東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

馬込からの古道、中通り~その十二:旗岡八幡神社

2015-04-13 19:13:40 | 品川区
荏原町駅の北側には法蓮寺があり、その隣には旗岡八幡神社がある。
「・創建:文永10年(1273)。神社の始まりは源平時代といわれる。
・祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)
・江戸時代には2代将軍秀忠をはじめ、多くの武家の崇敬を受けた。
・空襲をのがれた絵馬堂には、数多くの絵馬が残る。特に、品川区の文化財に指定されている猿駒止の大絵馬は、保存状態もよく貴重。
・境内の桜がとても美しい。」(しながわ観光協会サイトより)


この神社の旧別当は法蓮寺で、元は一繋がりであったようだ。入口の狛犬の台座には、麻布市兵衛町講中と刻まれている。麻布市兵衛町は現在の六本木一丁目のあたり。永井荷風の偏奇館が空襲で焼失するまであったところでもある。そして、いまは高層ビル街になってしまい、かつての面影が完全に消えた町でもある。


「当神社は、長元元年 上総、下総で起こった平忠常の乱を収めるべく、同3年(1030年)に朝命を奉じた甲斐守源頼信公が同地へ赴く際、一族郎党と共にこの地に宿営した時霊威を感得して現時の氏神たる八幡大神を奉齋し、戦勝を祈願したのがその発祥とされている。高台に陣を敷き、源氏の白旗を靡かせ大いに武威を誇ったことから、この地が「旗ヶ岡」あるいは「旗の台」と呼ばれたのである。
江戸時代には、源氏にゆかりの神社ということで、将軍家以下の武士階級に尊崇され、2代将軍・徳川秀忠が祈願所としたほか、将軍家や他の大名家から多くの寄進を受けている。とくに弓術者の信仰は厚く、毎年2月15日には、各地から集まった武士たちにより、弓の競射が行われた。
今も続く「甘酒祭り」は、この競射のあとに甘酒がふるまわれたことに由来する。
現在の社殿は昭和39年(1964)の再建だが、境内左手の絵馬堂は焼け残り、多くの絵馬が残っている。なかには文政2年(1819)奉納の、固物射兜鉢(弓勢を試すための的に使用した兜)をつけた珍しい形のものもある。」(しながわ観光協会サイトより)


戦災で焼けたとはいえ、石灯籠などは残されている。上の方が黒く煤けているのは、戦災の名残だろうか。天明七年(1787)の銘がある。


戦災を免れた絵馬殿。


たくさんの絵馬が奉納されている。


「大信館剣士 大正十四年九月二十七日」とあるのは、剣道場の人々だろうか。刀掛けが付いている。木刀も合わせて奉納したのだろうか。


「小笠原流 嘉永二年正月(1849)」武家の礼法ということだろうか。


「荏原町第三部 解散記念 昭和七年十月吉日」名札に消防士と書かれている。東京三十五区に移り変わるタイミングで、消防の制度も変わったということだろうか。そんなことを考えながら、一つずつ眺めているだけでも楽しい。


手水舎。


そして神楽殿。これも古いものだろうか。


社殿は昭和39年再建のコンクリート造り。
「鎌倉時代に入り、当地の領主・荏原義宗(源義家の末裔と言われている)によって社殿等が建立され、源氏の守護神のみならず地域の鎮守神とした 。また荏原義宗は日蓮宗に篤く帰依し、息子を日蓮の高弟・日朗の弟子とさせた。息子は後に朗慶上人となり、荏原氏の館跡に法蓮寺を開山した。」(Wikipediaより)
このWikipediaの解説が、法蓮寺との関係性を理解するのに分かりやすい。どうも、神社側の解説は神仏分離令以降の色々から少々分かりにくい面が多い。


境内には耕地整理記念碑が建てられている。大正十一年からこの周辺の耕地整理が行われた様だ。


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