東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

上野の山を歩く~寛永寺:その二

2015-01-10 21:33:41 | 台東区
さて、上野東叡山寛永寺、この寺には他の寺院と同様に堂宇の他に、重要な施設がある。この寺の場合、ある意味こちらの方がより重要なものになっているとも言える。墓所である。しかも、この寺の墓所には徳川将軍が眠りについている。東京国立博物館と黒田記念館の間の道を真っ直ぐに奥まで行くと、この墓所がある。一般の檀家の墓地もある。石積みの塀の石のサイズが尋常ではない。城の石垣かと思う様なもの。そして、山の向こうにはスカイツリーが聳えているのが間近だ。


道路の突き当たりの門は閉じられていた。石垣のような塀が両側に築かれている。


鉄の可動扉には、ど~んと大きな葵の御門が輝いている。


寛永寺の本堂右手奥の駐車場のところからも、この墓所には通じている。そうみていくと、幕末に上野戦争で焼失した寛永寺は、墓所の管理の必要からも廃寺にはならずに存続したわけで、それが墓所に繋がる位置への移転にも現れているのかもしれない。右手の石垣の中が、廟所である。こちらの廟所の中には、常憲院殿(五代綱吉公)、有徳院殿(八代吉宗公)、温恭院殿(十三代家定公)、天璋院殿(十三代御正室)が埋葬されているようだ。


夕日を浴びる朱塗りの門。
「徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財) 台東区上野桜木一丁目十六番
 五代将軍綱吉は、延宝八年(一六八〇)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(一七〇九)一月十日に六十三才で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
 元禄十一年(一六九八)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 平成六年三月 台東区教育委員会」


日光の東照宮などにも通じる、江戸時代の将軍の権勢の巨大さを誇示するような、豪華絢爛な門である。寛永寺墓地には二ヶ所の将軍廟所がある。こちらには、天璋院篤姫の墓所もあるそうだ。そういえば、以前NHKのブラタモリ「上野」の時にこの中をみせてくれたっけと思い出す。


その隣にあるのは、位牌所というものと思われる。現在の位牌所は昭和三十八年に再建と出ている。遠目に見てもそんな印象。


門内から、ここへ通じる道路を望む。左は東京国立博物館敷地内にある国立文化財機構、右側は区立上野中学。


墓所の前の道を進んでいく。東京国立博物館の真裏にあたるところ。ちょっと行くと、先ほどと同じ様な朱塗りの門が見えてくる。
「徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財) 台東区上野桜木一丁目十六番
 四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五月八日に三十九才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。
 平成六年三月  台東区教育委員会」


綱吉霊廟勅額門と、ほぼ同じと言った印象を受ける。さすがに幕府財政の観点から、将軍が没する度にこのクラスの門を作っていくのは大変であったようで、転用という言葉が出てくる裏には財政という事情があったのかもしれない。


徳川幕府というのは、この豪華絢爛な感じがよく似合う。


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