東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

ブラタモリ~江戸の盛り場・吉原編を見る

2012-01-13 21:10:47 | ブラタモリ
今回のブラタモリは吉原とのこと、番組中でもタモリ氏に言われていたが、果たして今の吉原のどこまでNHKが写せるのだろうかと言うことに、まず興味があった。番組中ではさすがにあまりおおっぴらに触れられてはいなかったが、現在の吉原は東京でも有数のソープランド街であり、あまり通りでカメラを振り回したりできる様なところではない。あからさまにそういった店にカメラを向けていたりすると、恐らくは注意されるのではないだろうか。今でもそういう意味では、かなり異様な空気の町である。番組を見て呑気に見物に出かけると、ちょっと驚くようなところだと思う。

さて、今回の番組の出発点は柳橋だった。番組中で何も触れていなかったが、神田川が隅田川に注ぐ最後の橋が柳橋である。そして、そのシーンで背景に写っていたマンションに柳橋で名声を誇った亀清楼という料亭が今も営業している。神田川の船宿は、かつてはもっと上流のほうまであったようだ。この辺り、前回やっていたのが「江戸の盛り場・両国編」だったので、その直ぐ近くである柳橋からスタートというのは絡めてみたのだろうか?

この吉原は、新吉原と江戸時代から呼ばれている。新というのは元があるからで、江戸開府から間もなくに遊郭の設置を幕府へ願い出て許されたのが、今の日本橋富沢町と人形町に掛かる辺りだった。この辺りは湿地帯で、葦が多かったから葦原ともいう。葭町という町名も、かつては残されていた。明暦の大火の前に、江戸の市域が広がってきたことから移転を幕府から迫られていた。抵抗していたものの、結局明暦の大火で焼け野原になっての移転ということになった。浅草裏に出来た新吉原に対して、こちらを元吉原という。浜町川の西側に並行するように一筋の通りがある。元吉原の大門のあった通りなので、今でも大門通りという名が残っている。元吉原は僅か45年の間のことでしかない。その後、350年が経過しているのだが、今も大門通りが残っていることに面白さを感じる。最も、さすがにそれ以外はそれらしき痕跡は一切残されていない。

そして、移転当時の新吉原は浅草田圃と言われた江戸市中からは遠く離れた場所であった。芝居小屋の猿若町にしても同様で、浅草寺裏といったときの感覚が今とはまるで違う。浅草自体が、元々の江戸市中から見ればかなり外れになるわけで、その向こうといえばかなりの距離感があった。また、幕府としてはそこまで離しておきたかったという思惑が見える。

神田川、或いは日本橋界隈から猪牙舟を仕立てて吉原へ繰り出すというのは、落語でもお馴染みの世界。そもそもが船運が物流の主役であった頃は、一番手軽で高速な移動手段でもあり、旅の気分を味わう風流でもあった。蔵前の松を取り上げていたが、舟で遊ぶのは明治の頃まではかなり普通にあったようだ。木村荘八の随筆によると、島崎藤村も隅田川で舟に乗ることが非常に好きだったらしい。もっとも、彼は舟に乗ること自体を楽しんでいたようだが。

さて、その先今戸橋で舟を下りて後は歩いたと言っていたが、この先の堀割を山谷堀と言って、ここを舟で上っていったのも落語などではお馴染みと思う。番組では山谷堀という名を一度も言わなかったのが、少々不思議な感じがした。この山谷は、ドヤ街で有名な山谷と同じ名称なので避けたのだろうか?映画「あしたのジョー」の公開で、ジョーの町として山谷も町興しを狙っていたくらいだから、今更吉原を取り上げておいて山谷を避けても仕方が無かろうと思うのだが。

そして、待乳山聖天も古くから文学の舞台にもなってきたところでもあり、また池波正太郎の生まれた地でもある。


そして、待乳山聖天と大根。番組ではシンボリックなイメージとしての大根ばかりだったが、江戸、明治から昭和の高度成長期前までは板橋、練馬は大根の一大産地だった。板橋の小豆沢にはその穫れた大根を江戸市中へと運ぶための河岸があった。今も船着き場として残っているが、その名を大根河岸といったそうだ。そこから船で大根は隅田川を下って江戸市中へと運ばれた。これが板橋、小豆沢の大根河岸。


太夫の条件として、時計が直せるというのは面白かった。教養というのも様々だと思う。テレビドラマなどで出演者の出番を一覧表にしたものを香盤表というそうだ。調べてみると、香道で使う香盤に似ているからというのだが、香盤時計という香を焚いて時間を計る時計があった。これを使って芸者置屋ではお座敷の時間管理をしていたというのだが、この辺りに関連性があるのかなと思ったのだが、どうなのだろうか。

その山谷堀に掛かる紙洗橋、冷やかしの語源とは知らなかった。とはいえ、浅草紙が今では伝わらなくなっているのだろうと思う。今は落とし紙といえばトイレットペーパーのロールを使うのが当たり前になっているが、かつては浅草紙という粗悪な再生紙を使ったものだった。ちり紙にも使ったが、四角い紙が分厚く束になっていたのを覚えている。何時の頃からか、ティッシュペーパーやロールペーパーに取って代わられて見掛けなくなった。思えば、下水道の普及でトイレが水洗になり、紙が溶けることが要求されるようになって一気に廃れていったのだろうと思う。そしてこの山谷堀、辿っていくと王子の石神井川へと行き着く。音無川として枝分かれして日暮里へ流れ、さらに三輪で分流して隅田川へと注ぐ。

山谷堀に沿っての長い堤が日本堤である。この辺り、以前のブラタモリの内容とも重複してくるのだが、荒川放水路の開削以前の江戸の水害対策の最終防衛ラインがこの日本堤でもあった。隅田川上流が洪水に沈んでも、日本堤で食い止めれば江戸市中を守れるというものだった。荒川放水路の開削で日本堤の北側でも洪水の恐怖から解放されたと言えるだろう。その土手、大門の向かいにはかつては中へ遊びに行く人が腹拵えをしたであろう天ぷらの伊勢屋、さくら鍋の中江が並んでいる。どちらも往年の雰囲気をこの辺りでは珍しく残しているところ。そして、不思議なのはバス停には勿論吉原大門という名が残っているのだが、交差点名としても存在している。そこには触れずにバス停にしかその名が残っていないという紹介をしていたのが謎に思えた。


江戸時代の文化的な側面について触れていたが、やはり苦界というのが吉原の姿でもあったわけで、そのダークサイドの題材として三輪の浄閑寺が登場した。ここには遊女の墓だけではなく、永井荷風の筆塚も建てられている。荷風は生前にこの寺に葬って欲しいと書いていたのだが、没後は雑司が谷墓地に弔われている。浄閑寺での見所の一つ。ここには、花又花酔の句碑も建てられており、「生まれては苦界死しては浄閑寺」という有名な言葉が刻まれている。

そして、また吉原が田圃に土盛りをして出来た土地とのところで、公園の前(と言うか後ろというべきか)でロケをしていたのだが、ここが正にかつての大籬(おおまがき)~郭の老舗の大店をこう呼ぶ~であった大文字楼があったところである。この家に生まれ、そのことに苦しみ、また吉原を愛した相反する感情を秘めたストーリーが、「大正・吉原私記」波木井皓三著青蛙房刊である。吉原が文化的な側面を持っていたと言えるのも、江戸時代の話。だが、その後も吉原は戦後の昭和の世まで存続していく。果たして、大正期の吉原はどんなところだったのか、そこに暮らす人はどう言った風であったのか、そんなことを知りたいと思うのならこれに勝る本はないと思う。この書の最後の一分を転載しておく。番組では取り上げられなかったが、吉原の一角の裏手に花園池の跡が今も残されている。そこは震災の折にも数多くの遊女が命を落とした。そこに著者は佇む。
「もし昔の大江戸の華やかな吉原の残像を偲ぼうと想う人があるならば、この水溜りの畔にたたずんで、心静かに水溜りを凝視するならば、そこにはいつしかその水溜りの水鏡の中に、大江戸のきらびやかな裲襠(うちかけ)姿の遊女の残香をとどめた大正の「生まれては苦界死しては花園池」の遊女の艶姿が、ただよい浮かび出づるに相違ないと思うのである。」

この本では、大文字楼で生まれた著者の思い出話は勿論のこと、歌舞伎と吉原の関係や、救世軍の廃娼運動、さらに著者自身が家業を重荷に感じての苦悩など、インサイドストーリーとしては非常に興味深い内容が描かれている。吉原へ遊びに行った側でもなく、遊女であったわけでもないのだが、誰よりも深く吉原と関わり合っている不思議な立場からの話で、ここに興味を持つ向きなら是非一読をお勧めしておきたい。

また、この吉原の隣町が竜泉である。たけくらべは樋口一葉が、ここでの暮らしを元に描いた作品である。台東区立一葉記念館も直ぐ近くにある。三輪から浅草、もしくはその逆のコースで散策しながら辿ってみるのなら、こちらもお忘れ無く。

次回は国分寺という。大分年代を遡っていくことになるようだが、どんな中身になるのか楽しみにしたい。


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3 コメント

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疑問について (匿名)
2012-01-19 22:21:00
ここ最近ですが信号の看板、取り外されたのですよ。だから番組でも触れられなかったのだと思います。
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Unknown (kenmatsu)
2012-01-19 22:35:16
どうもありがとうございます。昨年の春以来行っていないので、無くなっているのを知りませんでした。

丁度本日、東京新聞で連載中の瀬戸内寂聴さんの「この道」という記事中で、青鞜の女性たちが大文字楼に上がったことについての話が出ていました。
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吉原大門信号看板 (kenmatsu)
2012-04-17 22:37:06
先日、2012年3月のことですが、バスで通り掛かったところ、信号の吉原大門の看板が復活しているのを見ました。取り外されたものの、再び復活したようです。
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