東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

ブラタモリ~江戸の運河を見る

2012-02-17 23:14:52 | ブラタモリ
さて、今回は江戸の運河というテーマ。そして、場所は江東区の小名木川。まあ、確かにそうなんだけど、テーマとして江戸の運河で小名木川なの?というのは、毎度のことながら感じてしまう。それはそうなんだけど、そのテーマというのならもっとあれもこれもとつい思ってしまうわけで、テーマを掲げずに小名木川で良いんじゃないのかな?という気がする。テーマとしてやるのなら、今のやり方は中途半端にも思えてしまう。番組の構成上の理由は色々あるのだろうけど、今や充分な予算と時間をかけて番組制作をしっかりできるのは、NHK位なものなのだから期待値も高くなろうというものだ。

やはり江戸から明治に掛けて、昭和の初め頃までの我が国の輸送手段を考えれば、水運というものが如何に重要であったかは言うまでもない。神田、日本橋、そして銀座と、皆水路に囲まれた町であった。外濠に至っては、水運と防衛と治水と三つの顔を持っていた。中には、防火帯としての役割を持っていたものもある。そして、都心部の水路の多くは埋め立てられて姿を消してしまった。そんな中では、江東区は江戸時代に開削された水路が多く残されているところだとは言える。とはいえ、小名木川が開削された当時は江東区は江戸の市中には含まれていないところであり、小名木川沿いの都市化が始まったのは明暦の大火の後に両国橋が架けられてからのことになる。
清洲橋から見た小名木川の入口。


番組で出て来た東大島辺り、この小名木川沿いは大名屋敷といっても、抱屋敷という倉庫だったわけだが、そういったものが建ち並んでいた。そこが維新後明治になると、工業地地帯になっていった。この辺り番組中では余り掘り下げないが、板橋の志村あたりでも同様で、工業地帯に指定されてしまうと多少の公害なども含めてやむを得ないと言うことになってしまうものだった。より北側の本所両国辺りや、南側の清澄がそれなりの華やかさを持っているのに対して、小名袈側沿いは少々地味な役回りを担ってきたエリアでもある。
小名木川の最初の橋、万年橋。


その工業地帯が広い敷地を持っていただけに、今度は大型マンションの建設ラッシュとなっていった。この背景には、都営地下鉄新宿線の開通ということがある。開通以前には、都心へ出るのに両国や錦糸町へ出なければならなかったものが、東京を横断する地下鉄が走るようになったことが、大きな変化のきっかけになった。
番組中に出て来た中川口の船番所だが、小名木川開削当初は隅田川口にあった。1661年に中川口に移転したとのこと。これは万年橋の袂にある船番所跡。元番所と呼ばれていたという。


さて、徳川家康の指揮によって開削された小名木川だが、この川の特徴は何と言っても一直線の水路であること。というのも、江戸時代初期に開削された運河、外濠においては、効率重視の直線的な水路はあまり作られていない。万が一の戦を考えて、屈曲させて見通しの利かない作りになっている。神田川などはその最たるものである。ところが、市中から外れた川向こうの地となると効率重視の直線の運河を開削しているというのが面白い。これだけをとってみても、家康にとっては市中という意識を持っていなかったことの表れと言えるかもしれない。
清澄から万年橋を越えた辺りには、芭蕉庵跡の芭蕉稲荷がある。



番組中で取り上げていた関東水流図というのは、非常に興味深いものだった。面白なので、是非じっくり見てみたいと思った。関東各地、内陸部の水運というものがどれほど発達していたのかが分かる資料なので、興味深い。川を使った水運が、想像以上に発達していたものだった。明治の頃でも、両国、浅草辺りから川を使って銚子へ行く汽船の定期航路もあったくらいである。
そして、小名木川入口角には隅田川を見渡せるスペースが作られていて、芭蕉翁の銅像が川面を眺めている。


江戸は豊かな町という話も出ていたが、大消費地であったことは間違いない。武士も国元の収入の半分以上を江戸で消費していたし、町人達も正に消費者であった。そこへ全国から大阪へ集められた作物が、さらに加工されたり、そのままであったり、商品として流し込まれていき、幕府としては本質的には経済の拡大に歯止めを掛けようとしつつ、結果的に江戸の発展が商品経済の拡張の原動力になっていたことも事実だろうと思う。その結果、経済的に武士は破綻へと向かい、明治維新へと向かっていくことになる。
今では、隅田川や荒川などとの接続部には閘門が設けられていて、増水時には閉鎖して洪水を防ぐようになっている。


運河の交差地点に架かるクローバー橋。大阪には運河の交差するところに四本の橋が架けられた所があった。今は川は東京都同様に埋められて地名だけが残されているのだが、四つ橋という。中央区の築地と木挽町と新富町の間の築地川の三叉路には、三吉橋という三ツ股の橋が架かっていた。今は川は干上がって首都高速道路になっているが、橋は辛うじて面影を留めている。

そして、六間堀の埋立は、戦後の瓦礫処理だったという話。これは、以前にこのブログの「東京・遠き近くを読む」の中で取り上げた話なので、興味のある向きは御覧頂ければと思う。

さて、次回もこのテーマの続きとのこと。どういった掘り下げ方になるのか、期待している。文句を言いつつ楽しみにしているので、良い番組を作って欲しいと思っている。


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2 コメント

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Unknown (まさそり)
2012-02-18 20:39:29
小名木川は、ワタシが生まれ育った近辺なので、興味深く見ていました。
子供の頃から「川と道路は格子状になってるもの」というイメージなのはそのせいなんですね。(^^ゞ

しかし、昭和40年代末期の小名木川(などの運河)は、ヘドロとメタンガスで酷い事になっていました。
親水公園など、全く考えられなかったです。
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Unknown (kenmatsu)
2012-02-18 21:40:57
>まさそりさん
コメントありがとうございます。
私はずっと板橋なので、川というものに対してのイメージがずいぶん違いますね。いちばん身近なのが、石神井井川だったし...。

番組中では戦後間もない頃には水が綺麗だったという話が出ていましたが、これは戦争で物資不足になったので、かえって川がきれいになったということなんだろうと思います。隅田川でもそんな話がありましたし。
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