東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北耕地川跡を歩く~その三

2013-09-17 19:30:11 | 東京の川
さて、根村用水、中用水、そして北耕地川に稲付川と、短い流域の割には多くの名を持つ川の跡をあるいている。前回の智清寺のところで触れたように、この川は流域の上十条村、そして台地を下った現在の赤羽駅の南側の辺りの灌漑用水であった。堰の調整を無断で板橋の側で行ったことがあり、それが元で上十条村との間で抗争に発展しかけたりしたという。水は文字通り死活問題であった。今回は、国道17号線中山道を越えた東側を歩いてみる。

国道17号線を越えると、再びビルに間を縫うように裏通りとして伸びていく。


すぐ裏手には、旧中山道が走っていて交差する。


その直ぐ北側に、縁切り榎がある。


小さな区画の中に、榎が植えられている。この榎は、植え直されたもので、元々の榎は既に枯れてしまい、残されているのはこんな形。


縁切りを不吉と捉えるのか、吉と捉えるのかは、その人の置かれている状況次第。その御利益を信じる人から信仰されてきている。


ただ、元々は旧中山道の道の反対側にあったそうだ。ビルが建てられるときに、今の位置に移されたという。この榎を嫌って、和宮降嫁の折にはこの榎の前を通らない道が急遽作られ、榎には菰を巻き付けたという話が伝わっている。


旧中山道と交差してから、更に細い道として川の跡は続く。


この辺りは、道幅も狭くて、古い時代のままの雰囲気なのだろうと思われる。上の辺りを逆方向から振り返ったところ。


今は車が両方向から行き会うと、すれ違うのに苦労するような難所になっている。


板橋の仲宿、平尾宿は宿場の東側に加賀藩の広大な下屋敷があったので、宿場裏の町が限られた土地の中に発展した跡が、今も残されている。この辺りでは、宿場裏のスペースに制約がなかったはずなのだが、どう町が発展したのだろうか。明治期に、宿場が寂れたときに、上宿は街道の両側が草原になっていたとも言うので、一度寂れてから、後に再開発されていったのかもしれない。


少しクネクネと曲がったところを抜けると、少し道幅が広くなって、大きなカーブの道になる。宿場の町が出来上がっていたところは、その隙間を縫ってクネクネとした流れの形になり、そこを抜けると大きなカーブを描く様になっていったのでは、と想像させる。


石神井川が一番低い所を流れているのだが、その流れで形作られた地形の中、絶妙に方向を選んで流れが作られたのだと感じる。


右手は、帝京学園高校のグラウンド。この辺りも、微妙に曲りながら道が進んで行く。


商店の少ない、住宅地エリアなのだが、木造モルタル二階家の看板建築の長屋が並んでいる。戦後の建物だと思われる。


そして、川のイマジネーションを絶ち切るような上り坂。元々は、ここから先は切通になっていた。この根村用水のハイライトと言える区間だったのだが、今は暗渠化されてしまい、普通の上り坂になっているのが惜しい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北耕地川跡を歩く~その二 | トップ | 北耕地川跡を歩く~その四 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京の川」カテゴリの最新記事