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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

品川区大井町周辺を歩く~その六:見晴らし通り(1)

2015-02-05 18:35:55 | 品川区
大井町駅に近い、東海道線の線路の東側、池上通りの仙台坂の上から、線路と平行するように南下していく道がある。見晴らし通りという名が付いていて、商店もある坂道である。古くからある道のようで、かつての人家の少なかった頃には見晴らしが良かったということのようだ。前回の薩摩藩島津家抱屋敷の南側を通過する道でもある。その起点、仙台坂上はその名の通りに、仙台藩伊達家の下屋敷があったことからその名が付き、今もその名残を留めるように仙台味噌の蔵が建ち、営業している。ここについては、また改めて触れようと思っている。


仙台味噌の前の道を入っていくのが、見晴らし通りである。しばらく進むと、大井町駅方面からの道と交叉する。その辺りからも見えるのが、三菱鉛筆。このカットは池上通りの側から見た正面の姿。


この三菱鉛筆、創業は新宿。創業の地であった新宿区内藤町には、鉛筆の碑が建てられている。


その由来も記されていて、大井町の工場ができたのが大正5年であることも分かる。
「 この地(多武峯内藤神社西方付近)は、明治二十年(一八八七年)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(一九一六年)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
 創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。
 平成十八年十月 寄贈 三菱鉛筆株式会社 資料提供:新宿区教育委員会」


そして、再び見晴らし通りを進むと、見事な銅板貼りの建物がある。


丁寧に見てみると、銅板の貼り方で紋様が作り出されていて、細やかな配慮でデザインされていることを感じさせられる。


しばらく行くと、松井畳店。ここもキレイな色の銅板貼り建築。文字看板も右からのまま。


その先を入って行ったところに、梶原稲荷神社がある。
「このあたりに鎌倉の武将梶原景時によって建てられた(1190年頃)といわれる万福寺があったが、元応2年(1320)の火災で寺の本堂が焼け、境内にあった稲荷社だけが焼け残った。後に万福寺は馬込村(現大田区)に再建されたが、稲荷社はそのまま残り来福寺に所属した。現在は来福寺との間に民家が建ったため、梶原稲荷神社として独立、地元の講中によって祀られている。
社殿の後ろにある小高い場所は梶原塚と呼ばれ、梶原氏一門の古墳とも伝えられている。
梶原氏は関東平氏の一門で平良茂が初代。源頼朝の挙兵に際し手柄のあった景時の時に、梶原姓を名乗った。
大井・馬込周辺には梶原景時や景季にまつわる話が多く伝えられているが、一説によると、この梶原氏は景時らの一族とは別で、小田原北条氏の家人でこの地域を支配した梶原氏だともいわれている。」(しながわ観光協会サイトより)


鳥居には石の扁額。


参道は奥へと続いていく。


回り込むようにして、拝殿の前へと続いている。
「梶原塚稲荷祠 由来記
今ヲ距タル七百七十二年前(建久三年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝ノ命ヲ奉ジテ 武蔵国大井村鹿島谷ニ萬福寺ヲ建立シ、ソノ境内ニ守護神トシテ稲荷ヲ勧請シテ梶原稲荷ト尊称シタ。 元応元年十月、萬福寺ハ兵火ニヨリ消失シ馬込村ニ移リタルニ依リ、焼ケ残リシ稲荷祠ハ梶原屋敷内に奉遷サレテ、後、柴村来福寺ニ奉納サレ、ソノ追福ノタメ同寺ヘ松桜ナドヲ植エ寄進シタ。コノ梶原塚ハ、桓武天皇五代ノ裔、常陸少椽良茂ヨリ五代ノ孫、鎌倉權五郎景政ノ子孫梶原日向守 亦梶原助五郎一族ヲ祀ル古墳デアル。従来、コノ稲荷祠ハ南浜川櫻井源兵衛氏ノ所有ナリシガ、大正十四年一月ヨリ地元、元芝、関ヶ原ニ居住スル信仰者ニ管理ヲ委任サレ、地元民ノ協力ニ依リ社務所ヲ建設シ維持管理ニ当ツテ今日ニ至ツタ。梶原氏ハ鎌倉權五郎景季ト代々武勇ノ誉高ク、子孫皆ヨク栄エ、又、古来コノ地ニ火災、災難等無キハ、梶原稲荷ノ御守護ニヨルモノナリト伝エラレ、住民皆襟ヲ正シテ尊敬シ。昭和三十八年浄財ニ依リ大修理ヲ加エ、神徳ヲタタエテ信者集イ祭祀ヲ厳修シタ。
 昭和三十九年二月十五日初午ノ日    梶原稲荷講」


建久三年は、西暦1192年、鎌倉幕府の設立とかつては言われていた頃のこと。由来の中のポイントをまとめると、まず梶原一族を祀った古墳の上にあるとも言える神社であるということ、社殿の裏手を梶原塚と呼んだものの様だ。萬福寺を建立して、その境内社として勧請したのだが、兵火で焼失して、馬込に移転したという。この寺は後に取り上げたいと思っている。その後、焼け残った祠が梶原屋敷に移されたとあるので、元々この場所であったわけではなかったようだ。そして、隣接する来福寺が別当になっていたということだろう。


鹿島谷というのがどの辺りを指すのかというのも、興味深い。大井の鹿島神社のある辺りは岡の上のロケーションである。そして、古墳であるというのも面白い。一般に古墳時代というのは、7世紀末頃までを指すようで、鎌倉時代の始まりというと、相当に年代が離れてくるものだ。元々古墳としてあったものが、梶原一族を祀ったものと伝えられてきたのだろうか。


社務所は、鮫洲八幡神社の社務所と通じる雰囲気を感じる。


見晴らし通り、商店が今も変わらない雰囲気で営業している。雑貨も扱う三木たばこ店。


菓子問屋の大沼商店。



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