東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(5)明治の地図

2012-01-12 22:33:56 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

一週お休みを頂いた間に、有島武郎の「或る女」を読んだ。この「東京・遠く近き」の紹介を進めていく上で、やはり読まずにいるわけにはいかない本というのが出てくる。読んでいるものもあるが、読んでいないものも多い。浅学非才の身で、先達の労作を紹介するのは荷が重いと自覚してはいるが、それ以上にこの著作への興味が勝ると言うことでご容赦頂きたい。

さて、その「或る女」だが、思った以上に面白かった。角川文庫版の現代仮名遣いに直されたものを読んだのだが、主人公葉子の心理描写などとても明治末から大正に掛けて書かれたものとは思えない。既にこう書かれてしまっていては、一体何を描くことが新しい表現なのだろうかとすら思えた。舞台は明治中頃なのだが、冒頭の新橋駅の描写など、当時の様子が多少なりとも頭に入っていれば、その景色が生き生きと彩色されたように思えてくる。そんな意味合いでも、読んでみて良かったと思える一冊だった。

そして、今回はその主人公葉子の生まれ育った日本橋釘店から始まる。
「品川町裏河岸はいまの日本橋室町一丁目のうち、三越別館、大栄ビルの南側をふくむあたりである。日本橋と西河岸橋とのあいだの左岸ということになるが、有島武郎が『或る女』後篇のおわりのほうで、葉子をそこにおもむかせたのは、長年したしんだ土地との永別という意味あいをこめていたのであろう。」



「釘店に開業する医師を父とし、キリスト教夫人同盟副会長の役にあった女性を母とし、ミッション・スクールや音楽学校に学んだ葉子は、いわば明治中期の名流家庭に育った美貌の女性である。欧化主義の時代にあってその先端をゆくひとだった。」
という主人公が、恋に落ち、破滅への道を歩んでいった物語である。醜聞、軍事スパイの発覚、病と全てが最悪の事態へと向かっていく。その中で葉子の精神が崩壊していく様の描写が怖いほどに描かれている。その終焉に近い所で、
「彼女は妹をさきに京橋の病院に行かせ、自分は外濠からまわり道をして釘店の横町にはいっている。といっても、人力車からは降りなかった。昔の家のまえでちょっととまっただけで、束の間のうちに家のたたずまいをたしかめたにすぎなかった。」
と、僅か一年の間で起きた変化の大きさに葉子が涙する切ない場面である。この釘店は銀座から行けば日本橋を渡って直ぐの左手の辺りになる。右手には魚市場があった。関東大震災以前には、少しずつの変化はあっても、この物語の舞台になった町の景色がまだ残されていた。以前紹介した「大正・日本橋本町」北園孝吉著は、この釘店から直ぐ近くの日銀本店裏で大正三年生まれの思い出が描かれている。ちょっとしたスタンスの違い、位置の違いではあるのだが、その差異から併せて読むことで明治から大正に掛けての日本橋界隈の姿がグッと立体的に見えてくる。今は日銀通りなどと名付けられている通りが、かつては西仲通りという名で呼ばれていた。そんな今は誰も忘れ去ろうとしているようなことを、本として残っているが故に知ることが出来るのが嬉しい。
震災後に町割まで変わっているこの辺りでは、往時の面影を探すことは難しい。まして今ではビルの建ち並ぶところでもある。



こちらは日銀裏の「大正・日本橋本町」の北園孝吉氏の生家のあった辺り。職人の店があったところとは思えない変わり様になっている。


有島武郎は、明治11年に薩摩藩士であり、大蔵官僚の家の子として東京小石川で生まれた。その後、横浜に移り、10歳で学習院予備科へと入学する。薩摩藩士であった父と、その期待には応えられない想いを抱えた武郎の相克は大正5年に父と死別するまで続いた。有島については、作家としてのデビューが遅かったこと、それまでの生涯で詳細な日記を付けていたことなどから、その精神的な足跡を辿る研究も数多いという。そういった中で、この小説の主人公葉子は、佐々城信子というモデルがあったという。今日であれば小説は虚構であり、モデルと言ってもそのままな訳ではないといったことを世間が理解しているとも言えるが、この当時の世の中では佐々城信子にとっては非道な仕打ちであったと言えるだろう。
「佐々城信子はそれにたいしてなにも申し立てていない。むしろ妹のほうが憤って有島に会見を申し込んでいる。そのいきさつは従姉の相馬黒光が『黙移』(昭和十一年)のなかに書いていて「信子はすでに自分に対する呪詛に馴れきっていて、今更怒るでもなく、いったいに諦めのよい女で『私は一言も弁解などしない』ときっぱり態度をきめておりました」といい、妹は会見を待ちかねていたが「その日のこないうちに有島さんは軽井沢で波多野秋子さんと情死しておしまいになりました」とある。」

相馬黒光は、新宿中村屋を夫の愛蔵と共に起こした実業家としても知られるが、中村屋サロンと呼ばれる画家や文人のサロンを作り、彼らの交流の場を提供した。明治34年に本郷森川町でパン屋を始めたのだが、これが中村屋の始まりである。また、彫刻家の荻原碌山のパトロンであったことでも知られる。この相馬黒光が佐々城家側に立って回想記を残したことで、何も語らなかった信子の実像が知られることになった。信子は、国木田独歩と最初の結婚をし、破綻する。そこに題材をとった形で小説も描かれている。とはいえ、信子と独歩の歩んだ人生は、有島の創作の通りであったわけではなかったようだ。
「「強いはげしい恋、清らかな愛、それをかく歌い残して逝った国木田独歩、虐げられても恨みをいわず、愚痴をこぼさず、ただ黙々として静かに生きている信子、互いに幽明境を異にして遥かにほほえみを交わす二人の姿をおもい浮かべ、ああここにまた第三者の何を言うべきことものがございましょうぞ、」と結んでいる。」
相馬黒光の卒業した明治女学校は、麹町区下六番町にあったが火災で焼失し、北豊島郡巣鴨に移転したが、経営難のため明治42年に閉校した。こちらが巣鴨、旧中山道の都電庚申塚駅近くの少し入った所にある明治女学校の碑。


小説として読めば「或る女」は面白いと思うし、今日のレベルから言っても高度な女性心理の内面描写をしていると思う。そして、先に書いた新橋駅、日本橋釘店、さらに芝の紅葉館、苔香園辺りなど、舞台になっている場所に馴染みがあれば、またそれをも楽しめるものだと思う。芝の紅葉館は、今の東京タワーのところにあった明治以来の有名な料亭で、一時は長谷川時雨の母親が経営に携わったりもしている。第二次大戦の空襲で焼け、その跡地に東京タワーが建っている。

とはいえ、小説のモデルと取り沙汰された女性の人生には、有島は罪深い打撃を与えたことは間違いない。大正12年6月に有島武郎は軽井沢の別荘で、人妻の波多野秋子と情死を遂げることとなる。梅雨時に一月近く発見まで掛かったことで、遺体の腐敗が進んで酷い有様であったことが有名になった。ここから、その後の信子の追跡を作品にした阿部光子さんの話になっていく。
「「『或る女』の生涯」(昭和五十七年、新潮社)のなかに「わたしの母は、信子の母豊壽が書記であった矯風会の仕事をしていたので、少女時代の佐々城信子をじかに知っていて、はきはきした気持のよいお嬢さんだった。そんな妖婦じみた人にはなりそうではなかったと前々から証言していた。・・・・小説家は業が深い。だから有島さんもよい死にかたはなさらなかった-と言った」と書いている。阿部さんは山室軍平長男の武甫夫人で伝道の仕事をしておられる。」

山室軍平は、我が国の救世軍での活動で知られる人物である。今日ではなかなか社会鍋といってもピンと来ない感もあるのだが、長年に渡り社会福祉事業に公娼廃止運動が大きな活動の柱であったようだ。これも以前紹介した書籍だが、「大正・吉原私記」波木井皓三著青蛙房刊は吉原の大籬大文字楼に生まれた著者が、その心の内を書いたものである。その中で大正時代に救世軍が廃娼運動の先頭に立っていた様が描かれている。この下りは、また別項で触れようと思う。さて、そんな環境にあった阿部光子さんは佐々城信子弁護と共に、彼女の真の姿を伝えている。
「独歩と別れたのも森をふりきったのも、彼女が自分自身を偽ることができなかったからだと読める。倉地のモデル武井勘三郎とは大正十年二月、彼が五十五歳で他界するまで愛を全うした。」
小説中ではとことん破滅へと転がり落ちていく女性として葉子は描かれているが、現実の信子は自らの信じる道を生きた力強さを持った女性だった。
「『或る女』後篇で品川町裏河岸の釘店にあらわれる束の間の光景は、むしろ作者有島武郎が奈落へ落ち込んでいく一瞬の感慨ではなかったろうか。」
確かに有島の最期を思うと、あの破滅へ向けて壊れていく心を持っていたのは、作者自身であったのかと胸落ちするものがある。

ここから後半となり、がらりと趣が変わる。ここからは、地図の話になる。東京の町の変遷を頭に置いて見ていくときに、現在の地図と関東大震災以前の地図の二つを重ね合わせて見ていく事が必要になる。永井荷風を例に引きながら
「「明治になって諸処のおもな大名屋敷はたいてい陸海軍の御用地となり、小石川後楽園とならんで江戸名苑のひとつにかぞえられた白河楽翁公の鉄砲洲・浴恩園は「海軍省の軍人ががやがや寄りあつまって酒をのむ倶楽部のようになつてしまつた」と嘆いている。そのおもいは現在に通じている。」
これは実にその通りで、その流れでかつての大名屋敷跡が都内の大規模施設になっている例は多い。また、神田辺りでは町人地であったところは今も小さな敷地に分割されており、武家屋敷のあったところには比較的大きなビルが建ち並ぶと言った差異が今も残っている。

「最近になって便利な地図をみかけた。国土地理院発行の「日本橋 明治vs平成」という、五色刷の一万分の一地形図である。日本橋の武揚堂で売り出されたところ、あっというまに売りきれてしまったので、しんせつにも珠洲さんが貸してくれたのである。珠洲さんはこの二十年間ほど、東京の橋と建物を撮りつづけてきた街の考現学者だ。ともかくこの一枚の地図を読んでいると、あれやこれやと興味がわいてくるのであった。」
残念ながらこの地図は見ていないのだが、私にとっては人文社の復刻による明治40年前後の版を使った通称郵便地図は非常に有り難い資料になっている。難点は色刷りのために少々値段が高いことなのだが、容易に入手できて細部まで分かりやすいので、重宝している。さらに人文社のものでは、昭和12年頃の震災後戦災まえの時期の区分図も復刻されており、この二つと現在の地図を合わせてみることで、街の変遷が掴みやすくなる。とは言っても、最初の頃にはあまりに街の様子が違っていて、どこを重ねれば今に繋がるものになってくるの過分かりにくかったのも事実だ。神社や寺、そして公共建築はランドマークになりやすいのだが、とりわけ震災後の復興期には新しい幹線道路の建設や町割ごと変えてしまっている例もあって、そこまで変わってしまうと元の姿と結びつけようにもそう簡単にはいかないということも多い。

「もうひとつ最近入手したおもしろいものに、参謀本部陸地測量局の「五千分一東京図測量原図」三十六枚の複製(昭和五十九年十月、日本地図センター)がある。八丁堀生まれで、新富座のそばで育ったという友人喜多君が教えてくれたので、私はとびつくようにして購入した。」
この地図は幸いにも、図書館で見たことがある。現在の地図と対照しながら見ることができる様になっているので、非常に便利が良い。明治10年代の東京の姿を見ることが出来るのは興味深い。この地図は帝都防衛のために作成されたものだが、この時の防衛とは対外的な脅威からではなく、国内の総覧が対象になっていたことも興味深い。未だ江戸以来の町並をそのままに残していた頃の東京の姿がち図として残されているのは喜ばしいことだと思う。

「作図の方式にドイツ式をとるかフランス式をとるかという推移もあったが、ここにみるフランス式演彩図はたいへん美しい。江戸地図とはちがう近代の実測図であり、芸術的な風味もこめられている。
 私はしばらくのあいだ、この三十六枚に釘づけになって、はなれられなかった。そのあげくにコピーをとって全図をつなぎあわせてみた。そして、水の流れに紺色の絵具を塗ってみた。すると浅草から河口にいたるまでの大川の流れは実に堂々としている。中洲はまだ芦の原だ。佃島のとなりの、いまの月島にあたる部分は、大川の水が運んできた土砂の堆積地で、「泥」と書かれている。神田川、日本橋川、そして数々の堀割や運河、本所深川方面の水の流れをたどってゆくと、東京はほんとうに水の都だったというおもいをあらたにした。」

明治後期の地図を見ていてもこういった感慨は十分に思うのだが、やはり明治初期の頃の地図をつなぎ合わせ、さらに色を塗ってみればこその深い思いになるのだろうと思う。さらに、その土地に自らの思い出が重なっていくようなら尚のことだろう。私のようにその土地を知らず、その時代を知らないものであっても、知りたいと思って掘り進めていけば次第にかつての東京の町の姿が脳裏に描ける様になっていくものだと思う。まだまだ、もっと詳細に、性格に、往時の姿を知りたいと思っているのだが。

「浜町川を記憶しているのは、七、八歳のころからである。さほど大きな川とはおもわなかったが、そこにかかる中ノ橋、蛎浜橋、久松橋、小川橋など、みんななつかしい名前ばかりだった。浜町のほうから橋をわたると、すぐ水天宮、人形町である。そこの縁日や夜店がどれほど子供ごころをときめかしたことか。夏の日の夕方、潮風で涼しくなったころをみはからって、父親と散歩に出るときは喜々としてついていった。」
浜町川は神田川から別れて、ほぼ真っ直ぐな水路で箱崎側へと繋がる運河だった。この川も戦後に埋められて姿を消してしまった。今も流路は微かにその面影を留めてはいるが、川の情緒はとおの昔に消え失せている。日本橋釘店に始まって少々遠くへ行っていたようで、著者のホームグラウンドの清澄から大川を越えたと辺りへとスルリと戻ってくるのが心憎い。そして、なによりかつての町らしかった頃の風景を見てきていること自体に羨望を覚える。

小学二年の初夏の遠足で著者は疫痢に掛かり、三週間ほど久松病院に入院したという。
「久松町では病院をさがしてみたが、ついにみつからなかった。戦後、何度か看板をみかけた記憶はあるのだが、どうしたことだろう。仕方なく私は交番にたずねてみた。
「もう十年もここにいるが、病院とはきいたこともななあ・・・・・・・・・」
 警官はそっけなく答えるだけであった。」
久松病院という名は、私の手元にある地図を幾つか見ても見あたらない。日本橋区の地図は、人文社の復刻版の明治四十年版と昭和十二年版の他にも中央区が復刻して京橋図書館で販売してくれているものがある。こちらはモノクロだが価格が手ごろで切り絵図から現代の地図までセットになっているのが嬉しい。
こちらは明治以来変わらぬ位置にある久松警察署。


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