東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北耕地川跡を歩く~その二

2013-09-16 20:58:52 | 東京の川
さて、北耕地川、稲付川とも呼ばれ、根村用水とも呼ばれてきた川を辿る二回目。今では、国道17号線が首都高速道路と共に板橋区を南北に横切っているのだが、この道路ができたのはそれ程古い話ではない。巣鴨から下板橋といわれていた、現在の平尾交番前辺りまでは、昭和4年に東京市電が延伸してくるときに出来たもの。そこから先、志村までの大きな通りができたのは、昭和19年のこと。それまでは、旧中山道がメインストリートである時代が続いていた。国道17号の石神井川に架かる新板橋もその時にできたし、その脇の氷川神社は広大な境内を道路に削られてしまった。あまりに存在の大きくなっている道路だが、古い時代のことを思うときには、頭の中でこの大きな道路の存在を消してみると、旧中山道があって、宿場町があって、そこから少し外れたこの根村用水の流れていた辺りの情景など、思い浮かぶというものではないだろうか。

今回は掲載していないけど、この双葉町には氷川神社があって、国道17号線沿いにも氷川神社がある。双葉町の氷川神社は板橋宿上宿を氏子とする神社で、国道17号沿いの氷川神社は板橋宿仲宿、平尾宿を氏子とする神社。元々は、国道17号沿いの氷川神社の方が大きな神社であったのだが、境内を国道の建設工事で削られてしまったり、戦争中の空襲の被害を受けたりで、今のような形になっている。双葉町の氷川神社は、戦災も免れているので、昔ながらの落ち着いた雰囲気で、どちらも板橋の歴史と共に歩んできた氏神様として、訪ねてみると面白いと思う。

さて、中板橋の方からすすんでくると、日曜寺の所へとやって来る。
「 日曜寺
 宗派は真言宗霊雲寺派で、光明山愛染院日曜寺と号し、御本尊は愛染明王です。
 開山は、正徳の頃、(一七一一~一七一六)に宥慶比丘が小堂を営んだのに始まります。その後、田安宗武(八代将軍吉宗の第二子)の帰依をうけ、等身大の愛染明王像をはじめ多くの仏像や仏画、什器類が奉納され、寺として再興いたしました。
 現在、山門には独特の草書体で揮毫された額が掛けられていますが、これは文化一二年(一八一五)七月二日に宗武の子、松平定信が奉納したものです。太平洋戦争により伽藍や什宝類を焼失した当寺にとって、往時を現在に伝える唯一のもので、昭和六十年度に板橋区有形文化財に登録されました。
 愛染の語句から縁結びの仏として、また愛染が藍染に通じることから染色業の守り本尊として、古くから信仰を集めています。なお、境内にある水屋の手水鉢や石碑や寺を囲む玉垣は、染色組合の人たちが奉納したものです。
 平成十四年三月 板橋区教育委員会」


振り返ると、川の跡だと思わされるような、曲がりくねった道筋。とはいえ、この辺りは用水の開削で出来た人口河川であったと思われる。


この背の高い木が、日曜寺の目印。明治30年から、蟄居の解けた徳川慶喜が巣鴨に屋敷を構えていたのだが、写真を趣味にしていて、この辺りでも撮影している。日曜寺と背の高い木が写っていて、周囲は草の原というものだった。同じ木なのかどうかは分からない。


山門前には、根村用水が流れていた痕跡が残る。橋の大きさから、小さな流れであったことも分かる。だが、下流域の人たちにとっては死活問題の水でもあった。


日曜寺の山門。


山門に掛かる、松平定信揮毫の扁額。


落ち着いた雰囲気の境内。戦災にあわなければ、江戸以来の貴重な宝物を数多く所蔵していたのにと思うと、勿体ないことだと思う。


そして、寺の前を川は流れていく。


今は暗渠化されているのだが、それも裏通りになっている道筋。智清寺の手前から振り返って見たところ。


智清寺。
「 智清寺
 御本尊阿弥陀如来。宗派浄土宗。龍光山恵照院と称する。
 室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝える。天正十九年(一五九一)徳川家康より寺領五石を寄進された御朱印寺である。
 境内には、板橋上宿の名主板橋市左衛門家歴代の墓碑や、明治初年前田家下屋敷払い下げに活躍した小松了従の墓碑、そして明治の歌人相沢朮の墓碑などがある。
 山門前にある正徳四年(一七一四)の石橋は、江戸から大正時代に使用された中用水に架けられたもの。中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもので、明治五年板橋町と下流の上十条村以下七ヶ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。同石橋は昭和六十年度の板橋区登録文化財(史跡)に認定された。
 平成六年八月  板橋区教育委員会」


智清寺山門。綺麗に整備されていて、真新しい感じ。


そんな中に、古びた石の橋が残されている。この中用水というのも、根村用水の別称。下流になると、北耕地川、稲付川と呼ばれるようになる。そう長い流域の川でもないのに、多くの名を持っているところが面白い。


小さな親柱に、文字が刻まれている。正徳四年と読める。


境内には石仏もある。


古びてはいないが、立派な本堂。全体に、近年に整備されている感じ。雰囲気は悪くないので、あとは歳月が仕上げていくのだろう。


「 雪廼舎相沢朮の墓
 文政八年(一八二五)越後国(現新潟県)六日町の医者石川有節の長男として生まれる。幼名は富蔵。諱は高尚、後に玄英、周碩と改める。医術を江戸の大久保東渓や成田宗信に、蘭学を大阪の六人部右衛門に学ぶ。弘化三年(一八四六)三河国(現愛知県)西尾藩主松平乗全の側医相沢良安の養子となり、その娘扇子と結婚して江戸に住む。後に家督を継いで湛庵と改める。明治元年西尾に移り、明治三年朮(おけら)の名を藩主乗秩より賜る。
 朮は文学を好み、漢学を江戸の前田観海、桑名の森樅堂に、和歌を井上文雄、加藤千浪、佐々木弘綱に学ぶ。明治九年東京に移り、医を開業するかたわら和歌を楽しむ。明治二〇年板橋町に居を構えると医を離れ、門人への和歌の指導に専念する。
 明治三十七年五月二十八日逝去。享年八十一歳。親族の眠る智清寺に埋葬される。法名は修徳院仁誉高尚居士、
 平成六年三月 板橋区教育委員会」
和歌を習った佐々木弘綱は、このブログに度々登場している長谷川時雨女史の師であった佐佐木信綱の父親。代々、和歌を嗜む家といえるのだろう。


境内には、大きく育った大木が繁っている。この寺の過ごしてきた時間を感じさせる。


境内の中を流れて行く中用水、根村用水は、そのまま国道17号線方向へ向かう。うしろの塀は智清寺の塀。マンホールは、暗渠化された川の名残かもしれない。


そして、駐車スペースになっているところから向こうへと伸びていく。


国道17号線の歩道からマンションの横を抜けてくる路地を望む。今は、マンションの通路になっている様で、奥まで貫通してはいない。この下を暗渠が流れている。


そして、っくどう17号線を越えて更に続いていく。

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