さて、円融寺の周辺からずっと歩いて来て、東急目黒線の線路を越える。私にとっては、目黒線というよりは目蒲線という方が馴染み深いし、いつの間にか地下化されている姿には驚かされるところもあった。高校寺代の友人がこの辺りにいたこともあって、その頃にも目蒲線に乗ったことがある。その当時は、東横線と違ってどこかのんびりした雰囲気のある、郊外電車の趣を残した路線だった。その線路を陸橋で越えていくと、品川区に入る。湧き水の池があって、そこが厳島神社になっている。
周辺は落ち着いた住宅地なのだが、その中に池があって神社がある。太鼓橋で社殿の側に渡れるようになっている。
調べて見ても、あまり詳細が出てこない。ここも立会川などの品川用水系統の水源の一つということのようだ。古来、湧き水は正に命の水であったから、弁天様を祀って大事にしてきた姿が今に残っている。
小振りながら、落ち着いた雰囲気の小さな神社。
扁額には、厳島神社と書かれている。
その傍らには、弁天講の鳥居寄進の記念碑が建てられている。
水盤はそれ程古いものではなさそうな感じ。やはり、農村であった荏原郡の時代には、農業生産の基盤であった用水が生命線であり、その水源を大事にすることは死活問題であったに違いない。今ではすっかり住宅街になっている、品川、目黒区からは当時の面影は失われつつある。
池から流れ出る先は、全て暗渠化されている。弁天橋という銘板があって、橋の痕跡だけが今も残されている。
周辺は落ち着いた住宅地なのだが、その中に池があって神社がある。太鼓橋で社殿の側に渡れるようになっている。
調べて見ても、あまり詳細が出てこない。ここも立会川などの品川用水系統の水源の一つということのようだ。古来、湧き水は正に命の水であったから、弁天様を祀って大事にしてきた姿が今に残っている。
小振りながら、落ち着いた雰囲気の小さな神社。
扁額には、厳島神社と書かれている。
その傍らには、弁天講の鳥居寄進の記念碑が建てられている。
水盤はそれ程古いものではなさそうな感じ。やはり、農村であった荏原郡の時代には、農業生産の基盤であった用水が生命線であり、その水源を大事にすることは死活問題であったに違いない。今ではすっかり住宅街になっている、品川、目黒区からは当時の面影は失われつつある。
池から流れ出る先は、全て暗渠化されている。弁天橋という銘板があって、橋の痕跡だけが今も残されている。
ちなみに当時の厳島神社は瓦葺きでした。
どうもありがとうございます。
品川区、目黒区辺りの河川は比較的近年まで開渠であったところが多い様ですね。そういった様相が大きく変わっていった中で、目蒲線が目黒線になり、地下化されたりというのもあったのかなとも思います。私が高校時代に友人を訪ねてこの辺りに来ていたのが、昭和50年代のことでしたけど、その頃は何にも見てなかったことが惜しまれます。
厳島神社はYAHOOやグーグルの地図によれば、緯度は清水窪と同じ位置にあり、古い地形図でも洗足池に注ぐ小川の谷の先端部は清水窪より南にあることが確認でき環七と平行に走る古道より南に位置しています。このように疑問がありました。
ところがその道の北に別の浅い谷があることがわかり、そこが厳島神社のある所だと判明しました。
暗渠化した川を探るとしたら、もと川だった細道、谷や片方だけにある道脇の歩道、ある所から道が広くなっている箇所などが頼り、住宅の敷地化してしまった所もあり、しっかりだまされました。
また、洗足池に注ぐ小川の源流は環七あたり、深い谷があった痕跡があるようで、清水窪に対して「貉窪(むじなくぼ)」と称されていたようです。清水窪と違って現在湧水は枯渇しているようです。
丁寧にどうもありがとうございます。
地形から読み解いて、小さな川を辿ったりというのは、また面白さも一塩だと思います。荏原一帯は、品川用水の開発が古くから行われてきて、自然河川がそのまま残されているところがあまりない感じもしたのですが、地形から見るとオリジナルの河川の状況が見えてくるようにも思いました。その意味では、地域を絞り込んで深く掘り下げていかないと、見えてこないものがあるとも思います。ご教授頂いて、感謝しております。