいて、どこが手の跡なのかが分からない。


 最後に、御手洗の地図と、交通案内。今治から御手洗を結ぶ航路は、現在は廃止になっている。フェリーを使う場合は、航路、時間などは確認してからにしましょう。豊町観光協会のウェブサイトから調べることが出来ます。


最後にサイズがやや大きいのだが、御手洗の観光地図を。現地でいただいたもの。


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