さて、栗原新道を戻って再び石神井川を渡っていくと、情報区公園のなかを突き抜けていく道に新道がなっている。その道沿い、公園の一部に神社があった。元々、河岸段丘の高台にあった神社を取り込むように公園が出来たという方が正しいのだろう。
御嶽神社。周囲が公園で、民家がないことも独特の雰囲気を醸し出す要因。古くからの歴史を感じさせる、石の祠。
今はひっそりと静かな神社だが、長く大事にされてきたことが窺える。
階段を上がって境内に足を踏み入れてみる。
「御嶽神社
創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山昆古命(かなやまひこおみこと)・金山昆賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。
栗原の地は、康生二(一四五六)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。
当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(一八五四)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。
毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(蓬莱山)を神前に供える風習が残されている。
平成四年三月 板橋区教育委員会」
境内社の稲荷社。
木造の社殿に社務所が隣り合っている。
社殿の建築年代はいつ頃のものだろうか。大きなものではないけど、堂々たる風格を感じる。
城北地区の神社らしく、シンプルな趣。
神楽殿もある。
奥に大事にされているのが、狼型の狛犬だろうか。更に右側の階段を上っていけるようになっている。
山岳信仰との結び付きということだろうか。一番高いところにも祠が祀られている。
直ぐ後ろには公園のグラウンドの金網が見えている。でも、その喧噪を他所にこの境内は別世界の様。
すぐ裏手は、城北公園。こんな雰囲気。左手の生け垣がそのまま山になっていて、その上が神社。
御嶽神社。周囲が公園で、民家がないことも独特の雰囲気を醸し出す要因。古くからの歴史を感じさせる、石の祠。
今はひっそりと静かな神社だが、長く大事にされてきたことが窺える。
階段を上がって境内に足を踏み入れてみる。
「御嶽神社
創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山昆古命(かなやまひこおみこと)・金山昆賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。
栗原の地は、康生二(一四五六)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。
当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(一八五四)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。
毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(蓬莱山)を神前に供える風習が残されている。
平成四年三月 板橋区教育委員会」
境内社の稲荷社。
木造の社殿に社務所が隣り合っている。
社殿の建築年代はいつ頃のものだろうか。大きなものではないけど、堂々たる風格を感じる。
城北地区の神社らしく、シンプルな趣。
神楽殿もある。
奥に大事にされているのが、狼型の狛犬だろうか。更に右側の階段を上っていけるようになっている。
山岳信仰との結び付きということだろうか。一番高いところにも祠が祀られている。
直ぐ後ろには公園のグラウンドの金網が見えている。でも、その喧噪を他所にこの境内は別世界の様。
すぐ裏手は、城北公園。こんな雰囲気。左手の生け垣がそのまま山になっていて、その上が神社。
非常に興味深く、これから散歩をするときは参考にしたいと思います。