小山八幡神社の参道の直ぐ横に、元はこの神社の別当であったという摩耶寺がある。この寺は、以前円融寺の辺りを歩いた時、すぐ近くにあった法界塚の鬼子母神堂。その鬼子母神堂が元々はこの摩耶寺にあったものだというところで、この寺のことを知った。(「品川からの道~碑文谷道その十三:法界塚」参照のこと)明治末に現在地に移したというのだが、その辺りも面白く感じた。小山八幡参道入口の直ぐ南側に摩耶寺の山門がある。
立派な山門はフェンスで囲われて大事にされている。だが、寺の内側からフェンスの中へ入ることはできる様になっていて、間近でその姿を見学することが出来る。
山門を境内の側から見たところ。寛文7年(1667)の創建。
「仏母山という山号が示すように仏(お釈迦様)の母(摩耶夫人)をお祀りしています。
延宝六年(1678年)に摩耶夫人像が造られ、本堂左側の摩耶堂(天保年間1830年~1844年に建立)に安置されています。伽藍は、震災、空襲などの難を免れましたが、老朽化は甚だしく昭和53年に本堂を改築摩耶堂を改修し現在に至っています。
摩耶寺は日蓮宗に属しています。鎌倉時代に日蓮聖人(1222年~1282年)が社会不安と自然災害に苦しむ人を救うため、法華経とお題目を弘められたことにより法華宗が成立し、明治時代に日蓮宗となりました。
そのためこのお寺では、法華経と日蓮聖人の書かれた文章(御遺文といいます)、そしてお題目(南無妙法蓮華経)をお唱えいただきます。」(摩耶寺サイトより)
円融寺が法華寺と呼ばれていた、不受不施派の弾圧が激しくなっていく最中の時代に建立された寺でもある。だから、法華寺が天台宗に改宗される時には、日蓮宗の仏像などの多くがこの寺に移されたという。昭和53年に建て直された本堂。
境内には、庚申供養塔もある。青面金剛像。彫りの深い立体的な造詣。
本堂の隣には、天保年間に建てられたという摩耶堂がある。こちらも改宗は施されていると言うが、時代を感じる建物、屋根は萱葺きから銅葺きに葺き替えられている。
細やかな細工が施されている。扁額を見ると「釈迦堂」と書かれているように見えるのだが。
こちらも年代物の雰囲気を漂わせる石塔。小山村の雰囲気を僅かに感じさせる境内。
境内に茂る木。
シルエットで見ると、枝の形が面白い。
小山八幡神社参道入口、摩耶寺の前の道を進んでくると、坂を下ってくる道との交差点に出る。
この辺りの様子を見ると、この交差する道が両方とも古くからの道で、商店が出来て栄えていた時代があったことが分かる。
モルタル造りだが、凝った造形の建物。
立派な山門はフェンスで囲われて大事にされている。だが、寺の内側からフェンスの中へ入ることはできる様になっていて、間近でその姿を見学することが出来る。
山門を境内の側から見たところ。寛文7年(1667)の創建。
「仏母山という山号が示すように仏(お釈迦様)の母(摩耶夫人)をお祀りしています。
延宝六年(1678年)に摩耶夫人像が造られ、本堂左側の摩耶堂(天保年間1830年~1844年に建立)に安置されています。伽藍は、震災、空襲などの難を免れましたが、老朽化は甚だしく昭和53年に本堂を改築摩耶堂を改修し現在に至っています。
摩耶寺は日蓮宗に属しています。鎌倉時代に日蓮聖人(1222年~1282年)が社会不安と自然災害に苦しむ人を救うため、法華経とお題目を弘められたことにより法華宗が成立し、明治時代に日蓮宗となりました。
そのためこのお寺では、法華経と日蓮聖人の書かれた文章(御遺文といいます)、そしてお題目(南無妙法蓮華経)をお唱えいただきます。」(摩耶寺サイトより)
円融寺が法華寺と呼ばれていた、不受不施派の弾圧が激しくなっていく最中の時代に建立された寺でもある。だから、法華寺が天台宗に改宗される時には、日蓮宗の仏像などの多くがこの寺に移されたという。昭和53年に建て直された本堂。
境内には、庚申供養塔もある。青面金剛像。彫りの深い立体的な造詣。
本堂の隣には、天保年間に建てられたという摩耶堂がある。こちらも改宗は施されていると言うが、時代を感じる建物、屋根は萱葺きから銅葺きに葺き替えられている。
細やかな細工が施されている。扁額を見ると「釈迦堂」と書かれているように見えるのだが。
こちらも年代物の雰囲気を漂わせる石塔。小山村の雰囲気を僅かに感じさせる境内。
境内に茂る木。
シルエットで見ると、枝の形が面白い。
小山八幡神社参道入口、摩耶寺の前の道を進んでくると、坂を下ってくる道との交差点に出る。
この辺りの様子を見ると、この交差する道が両方とも古くからの道で、商店が出来て栄えていた時代があったことが分かる。
モルタル造りだが、凝った造形の建物。
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