さて、川越街道については、以前和光市まで辿ってみたのだが、板橋と練馬を中心に街道の周辺まで見て歩いてみたので、補完編として掲載してみようと思う。ファーストシリーズと併せて見て頂ければと思う。
まず最初は、中山道と分岐して直ぐの四つ又にて。四つ又というのは、高田道とかいわれていた板橋宿中宿から池袋本町を経由していく道と、川越街道が交差するところ。この辺りは首都高速道路の建設によって道路拡幅も行われて、町の様相が一変してしまったところでもある。その工事の余波で、この四つ又に昔からおかれていた馬頭観音が、川越街道から一本裏のところに移設されていた。この様子は以前掲載している。2015年4月に元の場所ではないものの、四つ又交差点に近い緑地の中に移設されて、ようやくかつての雰囲気を取り戻しつつあるというところなのだろう。
新しい御堂の中に収まった馬頭観音像。
そして、移転の掲示。
ここから東武東上線の大山駅のところまで商店街となった旧道を進み、駅を越えて川越街道の新道、国道254号線に出る。旧道はまた直ぐに上板橋宿へと新道と別れていくのだが、その辺りに中板橋駅の方から延びてきて、新道と交差して、大谷口から千川へと通じていく道がある。この道は鎌倉道と呼ばれていたという。川越街道から北上しれ分かれていく道になっている。これは川越街道方向を振り返ったところ。
ほぼ同じ辺りから、北側を望んだところ。
そこには、轡(くつわ)神社がある。川越街道からは少し下がったところだが、石神井川まではまだ少し距離のある感じのところである。轡神社の創建は不明だが、徳川家康が江戸入府の後にこの地を訪れ、その時乗っていた馬の轡を祀ったとか、馬蹄を祀ったといわれているという神社。そして、百日咳に霊験があるといわれ、治癒したら草鞋を奉納するという。
小さな神社だが、趣のある雰囲気。境内も広くはない。
手水舎もシンプルなもの。
水桶には、「四つ又、向やしき、戸田、上板、平尾」の文字が見える。向やしきはどの辺りだろうか。四つ又は先の馬頭観音の辺り、上板は上板橋宿、平尾は板橋宿の平尾だろう。
轡神社の扁額。江戸時代には轡権現と呼ばれていたそうだ。
城北エリアの神社は、あまり細工などに凝った感じではなくてシンプルな雰囲気。
それでもオリジナルの材料をなるべく遺そうとしているのが分かる。
奉納されたわらじ。
まず最初は、中山道と分岐して直ぐの四つ又にて。四つ又というのは、高田道とかいわれていた板橋宿中宿から池袋本町を経由していく道と、川越街道が交差するところ。この辺りは首都高速道路の建設によって道路拡幅も行われて、町の様相が一変してしまったところでもある。その工事の余波で、この四つ又に昔からおかれていた馬頭観音が、川越街道から一本裏のところに移設されていた。この様子は以前掲載している。2015年4月に元の場所ではないものの、四つ又交差点に近い緑地の中に移設されて、ようやくかつての雰囲気を取り戻しつつあるというところなのだろう。
新しい御堂の中に収まった馬頭観音像。
そして、移転の掲示。
ここから東武東上線の大山駅のところまで商店街となった旧道を進み、駅を越えて川越街道の新道、国道254号線に出る。旧道はまた直ぐに上板橋宿へと新道と別れていくのだが、その辺りに中板橋駅の方から延びてきて、新道と交差して、大谷口から千川へと通じていく道がある。この道は鎌倉道と呼ばれていたという。川越街道から北上しれ分かれていく道になっている。これは川越街道方向を振り返ったところ。
ほぼ同じ辺りから、北側を望んだところ。
そこには、轡(くつわ)神社がある。川越街道からは少し下がったところだが、石神井川まではまだ少し距離のある感じのところである。轡神社の創建は不明だが、徳川家康が江戸入府の後にこの地を訪れ、その時乗っていた馬の轡を祀ったとか、馬蹄を祀ったといわれているという神社。そして、百日咳に霊験があるといわれ、治癒したら草鞋を奉納するという。
小さな神社だが、趣のある雰囲気。境内も広くはない。
手水舎もシンプルなもの。
水桶には、「四つ又、向やしき、戸田、上板、平尾」の文字が見える。向やしきはどの辺りだろうか。四つ又は先の馬頭観音の辺り、上板は上板橋宿、平尾は板橋宿の平尾だろう。
轡神社の扁額。江戸時代には轡権現と呼ばれていたそうだ。
城北エリアの神社は、あまり細工などに凝った感じではなくてシンプルな雰囲気。
それでもオリジナルの材料をなるべく遺そうとしているのが分かる。
奉納されたわらじ。
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