東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(22)築地明石町(2)

2012-08-16 22:15:09 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

「むかし、明石町は大川の河口にのぞむささやかな一角であった。明暦の大火(一六五七年一月)以後、木挽町東部の築地埋立てのすすむなかにあって、そこには播州明石の漁民が移住したといわれ、対岸の佃島を淡路島にたとえたといわれるが、いずれにしてもその名のおこりは、居住者の生業にかかわり、景観につながっている。合引川(築地川東支川)の出口に明石橋が架けられたのは、廷宝八年(一六八○年)のこと、綱吉が五代将軍となった年である。
 京橋川、三十間堀、汐留川にかこまれた地域は、その大半が武家地だった。町人地は河口ぞい、掘割ぞいに細長くつづいていただけである。江戸末期にいたるまでその区画はかわっていない。京橋川の稲荷橋から明石橋まで、俗に鉄飽洲とよばれたこのあたりは、たとえば文久元年(一八六一年)の切絵図では、本湊町、船松町、同二丁目、十軒町とつづき、その端に明石町が小さな一角をみせている。」

この縁からなのか、赤穂藩浅野家の屋敷もこの地に置かれていた。松の廊下の刃傷の後、浅野家は断絶となり四十七士の討ち入りとなるわけだが、事後の本所松坂町の吉良屋敷から泉岳寺へ向かう志士たちは、鉄砲洲を抜けていっている。浅野家の屋敷のあった赤穂と縁の深い鉄砲洲に差し掛かった時、彼らの胸中にはどんな思いがあったのだろうか。今でも、彼らの歩いた道筋を辿ることが出来る。道筋だけは昔のままに残されている。
鉄砲洲はその島の形が似ていることからその名が付けられたというのだが、今は形作っていた川は埋め尽くされてしまい、その面影を探ることは難しい。
浅野邸跡を示す石柱。


「居留地は結局のところ、従来の案よりせばめられて、明治元年十一月に発足する。築地地区の南小田原町、上柳原町、南飯田町などは開市場の範囲にくみいれられた。それは明治新政府が幕府から引きついだ仕事であった。船松町、十軒町、明石町のほか、武家地の上地によりあらたに起立した入船町の七、八丁目、新栄町の六、七丁目、新湊町の六、七丁目がくわわり「外国人居留地」となって五十二区画(のち六十区画)に分けられたが、明石町の名はまもなく復活する。それも幕末期より拡大された区域の町名となる。」

武家地の多かった鉄砲洲は、明治になって開国の最前線である外国人居留地となる。船が着けられる海沿いであることはもちろんだが、武家地が多くて、維新以後では土地の収用が行いやすかったこともこの地に居留地が置かれることになった要因の一つではないだろうか。幕末から始まった居留地作りでは、数少ないとはいえ居住していた町人達は、立ち退きに抵抗したという。江戸時代といえども、勝手放題に土地収用が行われていたわけではないし、幕府といえども思い通りに事が運べたわけではない。江戸市中の町名に、代地というのが結構たくさん出てくるのも、その証明。立ち退かせる場合は代替え地を必ず用意して移転させたことの痕跡である。

「『東京府志料』には居留地内の一地名として、つぎのように記載されている。
 「明石町此町ハモ上局瀬、若桜二藩邸及ヒモトノ明石町、船松町二丁目、十軒町ノ地ナリ。明治元年上地シテ外国人居留地トナル。又町内モトノ明石町ノ跡二東京府支庁アリ。同六年明石町ノ旧名二基キ新二町名ヲ加フ。」
 さらに明治三十二年の居留地の廃止後は、元居留地の全域をふくめて明石町となった。その名は現在まで変わることなくつづいている。となりの本湊町がぶっきらぼうに「湊」となったにもかかわらず、ここだけは昔の両影をかたくなにつたえようとする。明石橋東詰の小さな漁師町の名が、時代の荒療治にもかかわらず存続し得たのは、そこにとどめた大川河口の美観のゆえなのか。旧居留地の異国情緒が人々のこころにしみこんでいたためなのか。明石町の名からは明治の東京のあたらしい風景の余韻がつたわってくるのである。」

この辺りも関東大震災で焼失しており、戦災は免れたものの、明石町では聖路加病院の再開発もあって、古くからの町の面影はほぼ残されていない。聖路加病院の再開発までは、昭和初期に作られた建物が残されていたし、築地川が埋め立てられてはいたものの、その面影が感じられたものだった。聖路加病院はその性質からか、東京空襲の際にも爆撃を避けられており、その結果築地、月島、湊、入船といった辺りが戦災を免れた。戦前に聖路加病院の上から撮影された東京の写真が、戦時中に東京空襲の資料として使われたという話もあって、この辺りの裏面史も興味深いところだと思う。となりの旧本湊町、今の湊辺りはやはり震災で焼失した後にできた町が近年まで残されていたのだが、バブル期の地上げで酷い状態になり、しかも途中でバブルが弾けたことで町中が虫食い状態で放置されている。町の様子を見ているだけで胸が痛くなるような有様で、どう収集するのか、困難を極めているようだ。
震災復興期に建てられた築地教会。落ち着いたたたずまいの教会で、かつては米国公使館が置かれていたところでもある。


「この築地明石町界隈の風景については、当時の錦絵やスケッチなどからそのありさまを想像することができる。国輝や三世広重は好んで文明開化のエキゾチックな世相を描いたし、また洋式ホテルや住宅建築の写真もあって、独特な雰囲気をかもしだしている。
 たとえば国輝の「東京築地鉄炮洲景」は、築地川の堺橋、傭前橋、小田原橋を前景において、築地の開市場、築地ホテル館、外国人居留地、新島原遊廓、さらに鉄飽洲稲荷の富士山をも組みいれるという大胆な構図である。明石橋のさきの居留地には東京運上所の日の丸の左に、あめりか、ろしや、ふらんす、ぽるとがる、ぶろいせんなどの表記で十二ヵ国の国嬢をならべている。東京湾には各国の汽船、帆船が浮かび、彼方には房総の山々がみえる。集約と誇張がめだつが、日本と西洋の入りまじった風景が新名所として紹介されている。
 それにくらべると「東京のなかの外国築地居留地」という僻鰍図はかなりリアルである。私は『明治大正図誌』第一巻(小木新造.前田愛繍、昭和五十三年、筑摩書房)のなかでそれを教えられたのだが、米国聖公会雑誌「スピリット・オブ・ミッションズ」(一八九四年三月)に掲載されたものとある。合引川にかかる軽子橋、堺橋、新栄橋を前景において、居留地の全景が描かれている。その左手に日本人の街なみがぴろがり、大川をへだてて石川島、佃島があり、月島は造成中である。上流には永代橋、新大橋がみとめられ、関東平野の彼方には筑波山が姿をみせている。」

築地居留地は、前回も触れたように結果的には上手くいったとは言い難い。当初は貿易目的の商人もやってきたものの、港は横浜で東京には大型船を着けることが出来ない。ということになると、商人は横浜へ集まってしまう。集まるようになればなるほど、横浜の利便性が増していき、築地居留地の意義は失われていった。その空洞化しかけた築地居留地にやってきたのは、宣教師や教育者達であった。日本への布教が明治になって認められるようになったことで、彼らの活躍の場が生まれた。
という経過はともかくとして、明治維新と外国人というのは、黒船来襲から始まった幕末の動乱を思えば、切っても切り離せない間柄というべきもので、物見高い江戸っ子でなくとも外国人が生活する様というだけでも目新しく興味深いものであったことだろうと思う。
料亭つきじ治作。


平成22年に中央区立郷土天文館タイムドーム明石で開催された「東京にあった外国人居留地~明石町遺跡の発掘調査より」という展示は、非常に見応えのあるものだった。その会場で配布された目録も、無料で配布されるのが信じられないほどの中身があって、築地の居留地についての資料として、非常に参考になる。今回のブログで引用している江戸時代の武家屋敷のあった明石町から、居留地の時代の外国人の生活の場であった時代のことなど、それぞれに変遷を踏まえて記されている。当時の展示も、発掘調査によって出土した江戸時代の武家屋敷の品々から、明治の居留地時代のフランス人の屋敷の跡から出た遺物など、それぞれの時代の手触りが感じられるようなもので、見ていて印象に残る展示であった。
築地居留地略図(中央区立郷土天文館 東京に在った外国人居留地より)


「鏑木清方は少年時代の記憶をよびさまして、つぎのように書く。
 「鶸色に萌えた楓の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない渦を描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思ひ出が、色の纏せた版画のやうに、築地川の流れをめぐつてあれこれと偲ばれる。・・・・・・
 築地は、殊に新興明治の匂ひが、都会のおちつきの上へ更に新鮮味を加へて、亀井戸、向島の伝統の江戸趣味とは全く違つた雰囲気を醸し出したのであつた。
 今の築地には築地小劇場があるので、最近はとにかくこの数年前までは、若い人で劇に関心をもつものなら『築地」といふ語をきいただけで、感激しやすい青春の心に何かしら清鮮な輿奮を齎せずにはゐなかつたであらう。私たち年配のものが昔の築地に感じたものは、ただ一箇の劇運動よりももつまるとひろく、建築、生活、そこにわれわれの日常生活と宛で違つた異国人のそれが、劇でもなく写真でもなく、まのあたり一つの大きな街となつて実在しているのに接することの驚異であつた。
 委しく云へば驚異といふのは適当な措辞ではない。居留地の創められた頃こそそれは全く驚異の眼を瞠つたのだらうが、私たちは日夕に接して、よそながら異人の生活はこんなものと見るに慣れたので驚きはしなかつたけれど、常に新しい刺激を受けて、初夏の爽かな季節に触れるやうな気持をいつも懐いてゐた。」(「築地川し昭和九年)
 新聞記者であり戯作者であった條野採菊を父とし、母方に鉄砲洲湊稲荷の杜司の血筋をひいて、築地、木挽町に育っただげに、築地川の水域によせる愛着はなみなみならぬものがある。そのゆったりとした、確かな筆さばきで、おのれのこころの表白をみせるところは、彼の名作群とおなじように美しく、感動をよびさまさずにはおかない。こころとかたちがみごとな調和をみせる。明治の東京人ならではの洗練された感覚がある。ことに居留地に想いをはせるところはすばらしい。」

やはりその地に生まれ育った人の、思い入れのある言葉は重い。居留地という、異国が眼の前にある驚異と、その美しさを愛でる言葉の選び方すら美しい。明治の人だからと言うのもあれば、清方ならではともいえるのだろう。ここに描かれている築地川は、よどんだ流れがどす黒く、ゴミ芥の投げ込まれた川ではない、清い流れを保っている川である。その川は溯っていけば、銀座の章の最後に出ていた池田弥三郎の「数寄屋橋の下で泳いだことのないヤツに何が分かる」という言葉に繋がる流れであることが分かる。
異国情緒溢れる居留地という言い方は、いかにも定型的な言葉ではあるのだが、明治の頃の居留地の異国情緒というのは文字通りの意味合いで、実在していたことも確かなのだ。そして、その異国への憧れというのも、今日とは比較にならないものがあった時代でもある。
明石町の裏へ入って歩くと、辛うじて僅かに木造家屋が残っているのを見つけることができる。


大阪の川口居留地においても、東京とほぼ同じ様な経緯を辿り、商人は最初だけで神戸に集まっていき、大阪のミッションスクールの揺籃の地となっている。築地と違っていくのは、川口居留地はその後中国人が多く暮らす様になり、対中貿易の拠点としての発展を遂げたと言うこと。築地居留地は、居留地法が廃止されると聖路加病院を中心とした町になっていった。
現在の聖路加病院。震災復興期に建てられた建物を保存しながらの再開発であることは十分理解できる。素晴らしいとは思うものの、かつての町がほぼ壊滅していることは残念に思う。


「「堀割の川筋井の字耕のやうに流れる、築地川沿岸は都会に生まれた私にとつてはこれこそ懐しい故郷なのである。
 分けても築地明石町は、少年にして初めて触れたる異国清調の豊かなりし思ひ出の忘れがたく、あの白々とした海近い街路は、行人稀なれば挨もなく、カントリー・ハウスを続る、柳、ポプラ、夏は紫陽花、立葵の咲く庭に嬢椅子据ゑて、金髪の麗人の書を読むが、浅黄色のペンキやゝ古びたる柵を越Lて窺はれ、海に沿ふたるメトロポール・ホテルには常に観光の客絶ゆることなく、入江に繋がる帆船のマスト林立して、個の漁村秋寂びたる夜など、朱盆の如き月、住吉社頭の大鳥居より出でゝ、うそ寒さに袖掻き合せて磯の香の身に沁む海辺を独り往けば、ホテルの広間銀燭煌々として歓呼の声、四辺の静寂を破る。
 その頃の自分の欲望に、築地川のほとり、紫陽花の垣を作つた家のあつたのを、我れ志を得ば、あの花の垣を作らんと思ひ、メトロポール・ホテルの前を通りては、他日こゝに泊まらるゝ身分とならば、海に面したる一室を専用して長くこのホテルに宿りたしと願つたのであつた、が二つながら今は亡し。
 築地から明石町へゆくには、軽子橋を渡るか、本願寺裏の備前橋を渡るかするのであるが、私は軽子橋を通つた。この橋の挟に桜井といふ洋菓子屋があつて、シュークリームの珍らしい頃この家のをよく買つたものだつた。それは齢長じて、再び木挽町に住み妻を迎ふる頃であつた。」(「築地明石町」昭和二年)
 このような文章からは、清方の息づかいがはっきりときこえてくる。」

なんというのか、清方という人持つリアリティとしか言い様がない。東京と名を変えてはいても、未だ江戸以来の町並が残り、少しずつ変わりゆく市内からみても、唐突なまでにそこに忽然と現れている異国の町並、そして外国人の生活が眼の前で行われていること。メトロポールホテルは、居留地のシンボルの一つと言っても良い様で、明治末には帝国ホテルに吸収され、そして閉店してしまう。居留地が意味を失う時代になれば、明石町という町もその姿を変えていくことになる。それにしても、この生き生きと描写される明石町は、なんと魅力的な町であろうことか。
築地ホテル館から見た南小田原町、居留地の風景(中央区立郷土天文館 東京に在った外国人居留地より)


かつてメトロポールホテルのあった辺りは、今では聖路加の超高層ビルが建ち並んでいる。


「このようにみていくと、内田魯庵が書いたサンマー学校も文教地区形成のひとつの力となっていたと考えられる。正しくはジェイムズ・サマーズの「欧文正鵠学館」であった。前記の『築地居留地』には居留地区画の明細表(居往者名簿もふくむ)もあって、彼の一家は三十二番(二六七・五坪)に明治十七年から住んでいたことがわかる。
 彼は青年時代、中国にわたって中国語方言を学んだ研究者だった。二十五歳のとき(一八五二年)、ロンドン大学キングス・カレッジの中国語教授に任ぜられ、当時の教え子のひとりにのちの外交官アーネスト・サトウがいる。条約改正のため欧米諸国を歴訪した岩倉具視特命全権大使と知りあったことが、日本にくる機縁となった。明治六年以後、東京開成学校(東京大学の前身)、新潟英語学校、大阪英語学校(のちの三高)、札幌農学校で英語英文学の教鞭をとるが、お傭い外人としての契約がきれたのちに、居留地で英語塾をひらいた。娘たちとともに塾の経営にあたったのだが、生徒のなかからは岡倉由三郎、内藤湖南が出た。盛んなころには二千人の生徒があつまったといわれ、夜になると巡査が整理に出たというほどである。明治二十三年春、青山御殿のちかくを散歩中、皇太后のお通りのまえを切りぬけたというかどで警護の騎兵から槍を投げつけられ、頭部に傷をうけるという不幸な事件に際会した。いったんイギリスに帰ったのち、また来日したが、明治二十四年十月、明石町の居留地で亡くなっている。
 魯庵はサマーズ一家の風評が居留地内の外国人のあいだでよくなかったことをあげている。欧化の流行によって盛況をみせたことへの、ミッション連中の「人の疝気を頭痛に病む種子」となったというのだか、このサマーズの塾は、当時の若者たちに強い印象をきざみこんでいる。鏑木清方は「サンマア英語学校、今五十歳から六十歳へかけての人の中にはここに学んで、ミス・サンマアの教へを受けたことのある人も尠くはあるまい」と書いている。八歳年下の谷崎潤一郎もここにかよったことのあるひとりであった。『幼少時代』に「秋香塾とサンマー」の一章を設けて、こまやかに書いているのだが、「若くて美しい英国婦人たちが英語を教へると云ふことが味噌だったげれども、教へ方が気紛れで、秩序も組織もなかつたので、その実あまり語学の足しになりはしなかつた」という一節もある。しかし西洋の女を生まれて始めてしげしげと眺めて、「我が眼を疑ひながらうつとりとなることがあつた」というのである。
 その『幼少時代』が「文勢春秋」に連載されたとき、鏑木清方は挿画を担当していた。サンマー塾の章で清方はその家のたたずまいを端正な筆で描いていた。築地明石町をおもうとき、明治の下町の同時代を過した二人の生き方をおもわずにはいられない。」

サンマー英語塾は、明治の東京の下町の良家に子弟の教養課程の一翼を担ったと言えるのかもしれない。ここで出てくる下町こそが、江戸以来の東京の本来の下町であって、今日の古びた商店街を見て言う下町とは全く意を異にするものであることは言うまでもない。錚々たる人々がここに通っていたことが非常に面白くもある。月謝をはずむと妙齢の外国人女性とマンツーマンのレッスンを受けることも出来たという話もみたことがあって、その辺りが居留地の外国人の間での風評が芳しくないことに繋がっていく様にも思える。そうはいっても、この辺りの微妙な雰囲気が、いかにも明治の時代の居留地らしくもあるのだと思える。
居留地内のミッション・スクール(中央区立郷土天文館 東京に在った外国人居留地より)


この明石町には大阪の明治の立役者であった五代友厚も土地を持っており、東京の屋敷を置いていた。明治18年に50際の若さで糖尿病によってこの世を去るのだが、この東京の屋敷が彼の死没地である。その後も五代夫人はその土地を所有しており、後に新原敏三という牛乳屋を営む男にこの土地を貸している。明治25年3月1日にこの家に男の子が生まれる。この子こそが、後に芥川龍之介として知られるようになる男であった。
芥川の父、新原敏三の借地図。(中央区立郷土天文館 東京に在った外国人居留地より)


五代友厚は、東京ではあまり知られてはいないが、大阪では証券取引所の前に銅像が建っている、東の渋沢栄一と並び称される人物である。その人と奇縁を持った中で、芥川という人が生まれてくると言うのも、明石町という町の持つ面白さである様にも思えてくる。今日の明石町に立って、ここで牛を飼って牛乳を取っていたものだとは、とても信じられないのだが、これも明治という時代の面白さであると言えるだろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿