東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

中央区湊

2011-05-12 18:00:00 | 中央区
さて、湊である。この町の名は、この町が江戸の海からの玄関口に位置していたことから付いた名前である。かつては八丁堀から勝鬨橋の際まで続く道は運河であった。そして隅田川沿いに出来た陸地の形から鉄砲洲と呼ばれてきたところである。今でも鉄砲洲神社がある。そして、この辺りは中央区内随一の印刷関係の町工場の集中するエリアでもあった。神田の印刷工場が出版関係なら、こちらは帳票関係が多かったようだ。商いの町である中央区らしい。そして、今ではこの町はバブルという化け物が暴れ回った爪痕が、そのまま残されている町としても有名になってしまった。かつての鉄砲洲のエリアを中心に歯抜け状に家が取り壊され、その後に立体駐車の機械が決めごとの様の置かれ、それがまた揃いも揃って錆び付いている。見ているだけで実を切られるような思いがする。この当時の生き生きとした活気のある町は,切り裂かれてしまった。この地域の人々の心をも深く切り裂いてしまったことだろう。区が中心になっているのか、URが土地をとりまとめて高層マンションにして再開発をしようとしているようだが、はたしてそれでこの町を甦らせることが出来るのか、考えてしまう。撮影日は1981年9月30日、10月3日と1982年1月29日。現在の画像は2010年11月8日9日18日に撮影。

三丁目12番と17番の間。隅田川に近い辺り、佃大橋の通りから入ったところ。今は両側がビルになってしまい、あまり日が差さない薄暗い通りになっている。


三丁目11番。佃大橋の通りから。橋のアプローチの下をくぐる横断歩道から見た景色。佃大橋の交差点である。今はマンションになっている。


三丁目9番と10番の間。その通りを進んだところ。角の家は壊されて駐車場になっている。その奥の家は現存している。一番奥に見える鉄骨は勿論マンションになっている。


三丁目2番。よせ物樋口、これも築地からの流れという感じ。看板が立派だったのが印象的。今はオフィスビルが建っている。


二丁目2番と7番の間。二ブロックほど八丁堀方向へ行ったところ、奥に見えているのは中央区立鉄砲洲小学校(当時)。ここには東洋船具株式会社東京営業所の看板が見える。通りの雰囲気はあまり変わっていないのだが、活気は感じられなくなっている。


三丁目8番。建物があまり立派ではない点を別にすれば、京都の町屋の様な光景。印刷屋さんの多いエリアらしく、銅商印刷と出ている。入船でもそうだったが、区画の奥の家の玄関はこんな感じだった。今は区画丸ごと高層マンションになっている。


二丁目2番。更にもう一本進んだ通り。矢島ステンレスと引き戸に書かれている。モルタル塗りの看板建築。色を塗られているが現存している。


二丁目2番。その並び。右はプラス工業、その隣には個人タクシーの車庫と看板が出ている。この町で人々が生活していることが一目で分かる。いまはビルが建っている。暮らしている人はいない。


二丁目7番。更にその並びを奥へと進む。テイラーNOUMAIと池田靴店。営業はされていないが、建物は健在。


二丁目7番と9番の間。その並びの角から向こうを見たところ。右側の看板には製氷問屋角田商店とある。道路の右側はビル二棟になっていて、手前側は歯抜け状態。ここも印象がまるで変わっているところ。


二丁目1番。もう一本奥の通りへ進んで、鉄砲洲小学校の交差点。印刷工業の町らしく、窪島製本工場。今はマンションが建っている。


二丁目1番と8番の間。その間の道を進んだところ。東芝の電気屋さんに第一印刷所の看板が見える。右側は今はコインパーキング。


二丁目8番。面白い造りの建物。ここも印刷会社で、今は新しいビルになっているが、盛業中。


二丁目10番。少し戻って、隅田川方向へ。元運河だった通りを越えたところ。今は悲惨な状態になっているエリアである。学洋塾の看板、建物とも現存しているが周りは歯抜け状態になっている。


二丁目11番。その通りの反対側を見たところ。今は、こちらも歯抜け状態で酷いことになっている。左側奥に深い傾斜の瓦屋根が重なり合って見えている。これは昔の東京の商業エリアのとてもらしい光景。東京の商家の特徴の一つだった。


二丁目11番。その通りをでた角の太田用品店。今は自動車修理工場。隣の豆腐屋双葉商店は今も営業中。


二丁目10番。その反対側の角。今は空き地に錆びた立体駐車機が置かれている。この建物も昭和初期の復興期に建てられているはずだが、屋根の勾配がきつめなところなどは、それ以前の江戸からの風習を受け継いでいる。


二丁目14番。突き当たった通りを望む。路上駐車はとにかく多かった。今は激減しているのだが、町の活気まで激減しているように思える。左端の店は岡商店という酒屋さんで今も営業している。


二丁目10番。前の写真とは逆方向に進んで、左手の路地を覗く。どこを見ても生活感が溢れていた。路地なのに、日用雑貨の広瀬屋の看板が出ているのも面白い。いまは歯抜けに家が取り壊されているので、殺風景な感じである。


二丁目10番。通りの進行方向を望んだところ。この町はゴチャゴチャしてるけど、活気のある町というのがこの当時の印象だった。今は...。


二丁目10番。次の交差点で振り返りながらのカット。角の翠峰堂印章に八百秋の屋号の飯田弘男商店、向こうにもアイスクリームを売っている。ごく普通の活気ある町。今は、建物は壊されてコンクリートが打たれ、駐車機の錆がコンクリートを錆色にしている。


二丁目10番。角の右側はこんな感じ。角から二軒目の宮川商店の看板の出ている建物だけが現存している。今は酒屋の倉庫になっている。


一丁目11番。更にそのまま進むとこんな感じだった。この一角は今もそれほど変わっていない。建物も良く残っている。手前から林商店、今村商店に中央薬局。営業しているのが、手前の林商店だけになっているけど。


一丁目12番。その道の反対側。大和産業。何の会社だったのだろうか。こんな家が会社というのも良いものだと思う。今はマンションになっている。隣には東京リスマチック、大明建設。


一丁目13番。更に進んで、次の交差点を右手を見たところ。角の鉄砲洲薬局が良い雰囲気。コールベートって何だろう?奥も亀島川越しに遠くのマンションが見えている。今は角は建て直されていて店はない。奥にもマンションが建っていて抜け感はなくなっている。


一丁目10番。そのまま振り返ると反対の角がこんな風だった。一階は印刷関係の町工場だろうか。屋上にもう一棟乗せてあるような感じ。今はビルになっている。


一丁目10番。その向こうの鉄砲洲神社側へ回り込んだところ。今は敷地が分割されているように見える。角のビルとマンションが隣に建っている。


一丁目12番。少し戻って、先程の角にはんこ屋さんがあったところから隅田川寄りに行ったところの角。看板建築というと基本的には商店がほとんどなのだが、この辺りだと町工場バージョンになっている。銅板がすっかり緑青を吹いている。今はマンションである。


一丁目14番。その向かい側の建物。日本不動産株式会社と書かれていて、今もそのまま建っている。中元さんの会社だったのか?今はこれは外されている。この横から川沿いに出られる。この当時は知らなかったのだが、この建物は裏手まで続いていて奥が大きい。


一丁目11番。そこからかつて運河だった通りへと出たところの角の家。手を入れられているが、今も健在。和洋折衷の良い感じの家。


こうして見ていくと、明らかに新富町から入船、そして湊と、隣り合う町だけど違う個性を持っていたことがよく分かるのが面白い。新富町は今でも活気を失わずに、どこか以前の風情を漂わせている。入船はビルが建って、町の活気は失われているように見える。そして、湊はバブルの爪痕が生々しく残されて、かつての活気ある町の残骸が痛々しい。どうやってこの町を再生させていくのか、どうすればいいのか、難しい課題だと思う。


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2 コメント

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湊町 (窪島)
2021-12-21 11:31:28
こんにちは
生まれ育ち20代半ばまで居た実家の写真、今頃ですが懐かしく拝見しました。他の建築コレクションをしている方のブログでも紹介されていたのは、以前拝見していましたが、こちらを見つけたのは今日で、違うアングルの綺麗な写真、保存させて頂きました。
もう千葉県に転居してからの年数が、だいぶ上回りました^^;
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ありがとうございます。 (kenmatsu)
2021-12-21 15:21:22
窪島様

拙いブログをご覧いただき、ありがとうございます。デジタル以前の時代に普通の街の普通の景色というのはなかなか残りにくいものでした。かつて一生懸命に撮影して回った写真が少しでも懐かしく見ていただければ幸いです。
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