東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

上野の山を歩く~寛永寺:その一

2015-01-09 20:58:20 | 台東区
東京国立博物館黒田記念館を訪問した時、少し奥の方も歩いて見ようと思い、寛永寺に行ってみた。上野公園には子供の頃からさんざん行っているのに、実は寛永寺には入ったことがなかった。その名は誰でも知っている存在といえるほどなのに、今は...というわけである。
改めていうまでもなく、上野公園の広大な空間は元々、江戸時代の始めに寛永寺が造営され、江戸の人たちの憩いの場として開発されたということが始まり。しかも、寛永寺は徳川将軍家の菩提寺にもなり、江戸を代表する巨大寺院でもあった。幕末の上野戦争で戦場となり焼失してしまった上に、新政府に寺領を召し上げられ、公園となって今日に至るわけである。東京国立博物館前にて。


今は広大に広がる空間が、こうしてみても広々している。この向こうにある噴水の辺りに寛永寺の本堂があったと思うと、広小路に面したところに黒門があり、そこからのスケールを思うと、凄かったのだろうと思う。


明治維新後の寛永寺は、ずっと奥の方へと場所も移っている。黒田記念館と東京国立博物館の間の道を進んでいき、左に曲がって言問通りの方へ行くと寛永寺がある。何より、伽藍は焼失してしまったわけである。今は、普通のお寺のように佇んでいる。


「寛永寺本堂 台東区上野桜木一丁目十四番十一号
 旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館、前の噴水池あたりにあったが、慶應四年(一八六八)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造といわれる。
 間口・奥行ともに七間(十七・四メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。
 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。
 平成十六年三月 台東区教育委員会」


焼失した寛永寺の再建にあたり、何故川越の喜多院から移築することになったかといえば、それはこの寛永寺の草創に溯らなければならない。
「元和八年(一六二二)、徳川幕府二代将軍秀忠が、上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊は寛永二年(一六二五)に竣工。根本中堂の完成は元禄十一年(一六九八)のことです。江戸末期までの寛永寺は、いまの上野公園をはじめ、その周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふわさしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約三万坪、江戸時代の十分の一ほど)現在に至っています。」(境内の案内より)


上記の説明では、この背景が全く分からない。天海大僧正という人物こそが、寛永寺というよりは、徳川幕府の立ちあがる背景で重要な役割を果たした人物であることを知らないと、ただの仏教のお坊さんと思うとまるで違うわけである。彼は江戸の街造りについても宗教面というよりは、風水などの呪術的な面から参画したといい、徳川家康からも厚い信任を得ていたわけである。目黒関連で取り上げてきた、日蓮宗の法華寺が天台宗へ改宗した身池対論といわれる一件でも彼は審判役になっている。そんな天海大僧正が江戸開府以前にいた寺が、喜多院である。そんな縁があるからこそ、寛永寺に危急の事態が起きた時に喜多院から堂宇が提供されることになった。


ちなみに、身池対論といわれる一件は、徳川幕府の支配を確立したい時期に、政治的であり、なおかつ激しい日蓮宗をどう治めていくのかというのは、徳川家にとっても頭の痛い問題であったのではないだろうか。そこで、宗派内の対立を煽って楔を打ち込み、身延山久遠寺を取り込み、池上派を一掃することで、全体の勢力の減衰と取り込みが同時に行えるという妙手であったと思える。いわばそのフィクサーが天海大僧正であったとも言えるわけで、いかに徳川幕府初期に絶大な権勢を誇ったのか、想像してみると凄いものだと思う。増して、その時代に百歳を超える長寿であったというのも、伝説的としか言い様がない。
境内には、元禄十三年銘の巨大な水盤が一対置かれている。巨大な石から削り出されたもので、江戸時代にこれがどれほど凄まじいものであったのか、想像してみるだけでも感心してしまう。


「旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦
 この鬼瓦は、現在「黒門」の名で親しまれている、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。
 旧本坊表門は寛永初年に、寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめ、いわゆる歴代の輪王寺宮が住まわれた場所の門でした。この門は、昭和十二年現在の東京国立博物館の地から現地に移築され、平成二十二年から行われた解体修理によって修復されました。このときの調査により、現鬼瓦の制作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現存の鬼瓦には鳥衾を取り付けた痕跡がなかったことが分かっています。
 東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため、修復の折に西側に意匠を合わせて作り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会として寛永寺根本中堂の屋根にあった鬼瓦と合わせ、ここに展示します。
 旧本坊表門鬼瓦「阿」形 高さ113cmX横幅118cm
 寛永寺根本中堂鬼瓦   高さ248cmX横幅325cm
   寛永寺 教化部」



「銅鐘(台東区有形文化財) 台東区上野桜木一丁目十四番十一号 寛永寺
 本鐘の大きさは、総高一七七・二センチ、口径九十一・八センチ。厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(一六八一)五月八日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(一六七三)から貞享三年(一六八六)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
 平成十八年に台東区有形文化財として台東区民文化財台帳に登載された。
 平成十九年三月 台東区教育委員会」


現在の境内はぐるっと回ってみるのに、それ程の時間は要しなくなっている。それでも、これはまだ寛永寺の一部でしかない。


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