さて、引き続いて、北耕地川の跡を歩いてみる。前回の最後が手驚愕縁高校の横の辺りで、そこから今は暗渠化されてしまったので、道が上り坂に掛かっていくことになる。自然の地形でも有り得ないし、水路を通す際に最大の工事が行われた切通であっただろうと思う。その上り口、結構な上りで向こう側が見えない。
坂を上っていくと、左手は道に沿った形の不思議な感じの形で公園や区の粗大ゴミ回収品の置き場になっていたりする。公園の端には切通の擁壁であったかのようにも見える壁がある。だが、これが本当に擁壁であったのかは分からない。この辺りが暗渠化されたのは、昭和四十年頃のようだ。
一番高いところから先を見ると、環状七号線の姥ヶ橋交差点の陸橋が見えている。姥ヶ橋というのは、この北耕地川に稲荷道と呼ばれた王子から十条駅辺りを経て、板橋宿上宿へ向かう道筋に架けられた橋に付けられた名前である。
振り返るとこんな感じ。道路の右側に同じ分のスペースがあって、公共用途に使われている。
ここは、陸軍造兵敞のトロッコ列車の橋脚跡。軽便鉄道で、電化されていたそうだが、陸軍の工場で生産された弾薬や原材料の輸送に使われていたトロッコ列車が、北耕地川とクロスしていた痕跡である。トロッコ列車の遺構も今ではほとんど残されていないので、貴重なもの。
そして、北耕地川の流れの跡がはっきりと目にすることが出来るのは、ここと隅田川に注ぐ最下流部分だけなので、そういう意味でも貴重なところ。橋の下も埋められているのが分かる。
北耕地川の流れの痕跡。
ちょうど、環状七号線の姥ヶ橋交差点を斜めに横切るよう仲達で流路があった様だ。これは交差点側から見た流れの痕跡。
そして、交差点を対角線に渡った所にその流れの後が続く。ここからは、台地の縁を川の流れが削り取っていった谷間の景色を楽しむことが出来る。その出発点。交差点から下っていく階段が設けられている。
階段の下の辺りをよく見ると、護岸の跡らしきコンクリートの壁の上側が見える。
階段の裏は行き止まり。薄暗い細い道が始まっているところにしか見えない。
この先は、自然河川が元々あった所ではないかと思われる。その辺りは次回から触れていこう。
坂を上っていくと、左手は道に沿った形の不思議な感じの形で公園や区の粗大ゴミ回収品の置き場になっていたりする。公園の端には切通の擁壁であったかのようにも見える壁がある。だが、これが本当に擁壁であったのかは分からない。この辺りが暗渠化されたのは、昭和四十年頃のようだ。
一番高いところから先を見ると、環状七号線の姥ヶ橋交差点の陸橋が見えている。姥ヶ橋というのは、この北耕地川に稲荷道と呼ばれた王子から十条駅辺りを経て、板橋宿上宿へ向かう道筋に架けられた橋に付けられた名前である。
振り返るとこんな感じ。道路の右側に同じ分のスペースがあって、公共用途に使われている。
ここは、陸軍造兵敞のトロッコ列車の橋脚跡。軽便鉄道で、電化されていたそうだが、陸軍の工場で生産された弾薬や原材料の輸送に使われていたトロッコ列車が、北耕地川とクロスしていた痕跡である。トロッコ列車の遺構も今ではほとんど残されていないので、貴重なもの。
そして、北耕地川の流れの跡がはっきりと目にすることが出来るのは、ここと隅田川に注ぐ最下流部分だけなので、そういう意味でも貴重なところ。橋の下も埋められているのが分かる。
北耕地川の流れの痕跡。
ちょうど、環状七号線の姥ヶ橋交差点を斜めに横切るよう仲達で流路があった様だ。これは交差点側から見た流れの痕跡。
そして、交差点を対角線に渡った所にその流れの後が続く。ここからは、台地の縁を川の流れが削り取っていった谷間の景色を楽しむことが出来る。その出発点。交差点から下っていく階段が設けられている。
階段の下の辺りをよく見ると、護岸の跡らしきコンクリートの壁の上側が見える。
階段の裏は行き止まり。薄暗い細い道が始まっているところにしか見えない。
この先は、自然河川が元々あった所ではないかと思われる。その辺りは次回から触れていこう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます