東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

川越街道補完編(五)東新町安養院

2015-10-25 21:33:03 | 板橋区
東新町氷川神社前の道を進んでいくと、安養院という寺に行きつくのだが、その前の丁字路、左手に板橋区の施設があるのだが、その様子が曰くありげ。なにやら、門柱のようなものが遺されている。


「上板橋村役場跡
 江戸時代に川越街道の宿駅になっていた上板橋宿は、現在の弥生町・東山町・東新町・常盤台・南常盤台・桜川・上板橋・大谷口・大谷口上町・大谷口北町・向原・小茂根、そして練馬区の旭丘・小竹町を含む大きな村でした。明治五年の調査では、戸数四〇五戸、人口は二三七六人でした。
 明治二三年(一八八九)の町村合併施行にあたっては、江戸時代の村をいくつか合併して新町村が編成されるのが普通でしたが、上板橋は単独で上板橋村となりました。役場は、当所安養院の玄関や境内の建物を使用していましたが、昭和二年(一九二七)にこの場所に新庁舎を建築しました。以後、昭和七年に上板橋村が東京市に併合されるまでの五年間、ここに役場が置かれていました。石柱はその当時に門柱として使われていたものです。
 この役場跡は、平成十四年度に「一町三村役場跡地」として、板橋町役場跡、氏村役場跡、赤塚村役場跡とあわせて、板橋区の文化財に登録しました。
 平成一五年三月 板橋区教育委員会」


その前が、その安養院という寺。しかし、村役場の話から安養院が明治大正期に都心部から移転してきた寺ではなく、古くからこの地にあった寺であることが分かる。


広い境内、そして建物の雰囲気のある木造のもの。


「鎌倉幕府の執権北条時頼によって創建されたと伝えられている真言宗寺院です。鐘撞堂の銅鐘は江戸時代の作で国の重要美術品です。前立ち本尊の紅頗梨色阿弥陀如来像は孔雀座に坐す江戸期の作です。厨子に入った釈迦四面像は、武田信玄の守本尊であったと伝えられています。古文書は江戸時代から昭和期にかけての寺院経営や周辺の真言宗寺院の様子を明らかにする資料です。庫裡は、明治35年(1902)麹町に建てられた旧伯爵松平基則邸を昭和5年に移築したものです。」(板橋区サイトより)
なるほど、という感じ。城北地区ではこの時代からの寺院はそれ程多くはない。そんな歴史ある寺院で、農村部の中心地となるような存在であった事が想像される。そして、庫裏なども立派なわけで、しかも貴重な建物であることが分かる。境内の様子。


寺宝なども色々あるようで、上板橋村の歴史を知る上でも重要な寺院。


「安養院のカヤ 板橋区登録記念物(天然記念物) 平成7年3月13日登録
 カヤはイチイ科の常緑高木です。このカヤは現存するカヤの中で最大のもので、大蛇が棲むという伝説があり、付近の住民から畏れられていました。また、付近のカヤの多くは、このカヤの実を移植したものといわれています。境内、本堂の向かいにあるため、環境条件がよくい樹勢は旺盛で、枝張りも見事です。毎年4月には花が咲き、楕円形の実をつけます。」(板橋区サイトより)


境内を見て歩いていると、立派な山門に気付いた。


門前には、弘法大師豊島八十八ヶ所霊場を示す石柱。


山門を内側から見たところ。


そして、振り返ると本堂が鎮座している。


大正六年築の本堂。


重厚で趣がある。


新旧の建築物が境内に並ぶ。


盛り沢山な感じのするお寺。


鐘楼も本堂と同時期のものらしい。


大師堂。


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