東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

馬込からの古道、田無街道~その十:荏原町駅

2015-04-11 18:20:09 | 品川区
さて、田無街道を更に北上していく。町並みは、ごく普通の東京の町。昭和の香りも残されているけど、建て直されている建物も多い。そんな中で、一番てっぺんが半球型に盛り上がっていて、可愛らしいモルタルの看板建築。中華居酒屋ミマツ。良い雰囲気の店構え。


次第に商店の数が増えてくる感じで、馬込本通り協栄会と看板が出ていた。少し道が広がった所に荏原町駅入口交差点があった。その角に道標が立てられている。右側面には南・いけがみ道とあるようだ。左側面には、西・せんそく・おくさわ道とある。剥落もあって、非常に読みにくい。この交差点が、大田区と品川区の境目になる。


「天保二年銘道標 品川区指定史跡 所在:中延五丁目十二番八号地先 指定:昭和五十五年三月十一日(史跡第十五号)
 東海道を南品川宿で分かれて大井を横切り、中延と馬込の境を通って千束で中原街道に合流する品川道と、中原街道を平塚橋で分かれて中延・馬込を通り、新井宿で池上道を結ぶ通称中通りとの交差点に建てられた道標である。道標の四面には、行先と天保二年(一八三一)に下中延村の題目講の人々が建てたものであることが刻まれている。下中延村とは、中延村の増上寺領を示す俗称で、同じ中延村の天領(江戸幕府が直接支配した土地)の区域は、上中延村と呼んだ。この道標は、江戸時代における主要道路の道筋を示す資料として貴重なものであり、また、同じ中延村であっても、師は氏ハが違えばそれぞれ別個に講の集団を組織したことを示す資料としても価値が高い。
 平成十五年六月三十日 品川区教育委員会」
左の面は上と同じ南・いけがみみち。右側は東・品川道とある。


この案内を見て、辿ってきた道が中通りと言われている道であることを知る。今回タイトルに掲げた田無街道は、この辺りで向きを変えていきそうな気がするが、この先のルートが今ひとつよく分からない。左側は東・品川道で、右側は北・めぐろみちになっている。この先は、荏原町駅の横を抜け、東急大井町線と交叉して平塚橋で中原街道に合流することになる。


道標前で来た道を振り返る。大きな道が池上道である。左側の細い道が、品川道である。この道を進むと、以前、「品川からの道~池上道その三:滝王子通り、西大井駅」で取り上げた滝王子通りを経て品川宿へと向かう。


そして、こちらが西・千束、奥沢方面へと向かう道。この先は洗足池の辺りに出る。


そして、こちらが北・目黒道である。


少し進むと、丁字路があって西に向けて道が分かれている。この別れ道は、先の千束・奥沢への道に繋がっている。角には庚申堂がある。


今も大事にされている様子で、小さいながらもしっかりした御堂が造られている。傍らにはここにも道標が立っている。。


御堂の中には、青面金剛像と三猿の刻まれた庚申塔がある。


「天明三年銘石造道標 品川区指定史跡 所在:中延五丁目十一番十六号 指定:昭和六十一年三月十四日(第二十二号)
 この道標は、旧中延村を横断する中通り(中原街道と池上道を結ぶ)と、平間道(上池上・久ヶ原を経て下丸子で池上道と合流し、平間に至る)との分岐点にある。高さが一・一五メートルで、右うの木(鵜ノ木)光明寺道、左池かみ道(池上道)と刻まれている。造立者は不明である。鵜ノ木光明寺は浄土宗の古刹で、江戸からの日帰り行程の大寺として、近世には多くの参詣者が来寺した。
 平成二十四年九月三十日 品川区教育委員会」
平間と聞くと、池上道の別称が平間街道であったことを思い出す。こうした道標を見ていると、古くからの道の繋がりが感じられて面白い。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿