さて、上板橋宿に入る。川越街道は脇往還で、川越は途中宿泊無しの行程であったから、宿場といっても荷物の継ぎ立てなどがメインの約割であったのだろうか。
その宿場町には寺が一つだけあった。万福寺という寺。街道から新道よりの方へ裏へ踏み込んでいったところにある。狭い路地のなかにあって、驚かされる。
万福寺は大きな寺ではなく、今も民家と見紛うような雰囲気。
入った所にお地蔵様が並んでいる。
江戸時代の年号の刻まれた宝塔もあって、小さな寺だけど永い歳月を超えてきていることを感じさせられる。
寺の縁起を刻んだ石碑。以下は板橋区の案内板から。
「万福寺
当寺は真言宗豊山派にして、補陀落山万福寺と称し、御本尊は薬師如来である。創建年代は不詳であるが、開山の法印覚霊が慶安四(一六五一)年に入寂しているのでそれ以前の開創と思われる。文政六(一八二三)年の「上板橋村地誌」書上帳には、無住、西光寺兼帯と記されている。上板橋宿唯一の寺であったが、無住のため旅僧の仮宿などになっていたと伝えられる。
本堂には弘法大師作と伝えられる木像が安置されている。又墓地には明治初期に神田から上板橋宿へ「祭り囃子」を伝えた石田滝蔵の墓碑がある。
平成四年三月 板橋区教育委員会」
これも江戸時代の水盤。
本堂は、民家のような造り。
明治36年6月に行われた万福寺の修繕新築にまつわる記録を刻んだ石碑。しかし、石に刻むというのは、記録を残す上では確かに確実性が高いように思える。反面、柔らかい石だと、表面が剥落してしまうケースもよく見掛ける。
板橋宿の遊廓千代本楼の主人が寄附をしている。
昭和29年に建てられた戦没者慰霊塔。
以前にも掲載した、上板橋宿の面影を遺す街道沿いの木造商家。
板橋宿にはこのレベルの建築は一切残っていないし、今では貴重な往年の面影を遺した建物。
消防倉庫も、どこか趣のある雰囲気。
その宿場町には寺が一つだけあった。万福寺という寺。街道から新道よりの方へ裏へ踏み込んでいったところにある。狭い路地のなかにあって、驚かされる。
万福寺は大きな寺ではなく、今も民家と見紛うような雰囲気。
入った所にお地蔵様が並んでいる。
江戸時代の年号の刻まれた宝塔もあって、小さな寺だけど永い歳月を超えてきていることを感じさせられる。
寺の縁起を刻んだ石碑。以下は板橋区の案内板から。
「万福寺
当寺は真言宗豊山派にして、補陀落山万福寺と称し、御本尊は薬師如来である。創建年代は不詳であるが、開山の法印覚霊が慶安四(一六五一)年に入寂しているのでそれ以前の開創と思われる。文政六(一八二三)年の「上板橋村地誌」書上帳には、無住、西光寺兼帯と記されている。上板橋宿唯一の寺であったが、無住のため旅僧の仮宿などになっていたと伝えられる。
本堂には弘法大師作と伝えられる木像が安置されている。又墓地には明治初期に神田から上板橋宿へ「祭り囃子」を伝えた石田滝蔵の墓碑がある。
平成四年三月 板橋区教育委員会」
これも江戸時代の水盤。
本堂は、民家のような造り。
明治36年6月に行われた万福寺の修繕新築にまつわる記録を刻んだ石碑。しかし、石に刻むというのは、記録を残す上では確かに確実性が高いように思える。反面、柔らかい石だと、表面が剥落してしまうケースもよく見掛ける。
板橋宿の遊廓千代本楼の主人が寄附をしている。
昭和29年に建てられた戦没者慰霊塔。
以前にも掲載した、上板橋宿の面影を遺す街道沿いの木造商家。
板橋宿にはこのレベルの建築は一切残っていないし、今では貴重な往年の面影を遺した建物。
消防倉庫も、どこか趣のある雰囲気。
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