東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

ブラタモリ~江戸の食を見る

2012-04-07 19:03:50 | ブラタモリ
さて、今回は「江戸の食」というテーマ。日本人の食と言えば、米と魚という話から始まったけど、まずはここから少し考えておくべきことがある。日本中で米が主食として普通に食べられるようになったのは、実はそれほど古い時代のことではない。どこでも当たり前と言えるようになったのは、戦後の話と言える。少なくとも明治時代には米を食べるのが、年に数回という生活を送っていた人がかなりの数いたのだ。江戸時代から米を普通に食べられていたのは、それなりの石高を持っていた武士と江戸の町人くらいのものだった。大規模な都市として発達した大阪でも、江戸のようには米を食べてはいなかったようだ。地方の農民にとっては米を食べることは贅沢であった。その中では、江戸の食文化というのは非常に時代性を考えると特異なもので、そのことを念頭に置いて考えていかないと理解できないものだと思う。

江戸という新興都市がつくられ、町の歴史が浅い時代には男女比が非常に偏っており、そのことが外食や遊郭といった面に大きな影響を持っていたことはその通りと思う。結局のところ、江戸ではあまり家庭内で手の込んだ料理を作ることがなかったという。飯は炊くが、おかずは買ってきて済ませるのが普通だったようだ。だから、台所に包丁がなかったという。そのことから江戸では、町人の争いごとで刃傷沙汰が起きにくかったとも聞いたことがある。関西では、その時代でも台所に包丁があって、しっかり調理をしていたという。そんな経緯から見ていくと、今も残る台東区鳥越のおかず横丁というのも、この江戸の食文化の伝統を感じさせるものがあるように思える。

そして、佃島の飯田家の様子を見せて頂けたのも、テレビ番組ならではで良かった。ご主人が日本橋へ魚を持っていく話をされていが、これも関東大震災後に築地へ移る前の魚河岸の話だから、実体験とかいうレベルの話ではないことが理解できる。元々の佃島エリアは周辺が凄まじい開発に晒されていく中で、昔の面影を良く保っている。このブログでも30年間の変化を掲載した。その中で漁師町時代の面影を残す家屋の様子を詳細に見ることができたのは興味深かった。木村荘八は昭和28年に出た「東京今昔帖」の中で、東京の降り町並の雰囲気を探せる場所としてこの佃島を上げている。その当時から見ても、今に至るまでその面影を良く留めていると言えるだろう。
佃の渡しの跡を示す碑。


番組でも出て来た渡しの跡の近くにある鳥居と参道。西に向けて鳥居を作ったと言っていたけど、鳥居は西北の方向を向いており、江戸城に向いているといった方が適切に思える。大阪に望郷の念があって西へ向けたというのなら、少し方向が違いすぎるのでは無かろうか。


有栖川宮幟仁親王の筆によるという明治15年に寄進された陶製の扁額。


そして、本殿。


舟で入って行くのは、さすがNHK、見ていて羨ましかった。


さて、そこで佃煮の話になる。佃島の漁師が捕れた魚を保存食にするために煮て作ったものが佃煮であったのだが、それは塩煮であったという。江戸時代の初期には醤油は江戸近郊では生産されておらず、上方から運ばれてくる高級品であった。その為に、塩煮で作られていたのが佃煮の始まりである。野田や銚子で醤油が作られるようになり、醤油が庶民の手の届くところにやってこようかという頃、その醤油で魚を煮る事を思いついた男がいた。その名を鮒屋佐吉こと大野佐吉という。文久二年(1862年)のことで、浅草橋に今も続く「鮒佐」という店が今の形の佃煮を生みだした元祖と言われている。

以前にもこのブログで書いたのだが、江戸の食と言うことを考える上では、江戸っ子の白飯食いということを抜きにしては考えられないと思う。つまり、江戸風とか江戸好みという味の内容を考える時に、白い米飯を美味しく食べられる味付けが江戸の食文化の基本にあったということである。先に書いた「鮒佐」の佃煮など、非常に塩辛い。これはどちらかと言えば、お茶漬けで丁度良くなる位の辛さである。でも、これがご飯のおかずには正にはまるわけで、甘い佃煮など江戸の感覚では考えられないのではという気がする。この辺りから始まって、蕎麦にしても端っこをちょっとつけて啜るような切れの良い辛いタレに粋を感じるのもよく分かるように思える。

さて、日本橋の魚河岸の痕跡といっても、移転したのが昭和初期で、その後に戦災で焼失し、高度成長期にビルが建てられまくってしまった町にはさすがに過去の痕跡も残るまいと思う。蕎麦屋のシーンがあったが、敢えていえば、鰹節を使った関東風の出汁の取り方というものが実はなかなか面白いというところ。蕎麦屋を鰹節の会社がやっているということで削り節の削られるシーンがあったが、あれは蕎麦つゆに使う厚削りの削り節である。好みによって鯖節や宗田節を加えて、厚削りの削り節を40分位強火で煮込んでとるのが関東風の出汁の取り方。今の料理の世界でいわれる鰹出汁の取り方というのは、関西風の昆布だしをベースとしたところに、香り出しを併せるための鰹出汁である。江戸風のやり方では鰹出汁が主役になるので、違った手法が使われていた。これが今も行われているのは、蕎麦屋と天麩羅屋という江戸の食文化の落とし子といえる商売の中というのが面白い。


外食というものが発達したのも、江戸の特徴。夜泣き蕎麦であったり、寿司も天麩羅も屋台が始まりであったりする。もっとも、寿司は握りが出来る以前の押し寿司があり、その店は高級店だった。今も神田にある笹巻き毛抜き寿司は、握り登場前の寿司の形を今に残しているが、当時から御殿女中が宿下がりの時に土産に持っていくようなものであったという。ここの寿司も、塩と酢がきつめであり、ご飯が美味しい。とりわけ塩味の玉子はとても美味しい。

神田多町の青果市場。ここも昭和初期に秋葉原へと移転し、その後に大田市場へと移転しており、神田多町に今もその痕跡が残されているとは思わなかったので、面白かった。バナナの室ということだが、昭和初期のバナナだから、さぞや高級品であったのだろう。私にとっては、既に物心付いた時にはバナナは自由化された後だったので、後から知った知識でしかないのだが。神田エリアでは、駿河台から神田駅に掛けての辺りが戦災を免れている。駿河台にはビルが建てられていったことで様相が変わっていったのに対して、神田多町辺りは辛うじて昭和初期からの家が今も残されている。そんなことから、今も室が残っていたのだろう。

さらに、お稲荷さん巡りもなかなか面白かった。有名な言い回しで、「伊勢屋稲荷に犬の…」というのがある位で、江戸市中のそこいら中に稲荷社は数多くあったもの。形がきつねの形というのは、話としては面白い。町が形を変える中で無くなってしまったものもあるだろうから、そういったものまで地図上にプロットしてみたらどうなるのか、というのもちょっと気になった。後は江戸時代の地図と重ねてみるというのも必要だろう。

そして、神田明神へ。神田明神の一は、本郷台地の端である。この神社の裏手に当たるところが神田の発祥という話が出ていたが、これは少々異論の出るところではないだろうか。まず、神社の近くだといわれているが、神田の地名ができた頃には神田明神はそもそも存在していなかったはず。さらには神田明神は元々、今の大手町の将門塚辺りにあったという。江戸城の造営、増築に伴って神田山へ移転したものである。この辺りの位置関係から見ていくと、今の嬬恋坂辺りが神田の発祥というのはちょっと無理があるように思えてしまう。まして、今のあの辺りは外神田という地名で、神田駅近くに内神田という地名もある。普通に考えれば、内神田の方が元々の神田の中心であったように思えるのだが、いかがなものだろうか。立地から水田の好適地という見方をするのは面白い見方だとは思うのだが…。さらには、神田の山は江戸開府以来あっという間に崩されて、日比谷入江の埋め立てに使われてしまった。そうなると、神田の山の南側が元々はどんな様子のものだったのかというのは、今となってはなかなか良くは分からない。神田川開削で消滅してしまった御茶ノ水を始めとして、オリジナル状態の神田の山が神田の地名の解析には鍵となるようにも思えてしまう。はたして、今回の話ではそこまでの背景を持っての分析だったのだろうか?番組で語り尽くせなかった分析があるのなら、是非とも聞いてみたいものだと思う。
神田明神前の天野屋の麹室は、お馴染みといった感じ。この神田明神の門前には、小中学校での同級生が住んでいたこともあったので、私にとっても懐かしい場所。今はここもビルが建ち並んでしまい、その結果地下の室も埋められているというのは寂しいことだと思う。天野屋だけは、今後も続いていくだろうから、伝統を守って欲しいと思う。この神田明神の裏手に、「神田の家」というかつて鎌倉河岸にあった銘木商の土蔵造りの家が移築再建されている。神田明神まで行った折には、是非とも足を伸ばしておくべきところ。


最後は料理。レシピからの再現ということだったが、大酒飲み大会で一つ知っておきたいのは、江戸時代のお酒は今の日本酒と同じではないということ。アルコール度数の低い濁り酒であった。当時の職人さんは、朝は早くから仕事を始めるものの、昼過ぎには仕事を上がってしまい、蕎麦屋で一杯やっていた。その時なども、こういったお酒であった。今の度数の日本酒をそこまで大量に飲むことはまず無理だろう。また、レシピからの再現ということではなくとも、江戸の創業で今も変わらぬ味を守り続ける店はいくつもある。そんなお店の味で、江戸の味わいを知るのも一興だろう。

さて、これで第三シーズンが終了。スタートしてフォーマットが出来上がっていった第一シーズン、屋や中だるみ感のあった第二シーズン、そしてテーマ別の二週構成が試された第三シーズン。こうしてみると、番組の回数を重ねてきて再度同じ所を訪ねてみても良いのではないかと思える。まだまだ掘り尽くせていない材料は沢山あるところばかりだろう。毎回色々言いつつ楽しみにしてきた番組だけに、第四シーズンにも期待したい。また、さらに内容を充実してパワーアップして戻って来て欲しいと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿