地元板橋区での文化財公開、先に東京家政大学構内の東京第二陸軍造兵敞建物群に続いて、観明寺というお寺の不動三尊像が公開されるというので、見てきた。今回の観明寺の公開日は10月28日と11月1日で、両日平日であった。やはり多くの人が訪れやすい週末の公開が実現できるよう、関係先にはお願いしたいところ。とはいえ、地元のお寺というのは、身近に思っていても檀家でなければ、その中の本尊を目にする機会などそうはない。それだけに今回の企画は、私にとっても非常に興味深いものだった。
観明寺 板橋区板橋3-25-1
「室町時代の創建と伝えられている真言宗豊山派の寺院です。山号は如意山。本尊の観明寺聖観音立像は12世紀の作とされ、区内最古の仏像のうちの一つです。境内入り口にある寛文元年(1661)の観明寺寛文元年庚申塔は、青面金剛像が刻まれた区内最古のものです。観明寺不動三尊像は延宝2年(1674)の作で、明治6年(1873)、当時の照秀住職が宿場に旧来の活気を取り戻そうと、成田山の不動尊を勧請して縁日を開きました。商店街の名前は当時の不動尊に由来します。」(いたばし文化財ふれあいウィークのパンフレットより)
観明寺正面。この左手、今は駐車場になっているが、ちょっと前までは古びた小さな商店があった。観明寺の家作であったのだろうと思う。

入口横にある、観明寺寛文元年庚申塔。普段は正面に格子の扉が閉められているので、こうしてスッキリした形で見ることが出来る機会があるのは有り難い。

境内に入るところにある門は、かつてこの裏手にあった加賀藩下屋敷の通用門であると言われている。加賀藩下屋敷の具体的な遺構はほとんど残っていないので、数少ない現物と言える。

確かに、通用門という感じ。下屋敷とはいえ、百万石の加賀の下屋敷、正門はどれほどのものだったのだろうかと思う。

境内の稲荷社。これもかつては加賀藩下屋敷内に祀られていたものだが、明治になって陸軍火薬製造所が出来て、ここへ遷座してきたという。

本堂を正面から見ると、右側が本堂で、左側が不動堂になっている。左の本堂に後から不動堂を増築した形になっている。

板橋の宿場の衰退を憂いた住職が不動尊を勧請して縁日を始めたというもは、以前から聞いていたけど、それが明治6年というとちょっと疑問を感じる。板橋の宿場の衰退、つまり街道を行く人がいなくなるのは、明治18年に鉄道が上野~熊谷感に開通したからだと思っていた。開通前は歩く以外の手段がなかったので、街道の衰退はまだ起きていないのではないかとも思う。この辺りは、今後の課題にして調べてみたい。
とはいえ、鉄道開通後は当然のことながら街道を歩く人はいなくなり、宿場町は一気に寂れてしまった。それに関連して、工業の町として勃興してきたのが王子であり、板橋から王子へ仕事を求めて通う人が増え、その利便を図るために作られたのが王子新道という道路である。板橋仲宿から金沢橋を経由し、埼京線を踏みきりで越えて、王子へと向かう。
また、観明寺の住職の努力で始まった縁日は非常に盛んになって、昭和40年代までは非常に賑わっていた。私が子供の頃は、現在の不動通り商店街も仲宿商店街に遜色のない賑わいを見せており、そこに縁日があるとさらに賑やかさが増すようだった。露店が並んで、子供だけではなく大人も大勢そぞろ歩いていたのを覚えている。
右手が本堂、左手が不動堂。間に入口が開いている。

本堂の方はあっさりとした感じ。凝った細工が施されている。

昭和13年の出征兵士のための奉納額。日中戦争が始まっていた頃のもの。

現地で説明を聞いたところでは、観明寺、東光寺は古くからの平尾のお寺で、加賀藩下屋敷が出来る以前はその敷地内にあったそうだ。下屋敷が出来る時に現在地にそれぞれ移転したという。不動堂の外観。

不動堂に掛かる奉納額。昭和13年とか。昭和4年という年号が見える。

堂内での撮影は出来なかったので、現地で頂いた解説カードを見て頂こうと思う。まずは、不動三尊像。
「三像とも岩座の上に乗っています。中尊の不動明王像は火焔の光背を背にし、金属製の胸飾りを付け、左手に羂索、右手に宝剣を持って結跏趺坐をしています。左脇侍の矜羯羅童子像は両手で蓮華を持って立ち、右脇侍の制叱迦童子像は左手で衣を持ち、岩座に左足を垂らして坐っています。
不動明王像の底や台座の裏にはそれぞれ墨書があり、不動明王が延宝2年(1674)に製作され、明治36年(1903)に岩淵町の大仏師狩野氏によって修理された際に、二童子と岩座とが新調されたことがわかります。
明治6年(1873)、宿場が廃止されて往来する人が減少したことを憂いた当時の住職照秀は、成田山から不動尊を勧請し、露天商を招いて縁日を創始しました。大正時代になると、出世不動との信仰を集め、参拝者を目当てに商売をする露天商が門前の道路の両側にぎっしりと立ち並んで賑わいを見せました。門前の商店街が不動通りと名付けられたのも、当寺の不動明王にちなんでいます。」

そして、本来は不動三尊像のみの公開ということだったのだが、御本尊の聖観音立像も本堂を開けておいて頂けたので、拝観することが出来た。観明寺の御好意に感謝したい。
「当寺の本尊であるこの像は、「新編武蔵風土記稿」に「本尊正観音ヲ安ス。長一尺五寸。恵心ノ作ト云。」とあって、恵心の作と記されています。
舟型光背を背にし、左手に蓮華を持ち、右手には施無畏印を結んで蓮華座の上に立ち、金属製の宝冠と胸飾りを付けています。両手の先や衣の一部、宝冠、胸飾り、台座、光背は後から補ったものと考えられています。顔付きはあくまでやさしく、両眼は細く刻まれ、鼻が低く、口は小さく、唇は女性的です。体つきも均整がとれていて、腰にまとった裳にはひだが浅く彫り出されています。このような特色は、本像が平安時代後期に製作されたことを物語っています。板橋区内で最も製作年代が古い仏像の一つです。」

次回はまた一年後に公開されると言うことなので、来年の秋までお楽しみにと云うことになる。
観明寺 板橋区板橋3-25-1
「室町時代の創建と伝えられている真言宗豊山派の寺院です。山号は如意山。本尊の観明寺聖観音立像は12世紀の作とされ、区内最古の仏像のうちの一つです。境内入り口にある寛文元年(1661)の観明寺寛文元年庚申塔は、青面金剛像が刻まれた区内最古のものです。観明寺不動三尊像は延宝2年(1674)の作で、明治6年(1873)、当時の照秀住職が宿場に旧来の活気を取り戻そうと、成田山の不動尊を勧請して縁日を開きました。商店街の名前は当時の不動尊に由来します。」(いたばし文化財ふれあいウィークのパンフレットより)
観明寺正面。この左手、今は駐車場になっているが、ちょっと前までは古びた小さな商店があった。観明寺の家作であったのだろうと思う。

入口横にある、観明寺寛文元年庚申塔。普段は正面に格子の扉が閉められているので、こうしてスッキリした形で見ることが出来る機会があるのは有り難い。

境内に入るところにある門は、かつてこの裏手にあった加賀藩下屋敷の通用門であると言われている。加賀藩下屋敷の具体的な遺構はほとんど残っていないので、数少ない現物と言える。

確かに、通用門という感じ。下屋敷とはいえ、百万石の加賀の下屋敷、正門はどれほどのものだったのだろうかと思う。

境内の稲荷社。これもかつては加賀藩下屋敷内に祀られていたものだが、明治になって陸軍火薬製造所が出来て、ここへ遷座してきたという。

本堂を正面から見ると、右側が本堂で、左側が不動堂になっている。左の本堂に後から不動堂を増築した形になっている。

板橋の宿場の衰退を憂いた住職が不動尊を勧請して縁日を始めたというもは、以前から聞いていたけど、それが明治6年というとちょっと疑問を感じる。板橋の宿場の衰退、つまり街道を行く人がいなくなるのは、明治18年に鉄道が上野~熊谷感に開通したからだと思っていた。開通前は歩く以外の手段がなかったので、街道の衰退はまだ起きていないのではないかとも思う。この辺りは、今後の課題にして調べてみたい。
とはいえ、鉄道開通後は当然のことながら街道を歩く人はいなくなり、宿場町は一気に寂れてしまった。それに関連して、工業の町として勃興してきたのが王子であり、板橋から王子へ仕事を求めて通う人が増え、その利便を図るために作られたのが王子新道という道路である。板橋仲宿から金沢橋を経由し、埼京線を踏みきりで越えて、王子へと向かう。
また、観明寺の住職の努力で始まった縁日は非常に盛んになって、昭和40年代までは非常に賑わっていた。私が子供の頃は、現在の不動通り商店街も仲宿商店街に遜色のない賑わいを見せており、そこに縁日があるとさらに賑やかさが増すようだった。露店が並んで、子供だけではなく大人も大勢そぞろ歩いていたのを覚えている。
右手が本堂、左手が不動堂。間に入口が開いている。

本堂の方はあっさりとした感じ。凝った細工が施されている。

昭和13年の出征兵士のための奉納額。日中戦争が始まっていた頃のもの。

現地で説明を聞いたところでは、観明寺、東光寺は古くからの平尾のお寺で、加賀藩下屋敷が出来る以前はその敷地内にあったそうだ。下屋敷が出来る時に現在地にそれぞれ移転したという。不動堂の外観。

不動堂に掛かる奉納額。昭和13年とか。昭和4年という年号が見える。

堂内での撮影は出来なかったので、現地で頂いた解説カードを見て頂こうと思う。まずは、不動三尊像。
「三像とも岩座の上に乗っています。中尊の不動明王像は火焔の光背を背にし、金属製の胸飾りを付け、左手に羂索、右手に宝剣を持って結跏趺坐をしています。左脇侍の矜羯羅童子像は両手で蓮華を持って立ち、右脇侍の制叱迦童子像は左手で衣を持ち、岩座に左足を垂らして坐っています。
不動明王像の底や台座の裏にはそれぞれ墨書があり、不動明王が延宝2年(1674)に製作され、明治36年(1903)に岩淵町の大仏師狩野氏によって修理された際に、二童子と岩座とが新調されたことがわかります。
明治6年(1873)、宿場が廃止されて往来する人が減少したことを憂いた当時の住職照秀は、成田山から不動尊を勧請し、露天商を招いて縁日を創始しました。大正時代になると、出世不動との信仰を集め、参拝者を目当てに商売をする露天商が門前の道路の両側にぎっしりと立ち並んで賑わいを見せました。門前の商店街が不動通りと名付けられたのも、当寺の不動明王にちなんでいます。」

そして、本来は不動三尊像のみの公開ということだったのだが、御本尊の聖観音立像も本堂を開けておいて頂けたので、拝観することが出来た。観明寺の御好意に感謝したい。
「当寺の本尊であるこの像は、「新編武蔵風土記稿」に「本尊正観音ヲ安ス。長一尺五寸。恵心ノ作ト云。」とあって、恵心の作と記されています。
舟型光背を背にし、左手に蓮華を持ち、右手には施無畏印を結んで蓮華座の上に立ち、金属製の宝冠と胸飾りを付けています。両手の先や衣の一部、宝冠、胸飾り、台座、光背は後から補ったものと考えられています。顔付きはあくまでやさしく、両眼は細く刻まれ、鼻が低く、口は小さく、唇は女性的です。体つきも均整がとれていて、腰にまとった裳にはひだが浅く彫り出されています。このような特色は、本像が平安時代後期に製作されたことを物語っています。板橋区内で最も製作年代が古い仏像の一つです。」

次回はまた一年後に公開されると言うことなので、来年の秋までお楽しみにと云うことになる。
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