東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

上野の山を歩く~谷中・天王寺

2015-01-13 18:48:34 | 台東区
 上野から少し離れて、日暮里駅に近い所だが、谷中墓地の方へ入った裏手に珊瑚樹の木が茂っている。ここが幸田露伴の旧居跡である。つまり、ここにあった家の門が、今は輪王寺に移されている。
「幸田露伴居宅跡 台東区谷中七丁目十八番二十五号
 幸田露伴は、明治二十四年一月からほぼ二年間、この地(当時の下谷区谷中天王寺町二十一番地)に住んでいた。
 ここから墓地に沿った銀杏横町を歩き、左に曲がると天王寺五重塔があった。五重塔は寛永二十一年(一六四四)に感応寺(天王寺の前身)の五重塔として創建され、明和九年二月に焼失、炻正三年(一七九一)棟梁八田清兵衛らにより再建された。
 露伴は当地の居宅より日々五重塔をながめ、明治二十四年十一月には清兵衛をモデルにした名作『五重塔』を発表した。
 同二十六年一月、京橋区丸山町(現、中央区)へ転居したが、現在もかたわらに植わるサンゴジュ(珊瑚樹)は、露伴が居住していた頃からあったという。
 露伴は、慶應三年(一八六七)七月、下谷三枚橋横町(現、上野四丁目)に生まれ、すぐれた文学作品や研究成果を多数発表するなど、日本文学史上大きな足跡をのこした。昭和二十二年七月没、墓所は池上本門寺にある。
 平成十四年三月 台東区教育委員会」


 露伴旧居跡の前の道。左に曲がって、墓地に沿って伸びている。ここに露伴が暮らしたのは、まだ若き日の小説家としての地位を築いている最中の時代であった。
 露伴が日本文学史上の巨人であることは間違いないが、なかなか凄まじく難しい人であったことも確かだ。娘の文さんも露伴に厳しく育てられたことで知られている。私は文京区の小中学校に通っており、その当時は文さんもご存命であった。小石川のお宅に近い辺りでは文さんの厳しさも知れ渡っていて、知りもしない小学生の私ですら怖ろしく怖い人だと擦り込まれている。昨秋に、世田谷文学館で「幸田文」展が行われ、サブタイトルに「会ってみたかった。」と出ていたので、私は思わず泣かされるぞ!と思って苦笑した。フランクで人当たりの良いタイプではない、厳しい人であるというイメージが強烈なのだが、既にそんなことを知る人も少なくなっているのだろうか?


 谷中霊園は、元々は天王寺の境内であった。明治維新後に寺域を没収し、公設の墓地として整備されてきた歴史を持っている。その天王寺は、面白い歴史を持っている。
「護国山天王寺 台東区谷中七丁目十四番八号
 日蓮上人はこの地の住人、関長耀の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を奉安した。~伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(一三四九~一四二七)頃の創建という。『東京府志料』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで“富くじ”興行が開催された。目黒の滝泉寺・湯島天神の富とともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
 元禄十二年(一六九九)幕府の命令で、感応寺は天台宗に改宗した。ついで天保四年(一八三三)天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、『五重塔』で知られていた。しかし、昭和三十二年七月六日、惜しくも焼失してしまった。 
 平成四年十一月 台東区教育委員会」


 目黒の円融寺が、天台宗の寺として始まっていながら、日蓮宗に改宗し、法華寺として栄えていた。この法華寺が天台宗に改宗したのが、元禄11年のことであり、一連の不受不施派への弾圧の一環として行われていることが分かる。さらには、改宗の翌年から富くじが始まるというのも、いかにもといった感じがしてしまう。Wikipediaには開創の頃のことが以下のように出ている。
「日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山した。1641年(寛永18年)徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。1648年(慶安1年)日蓮宗9世・日長による『長耀山感応寺尊重院縁起』が唯一の資料である。法華寺から転住した日耀が中興するまでの歴史は不明である。」
 将軍家の祈祷所になってから五十年後には改宗が強要され、僧侶は八丈島へ遠島という凄まじさである。


 そして、それから百年と少しが過ぎた、天保4年(1833)に、日蓮宗の巻かえしが起きる。大奥女中まで登場する大騒動で、将軍家斉を動かして、この寺を日蓮宗に戻したいという再興運動が行われた。成功する寸前までいったのに、輪王寺宮に反対されて寺号もこの時に天王寺と改められることになる。これも、江戸三富と言われるほどに盛況だった富くじの利権を巡る争いであるとも言うし、なかなか想像をたくましくする種としては興味深いものだ。
 その結果、天保6年に現在の豊島区目白の鼠山といわれたエリアに、新に建立することが認められた。翌天保7年には元安藤対馬守の下屋敷28600坪の敷地に、荘厳な大寺院が建設されていくことになる。ところが、天保12年徳川家斉が死去すると、大老水野忠邦が改革に着手し、廃寺を命ぜられ、草木一つも残さずに廃却されてしまったという。


 この鼠山感応寺はあまりに短い期間で廃寺にされていて、その具体的な理由も明確に示されていないという、謎めいたことになっている。スキャンダラスな言い伝えも数多くあるようだが、信憑性という点では必ずしも高い訳ではないらしい。何よりも面白いのは、今日、尾張徳川家の根拠地となっているのが、この鼠山感応寺の敷地の一部であるということ。鎌倉妙本寺の祖師堂は、この寺の伽藍を移したものらしい。と、少し脱線したが、今でそんなことを想像すら出来ない目白の閑静なエリアに、幻の巨大寺院があったと言うのも驚きだった。廃寺にならなければ、雑司ヶ谷の鬼子母神から一続きの町が出来ていたのではないかという話も見たが、そうなっていれば城北エリアの町の発展も随分と違ったものになっていただろうと思う。
 訪問した日は、谷中七福神の最終日だった。非常に多くの人が七福神廻りをしていて、驚かされた。幟には江戸最古と書かれていて、山手七福神との間にも先陣争いがあるのかと感心させられた。


「銅造釈迦如来坐像(台東区有形文化財)  台東区谷中七丁目十四番八号 天王寺
 本像については、『武甲年表』元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第一五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。(ブログ著者注:天台宗に改宗してから、寺名を天王寺に改めるには135年のタイムラグがある。これは説明版が誤っている。)
 昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保七年[一八三六]刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公営谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
 なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んだ一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
 本像は、明治四十一年刊「新撰東京名所図会」に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
 平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に記載された。
 平成八年三月 台東区教育委員会」
日蓮宗の感応寺の時代からの仏像と言うことで、貴重な存在といえるだろう。


本堂の横手には、巨木。スダジイだと思うけど、私はそういうのに詳しくない。


木の根元がうろになっている。この地の変遷を見てきたのだろうか。


さて、谷中墓地を上野方面に歩いて行くと、駐在所があって、その横がちさ名公園になっている。ここがかつては五重塔があったところ。元々の感応寺は、谷中墓地になっているところのほとんどが寺域であったようで、墓地のメインストリートも元は参道であったという。この五重塔の周辺に本堂もあり、仏像もこの近辺にあったらしい、仏像の元の土台は今も残されているらしいが、今回は探しきれなかった。今は礎石のみが残る、五重塔跡。


火災の時の写真も掲示されていた。不謹慎かもしれないが、怖いほどに美しかったのではないかと思ってしまった。
「天王寺五重塔跡(東京都指定史跡) 所在地:台東区谷中七丁目九番六号 指定:平成四年三月三十日
 谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長耀山感応寺尊重院と称し、道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。最初の五重塔は、寛永二一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で焼失した。罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(三四・一八メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治四一年(一九〇八)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたが、昭和三二年七月六日放火により焼失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石二〇個、地覆石一二個総数四九個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年の実測図が残っており復元も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒が発見されている。
 平成五年三月三一日 東京都教育委員会」


前に掲載した、目黒行人坂の大円寺を火元にした火事で、この谷中の五重塔まで焼けたというのは、正に江戸の市中は丸焼けだったことがよく分かる。ここに立って目黒までの距離を思うと、凄まじさが感じ取れる。歩き回っていると、色々なことが結びついてくることがとても面白い。「目黒の旧跡を尋ねる~その一:行人坂、大円寺」


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