東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北耕地川跡を歩く~その六

2013-09-20 19:05:18 | 東京の川
北耕地川跡を歩く、今回が最後である。東北線の線路を越えると、北区の荒川氾濫原の低地部を進んで行くことになる。かつては、赤羽線、東北本線貨物線、東北本線旅客線、京浜東北線といくつもの線路が並行して走る所で、開かずの踏切と言われた所もあったのだが、今では全面高架化されてしまってかつての面影はない。線路東側から振り返って見たところ。


線路を越えていくと、大きな工場が幾つかあって不思議な感じがする。元々の北区の低地部の開発の歩みから見れば当然とも言えるのだが、今となっては都区内の住宅の多いエリアに、忽然と工場がある様に見えるから違和感を覚えるわけだ。元々は、工場があったところに家が建っていったのだろう。DNPの工場と、自動車部品製造の三恵技研の工場がある。


仲には、ブロック塀を巡らせた二階家の日本家屋の家があったりもする。


進んで行くと、北区立稲田中学校に突き当たる。川は暗渠化されて中学校の敷地内を横切っているらしい。


稲田中学の所から振り返って見たところ。直線的な道路で川の痕跡は感じられない。


この先も、直線的な道が続いてあまり面白みは感じられない。元々、この低地部は水田地帯だった様だが、工場が作られる頃に町割も整理されて、暗渠化された様だ。昭和22年撮影の空中写真で探しても、この先の方には川が見えているが、線路際からこの辺りに掛けては暗渠化が終わっている様に見える。工場のある町の隣には、木造モルタル二階建てのアパートがあった。


この先には、都営アパートがあって、その間を進んで行く。


この先で、ようやく川の跡らしい曲がった道になる。この低地部では、北耕地川と呼ばれていたらしい。


田圃の時代にはその間を縫う様に流れていたのだろうし、その後には区画整理が行われて、暗渠化されていった様だ。荒川放水路の完成までは、この辺りも水害の多いところだった。北本通りまで辿り着く。


北本通りから隅田川までは残り僅かな距離なのだが、そこに北耕地川の在りし日の姿が今も残されている。


フェンスで囲われていて、ここから先には入れないのだが、小さな川が伸びている。水量はごく僅か。


隅田川の親水テラスに回り込んでみる。ここから先はいけないのだが、隅田川に直接流れ込んではいない様に見える。カミソリ堤防で最後の合流点も切断されている。


大きな水門の様に見えるのは、東京都下水道局神谷ポンプ所の施設。北耕地川の終点は、画面左側の三角屋根の建物が二つ並んでいる左側。隅田川の方から見ても、なにも痕跡はない。


北耕地川、稲付川、中用水、根村用水と多くの名を持つ川だが、その気になれば数時間で石神井川からの分岐点から隅田川に合流するところまで歩き通すことが出来る。ただ、川の跡らしい雰囲気や面白さという点では、姥ヶ橋交差点から赤羽駅南側の旧岩槻街道と交差する辺りが一番面白みがあるところではないかと思う。とはいえ、最下流までいけば、かつての川の形が僅かに残されているところまで見ることが出来るので、これはこれで納得出来ると言うべきか。隅田川の親水テラスに出るには、さらにそこから少し歩くことになるが、ここまで来たのなら、少し川辺まで行くのも悪くはないだろう。

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