東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

品川からの道~碑文谷道その六:戸越(1)

2014-12-18 19:31:54 | 品川区
さて、品川宿から碑文谷、目黒への道を辿ってきて、国道一号線こと第二京浜国道までやってきたのだが、先に進む前に少し寄り道をしていこうと思う。辿ってきた道から少し南側にいくと、大きな公園がある。せっかくなので、そちらにも寄ってみようというわけである。
「戸越公園の沿革
 本公園は寛文2年(1662)、肥後熊本藩の分家熊本新田藩主細川利重が下屋敷として拝領、寛文6年に本家の所有となり、寛文11年までに数寄屋造りの御殿や庭園からなる戸越屋敷として整備された屋敷地の一部にあたります。文化3年(1806)、石見浜田藩松平周防守の屋敷となり、さらには伊予松山藩松平隠岐守の手に渡りました。明治の変革により何人かの手を経て、明治23年(1890)三井家の所有となりました。
 昭和7年(1932)9月、三井家は学校用地、公園用地として、現在の戸越小学校、都立大崎高等学校を含む別邸の庭園部分を荏原郡荏原町に寄附しました。同年10月、東京市域拡大に伴い、荏原町は東京市の一部として荏原区となり、公園用地は東京市に移管され、昭和10年3月東京市戸越公園として開園しました。
 その後、昭和18年の都政施行により東京都が管理することとなり、昭和25年9月、一部が都立大崎高等学校となるなどの変遷を経て、翌10月現在の公園部分が品川区に移管されました。その後区では数次にわたる改修を重ね、歴史的な風情を復元させ武家屋敷の雰囲気をかもしだすよう、正門を始め施設の再整備を行い現在に至っています。」


「薬医門
 本公園は寛文年間(一六六二年)に熊本藩細川家の下屋敷の一部になっていました。この戸越屋敷は、江戸滝の口の上屋敷及び芝白金の下屋敷とは性格が異なり鷹狩りやきじ狩り、あるいは茶会等を行う別荘風の邸宅であったとされています。したがって、この戸越屋敷に設けられていた武家屋敷門は、上屋敷あるいは芝白金の下屋敷に構築されていたと推定される長屋門とは異なり医薬門、冠木門等の簡素なものが中心であったと考えられます。以上の歴史的背景をふまえ簡素で質実剛健な様式であり、本公園の正門にふさわしい点から平成四年四月にこの薬医門を、平成三年三月には東門として冠木門を構築しました。薬医門のいわれは医師の門として使われたことからこう呼ばれていたようです。主材としては台檜(台湾檜)、三州日本瓦などを使用した本格的な造りとなっています。
 平成五年三月吉日 東京荏原ライオンズ倶楽部寄贈」


歩いていて立派な門が目に入ってきて驚いたのだが、これらはさすがに近年作られたものであるとのこと。


沿革など見ていても、大名庭園の面影をどの程度残しているのかということなど、もう少し具体的に分かればいいのにと思った。この池などは、当時のままなのだろうかと思った。


歩き回っていると、こんな案内も建てられていた。今は何も残っていないのだが、かつてこの場所にC12型蒸気機関車が保存されていたという。公園に保存されるケースが数多くあったのだが、その始まりがここであったという。そして、残念ながら今はその機関車は解体されてしまったとのこと。露天で保存ということになると、内部の腐食などは避けられないもので、同様に解体されてしまった保存機関車もけっこうある。その部品の一部は、静岡県の大井川鉄道で走る同型機に活かされているという。


そして、そこから少し行ったところにも文庫の森公園という、広々した公園があった。あまりに近い所なので、ちょっと不思議に思ったのだが、その名の由来も含めて面白い公園だった。


一見、芝生の広がる新しく広々した憩いの公園という感じ。


だが、その一隅に何か建物があった。


「旧三井文庫第二書庫(壁式鉄筋コンクリート造3階建て、1922、改修1926)
[歴史]「文庫の森」一帯は1662(寛文2)年に熊本藩の分家熊本新田藩が下屋敷として拝領、その後本家の所有となり戸越屋敷として整備された。その後、1890(明治23)年に、財閥の三井家の所有となった。やがてこの地に三井文庫が設置されることになり、平屋の事務棟と3階建ての同形の書庫2棟が、すべて鉄筋コンクリート造で建てられた。事務棟の主要部と第一書庫の竣工は1918(大正7)年で、第二書庫は、事務棟造築とともに1922(大正11)年に完成した。これらの建物を設計したのは、東京帝国大学営繕課長(当時)の山口孝吉(1873-1937)である。このうちで現存するのが第二書庫である。」
つまり三井財閥の知識とビジネスの集積である書類を保管していくために作られたものなのだろう。


「[構造形式]
 第二書庫は、約14mX9mの長方形平面の建物で、空気層を挟む2重の鉄筋コンクリート造壁で囲われている。柱ではなく、壁が荷重を支えるこのような形式は、壁式構造と呼ばれる。大正・昭和戦前期の日本の鉄筋コンクリート造建物にはこの形式は希で、現在知られている限りでは、この建物が最古の現存例である。ちなみに、2重壁にしたのは史料を火災の熱から守るためと考えられる。1階スラブ(床)と屋根スラブまで鉄筋コンクリート造にしているのは当時では珍しいが、建物を不燃材で囲うということで、これも防火のためと見られる。内部には書架が並んでいるが、その書架の柱を鉄骨にして、その上の梁を受ける構造材としても利用しているのが注目される。梁は、平行に並ぶ書架に合わせて、通例よりも遙かに狭い1.6m間隔で並び、その梁のラインに1.2m勧角で3本1組になった書架の鉄骨柱2組が一列に配されて、6つの点で梁を受ける。この鉄骨による多支点支持は、書籍などの史料の重さに耐える必要があるという書庫の目的にもかなうユニークで巧みな手法で、それにより約9mの梁間では90cm程度必要になるはずの梁の高さを20cmに抑えることもできた。ちなみに、書架の鉄骨柱は、アメリカ製の山形鋼を背中合わせに4本組み合わせて十字型断面(端の柱は2本でT字型断面)にしたものである。」


「[建築技術史的価値]
 1923(大正12)年の関東大震災では、この建物はほとんど被害を受けなかったが、この震災の被害の多くが火災によるものだったことを教訓に、三井文庫は直ちにこの建物の防火性能を高める改修工事に着手した。窓を市松模様につぶして火が入る危険を減らしつつ、残した開口部の内外面に人造石研ぎ出しの防火戸を増設した。この改修工事は1926(大正15)年に完了した。以上から、この建物は、ユニークで巧みな構造でつくられている点で、日本における壁式コンクリート造建物の現存最古のものと見られる点で、また震災の教訓をすぐに活かして防火性能を高めた点で、建築技術史上注目すべきものといえる。」


戦後の昭和26年に文部省がこの敷地を買取、文部省史料館をここに設置した。三井文庫の施設はそのまま転用されていた。


ほぼ同時代に作られた同じ様な用途の建物として、北区の飛鳥山にある旧渋沢邸内の青淵文庫を思い出した。それでも、青淵文庫がステンドグラスが使われていたり、装飾的にも凝った建物であるのに対して、三井文庫は極めてビジネスライクで、しかも徹底した史料保管のための施設としての拘りを感じさせるものであるという差異がある。
面白いのは、文部省史料館には昭和37年に渋沢青渕記念財団竜門社より、渋沢コレクションと言われる渋沢敬三収集資料が寄贈されているということ。三井と渋沢という、明治からの日本の近代を担った財閥や人々がどこかで交錯している様な面白さを感じる。
2008年に立川市へと移転し、国文学研究資料館史料館という名称に変わったそうだが、移転するまで事務棟も含めた旧三井文庫の施設が健在であったようだ。品川区に移管され、公園として整備される中で第二書庫のみが残され、防災倉庫として内部は利用されているという。
こちらは飛鳥山公園の青淵文庫。

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