HAYASHI-NO-KO

雑草三昧、時々独り言

ロマンチストの独り言-16 【幾つかの詩】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-16

【幾つかの詩】 


  高校2年C組のクラスメートに、三井勝が居た。
同じクラスだったから、多くの詩を教えてもらった。
自作の詩は作ってはいたのだろうが、残念ながら貰ったことがない。
  僕は、短歌、俳句の類はわからなかったけれど、散文詩は好きだったし、立原道造風のソネットは、時々のおとに書いたりしていた。
大久保にあった彼の自宅を訪問することもあったし、時折教室でも、文学論を戦わすこともあった。
しかし、当時、僕は写真部の後輩『G連』との関わりを強めていたし、秋の修学旅行以降は、徐々に疎遠になっていった。
  その彼から、僕は一人の女性を紹介される。
病気だったかで、療養所生活を送っていた、松浦紀子(正しくは教子、のりこと呼ぶ)と言う名前だけを今も覚えている。
詩が好きな女性で、顔を合わせたことは一度もなかったが、気に入っているという詩を、三井経由で何枚もの便箋に女性らしいきれいな字で書き送ってくれた。
今はその便箋も無いし、書かれていた詩も忘れてしまっているのだが一つきり覚えているものがある。

むらさきの  山のふところ
静かなる  夜の湖
名も知らぬ  花によく似て
なお淡い  なお淡い  愛のふるさと

  湖に  指をひたして
  汲みあげた  愛のはかなさ
  水よりも  水よりも  しみる別れが
  この世には  この世には  あると知らずに

  三井の言葉によれば、「芯が強く、それでいて人の気持ちを大きく包んでくれる、優しいお姉さん」と言うことだった。
僕がその後、手にした幾つかの詩集に、気に入ったものがあると時折三井と会話することもあったが、当人とは結局一度も会話することはなかった。

  その後文学論を戦わす相手は、藤本や柳本に変わってしまい、高校卒業頃には彼との会話も、殆ど無くなっていた。
しかし、何故か今でも詩の話が出ると僕はその一編を必ず想起する。
平凡だし、少女趣味的(と言うと、差別用語になるのだが)なのだが、当時覚えた4行詩の幾つかも、断片的だが残っている。

    君が瞳はつぶらにて
    君が心は知りがたし
    君を離れて唯ひとり
    月夜の海に石を投ぐ
          佐藤春夫「少年の日/夏」

  どうしても、川西匡子を連想してしまう詩。
激しい潮流の為に削り取られてしまった砂浜、崖(屏風浦と称された粘土質の段丘の東の端に当たっていた)の侵食を防ぐための護岸工事、おまけに、崖の上には幾つもの建物が建ち並び、昔日の面影さえ残っていない、
我が故郷、明石・貴崎の、その当時はまだ広々としていた砂浜に、僕は何度か彼女の姿を遠目に眺めたことがあった。
彼女の家は、その砂浜を見下ろす高台にあり、数分の距離だった。
時には幼稚園時代からの友、米山とその崖下で、彼の憧れの人、中島道子のことを語ったこともあった。
彼らは、中学・高校と同級で(当然、僕も高校時代は同級だったのだが)、大学卒業後結婚した。
数年前から開催されている、明石高校昭和39年卒東京在住メンバーの集まりである、『114会』には、一度ご夫妻で出席している。

    眞實諦メタダヒトリ
    眞實一路ノ旅ヲユク
    眞實一路ノ旅ナレド
    眞實鈴フリ思ヒダス
          北原白秋「巡禮」

  大学1年の夏、東北合宿の解散後、僕は仲間3人と、秋田・大曲から奥羽本線の夜行に乗った。林正朗と小嶋重洋だった。
途中、福島駅で林が途中下車したいと言う。
帰りを急ぐ旅ではなかったし、3人揃って途中下車した。
夜になっていたが、林は幼馴染みに電話をした。
小嶋と僕は、その相手が女性だと知らされて、少々羨ましかった。
結局、当人が不在だったかなにかで、会う事無く、次の上り列車に乗る為に、再び福島駅に戻った。
列車まではかなりの時間があったと思う。待合室で時間潰しをしている最中、僕は突然声をかけられた。

  『神戸商科大学の方でしょうか?』
白い清楚なワンピースがすぐ横だった。
  「はい、そうですが」
と答えながら僕はその女性が、福島県庁近くのボックスから、林が電話をかけた相手だとすぐに理解した。
  『林さんはいらっしゃいますか?』
  「一寸待ってください。捜してきますから」
  そう答えたものの、二人が何処へ行ってしまったのか僕は知らなかった。
とにかく汚れた3つのザックを置いて、僕は当ても無く二人を捜しに、駅の待合室周辺を歩きまわった....。
4~5分経ったろうか。
もとの場所に戻ってみると、林が居る。
暫くして小嶋も戻って来た。
  結局その夜僕たちは、林の西宮時代の幼馴染み、長江和子さんの自宅に泊めていただくことになってしまった。
遠慮など無かった。
暖かい風呂も、暖かい布団も、暖かい優しさも、皆自分たちだけのものだった。

  翌日、福島駅前から出発する彼女のお勧めの「磐梯吾妻スカイライン」周遊にでかけ、福島へは戻らず裏磐梯・猪苗代湖経由で郡山降りた。
そこから再び夜行列車で上野・東京に戻り、翌々日明石へ辿り着いた。
この白秋の詩は、軽井沢で詠まれたという「からまつのはやしにいりて」の詩と共に、バスの車内でガイドさんが詠んでくれた詩。
その夏の一つの記憶を蘇らせてくれる。
  翌年夏、僕は再度東北・大曲への旅に出たが、途中、乗り換えの都合もあり、東京に立ち寄って彼女と再会した。
新宿御苑での多くの会話の中に、林正朗から借りた『星の王子さま』の会話もあった。(この件は『星の王子さま』に詳しい。)
懐かしそうに、彼を思い出しながら、一冊の童話を紹介してくれた。
丸い花壇の中には、キンギョソウが揺れていたし、台湾閣の池の周りには、花水木が見事だった。

  『「星の牧場」という童話はご存知ですか? 大学の先生だかが書かれた童話で、チョウなんとか言う方が、挿し絵を描かれているんですよ。』

  雑踏の新宿駅で別れたその夜、僕は上野から大曲へ向かって、急行「おが」に一人乗った。
到着した日の夜、横手の花火大会があった。
大曲地方裁判所勤務だった、大森政輔(最高裁判所判事を経て、現在内閣法政庁長官)・玲子兄妹と3人でその花火見物に出かけ、会場への途中に見つけた本屋で、この『星の牧場』を手にした。
庄野英二作・長新太画の、理論社から刊行されていた大判の童話だった。
僕の記憶は、たった一編の詩でも止まる事無く糸が繋がりはじめている。
モミイチとツキスミの歌が聞こえてくる。 

   一つ年上だった、長江さんの優しい笑顔と、一つ年下で、まだ高校生だった玲ちゃんが作ってくれた、ジュンサイ入りのすまし汁、乳頭山登山の折、山頂の残雪にかけたオレンジジュースの味が蘇ってくる。昭和40年夏の記憶。

    せつなき恋をするゆえに
    月かげさむく身にぞしむ。
    もののあわれを知るゆえに
    水のひかりぞなげかるる。
    身をうたかたとおもふとも
    うたかたならじわが思ひ。
    げにいやしかるわれながら
    うれひは清し 君ゆえに。
          佐藤春夫「水辺月夜の歌」

  同じ頃覚えた、叙情詩。
佐藤春夫の詩は、随分覚えた。
「少年の日」からの「夏」は、前出通りだし、この詩も同じ類。
僕は、憧れのまま高校を卒業したその憂いを、暫くは引きずっていたのだろう。
  
  内藤幸の家をしばしば訪問したのも、これらの詩を思い出しながらだった気がしている。
ハイネの「わかれには」の詩に託して、別れの切なさを伝えてくれた彼女には、気持ちの上での大きな救いを貰った。
この佐藤春夫のゆかりが、明石市大観町の無量光寺(むりょうこうじ)にあることを知ったのは随分後のこと。
紫式部の源氏物語で、光源氏が明石の君を訪ねる場面に登場する「蔦の細道」は、その門前から南に延びる道と伝承されている。
いつだったかの夏、甥のヒロちゃんと三人で、明石公園の午後の散歩に出掛けたことがあった。
彼女と別れたのは、その無量光寺の近くだった。

    あヽひとりみの  かなしさを
    あぢわひしれる  ひとならで
    たれにかたらむ  ふゆのひの
    かくもわびしき  ののけしき
                  島崎藤村の一編

  西行法師の「心なき  身にもあはれは知られけり  しぎたつ沢の  秋の夕暮れ」を必ず思う詩。
秋の夕暮れをうたった他の二句とともに、三夕の歌と称されるこの平易な句。
藤村の詩も、随分多く覚えたが、やはり「寂しさ」「別れ」の詩が多いのは、やせ我慢してロマンチストを気取っていたからだろう。
結局は淋しがり屋だったのだろう。

    夏の陽射しの  その中で
    緑ぞ深き  葡萄の葉
    その実大きく  熟れる頃
    想い出もあり  恋もあり

  この詩は、明高文芸部発行『明星』に「或る少年からの便りに」と題して送った投稿の中に記されている。
3年生の秋、修学旅行から戻ってきた2年生に自分たちの1年前を思い描いて書いた。

  発行は年末になっていたと思うが、文中、仮名で登場する「S」は、幸ちゃんを想起していたことを思い出す。
文芸部員だった村田蓉子から痛烈な批判を浴びたことも記憶に残っている。
  内容に関して、余りにも形容詞が多い点、私的過ぎる点等々。
ただこの直後、僕は内藤幸の包容力に大きな魅力を感じ、残された高校生活最後の三ヶ月を、彼女との会話に費やすことになる。
藤本との語らいも今となっては遠いし、彼女との会話の内容は「花」の会話以外殆ど記憶にない。
それでも秋深き頃から、卒業までのわずかな期間しか会話できなかった人たちを、この拙い詩に思い出している。

  僕がこの詩を『明星』に投稿した頃、丁度、藤本の「ユッカ」を歌った詩が生まれている。
そしてその詩が、卒業生からの言葉の代わりとして掲載された卒業記念の「明高新聞」を手に、大学入学の為東京へ発つ前日、彼に同行して何人かの友の家を訪問した。
  春浅き日の午後だった。
僕の実家から、林の西の端にあった、浄蓮寺(じょうれんじ)の横を抜け、まだ海からの風が冷たく吹き抜ける貴崎の高台から、下溝住宅へ入った。
しかし、二人に共通だった筈の、川西匡子に会うことはしなかった。
(今もって不思議なのだが、彼がそこに何故足を運ばなかったのか?心の迷いが何処かにあったのか、それとも僕の拘りに対しての気遣いだったか。)
  同じ県営住宅に住んでいた、野田光好を訪ねた後、結局山陽電車に乗って明石へ。
太寺の安藤淑子は不在だったが、上の丸の原田麗子宅では、1時間以上いただろうか。
山下町の山田幸夫の家から、公園を抜け、茶園場町から大横町の市河幸子宅へ。
ここでも1時間以上語り合っていたし、ピアノを聴いた記憶が残っている。
藤本との関わりが無ければ、決して訪問することの無かった級友の自宅である。
早春の夕暮れだったが、そこを出た頃は真っ暗だったと思う。
それでも僕たちは、名残惜しくもう一人の級友を訪問することになる。

  彼が大学入学の為に東京に発つ前日、僕が最後の訪問先として選んだのは、幸ちゃんの家だった。
間違いなく僕のわがままだったのだが、藤本は、
 「お前の言うとおり、内藤が一番俺達の会話を理解してくれるだろう」
 と、夜になっていたにも拘わらず、彼女の自宅訪問を薦めた僕の言葉を認めた。  
  既に夜も8時を過ぎていただろう。
しかし、その突然の訪問に対しても、いつもの親しみ深い笑顔が戻ってきた。
半ばそれを期待していた僕は、嬉しかった。
取り留めの無い会話だったか、遠くへ去る彼を前にした激励の会話だったか、それとも一月前に卒業してきた、三年間の高校時代の思い出話だったのか。
覚えてはいない。
翌日午後の列車で東京に向かうこと、僕は大阪まで彼を送ることを話し、彼女の暖かな話し方に、名残惜しさを感じながら、そこを辞したのは10時近かった。
早春の夜風は温かくなった心には、余計冷たかった。

  駅までの距離はさほどないのだが、語り疲れ、歩き疲れた体には、遠かった。
僕自身は、そのまま明石に残ることになる。
去るのは、藤本なのに、僕の方が切ない気分になっていた。
幸ちゃんにも言われた。
  『中谷君の方が、なんか淋しそうやね。 一寸変やけど』

  その通りだった。しかし、気付かない振りをしながら彼は、そんな僕の感傷などお構い無しに、駅への道を急いだ。
途中の会話が一つきり残っている。

 「おまえはなァ。今まで皆に可愛がられ過ぎていた。特に女の子に。大学生って、そんな風に見られないからナ。自分を見つけなきゃ、いけない。
それに、そうしなけりゃ、社会に出てしまってから後悔するだろうからナァ」
  そう言ったのは、銀座通りと本町通りの交わる、フェリーボート発着所の北の交差点近くだった。
 「もう、卒業と同時に、皆バラバラになっちまって、終わりだったナア」
  「いや、そうじゃないよ。新しい出発だよ。社会の時流って、俺達にはお構い無しだから、それに流されないようにしなきゃならない。
それに埋もれてしまっては、大学に何しに行くかわからない。とにかく、新しい出発なんだよ」

  僕たちは、その夜、国鉄明石駅の改札で別れた。

  翌日、彼は、大阪駅発の急行「いこま」で東京に発った。
新しい出発だった。
彼が、東京へ発つ前日、僕の自宅から10分足らずの位置にある二人に共通の存在だった、川西匡子の自宅を二人は意図的に訪問しなかった。
ただ、東京生活を始めて最初の帰省(確か、5月の連休の後だった)の折、再び僕の自宅を訪れた彼は「川西に会ってくる。一緒に行かないか?」と、誘ってくれた。結局僕は、同行しなかった。
まだまだ拘りがあったのだろう。
ただ、一体何に拘る必要があったのだろうか?  
今、その様な機会があれば僕は、何の拘りも無く出掛けるだろうか?  ただ只、懐かしさだけを頼りに。
自問してはみても、その頃の不思議な拘りは、杳として原因を掴み得ない。

*  * *

  「そんなのはなァ、美化され過ぎた偶像だよ。」と、言下に僕のロマンチシズムを否定したのは、柳本だったか、魚住だったか、中西だったか。
その彼らも、しかし間違いなく「詩人」だった。

この古い路地を南へ抜けて少しゆくと
小さな竹の林がある
そうして竹と竹の隙間から
とおくに暗い海をのぞめる
秋ふかまったころなど
その竹林から海の騒めきをみていると
なにかしぜんとさみしくなる

この詩は、その魚住仁の作。
詩人であり音楽家だった彼は、就職先に音響メーカー、日本コロンビアを選択し、暫く東京暮らしをしていた。
僕よりも就職は前だったから、大学を卒業し新人研修で2ヶ月東京暮らしをすることになった僕に、一枚の葉書をよこした。
ただ、就職先は変わっていた。

  その中に、故郷明石の、時々何人かでそこを訪れた、浄蓮寺の裏手の墓地を詠んだこの詩が記され、彼独特の一言が添えられていた。
「....、とにかく電話待つ。余白が出来たので、詩でも書いておく。」
  そして文末にも、彼らしい言い回しのひと言があった。
「少年の時」と題するもので、白旗先生宅のうら山のことを回想、望郷したもの。
最も俺らしくなくて、最も俺らしい詩境だと思っている。とのコメント。

  僕は、その後、彼から三冊の詩集を贈られたが、その中の一冊「降雪の日々」にも、懐かしい文字があった。
彼自身の東京生活時代に書き溜めた膨大な詩の中から、彼自身が何となく気に入っている詩を選んで編んだ詩集。
そのように、詩集の後記に彼自身の言葉で書き綴られている。

  その詩集の第一篇に、この「習作時代」のものと思われる詩が載っていた。
推敲の後が僕には嬉しかった。
彼自身が、最も自分らしくないと言いながら、二冊の詩集に書き留めている詩。

  僕には、共通の場所だったはずの、浄蓮寺裏の墓地の懐かしい情景と、そこにあった幾つかの顔が、彼自身の原風景にもあるようで嬉しい。
思い浮かぶ顔はあっても、会うことも、声を聞くことも、風の便りに噂を聞くことさえもない友達。
それでも、彼の一編の詩に、「どうしてるかナ。」と想う。


少年時

このふるい家並を南へぬけてすこしゆくと
しずかな丘に
小さな竹の林がある。
そうして竹と竹とのあいだから
とおくに蒼い海をのぞめる。
秋ふかまった頃など
その竹林から海の波の穂をみていると
なにかしぜんとさみしくなる
                詩集「降雪の日々」収録

  魚住仁(うおずみ ひとし。詩集にはうおずみ じん と ルビが振られている。)
  詩と音楽、その両面で、僕に大きな影響を与えてくれた友であり、今も、この詩の舞台となった、浄蓮寺のすぐ近くに住んでいる。
「古典音楽鑑賞」の節で、古典音楽鑑賞趣味の原点であると記した場所である。
訪ねる気持ちがあれば、何時でも訪問できる距離。

  しかし、大学卒業後、先の葉書を貰った後、故郷明石へは僕の方が先に戻り、彼も何年か後に、明石へ戻った。
しかし、僕は、東京で受け取った葉書の後、今に至る30年近くの間に、一度きりしかその実家を訪問していない。
三冊目の詩集は、大震災の直後に何度か帰省を繰り返した折、何の予告もせずに、ふと立ち寄った彼の家で頂いたもの。
疎遠に過ぎたこの30年。
しかし、話は弾んだ。

  僕は、件の詩集二冊と、その時一緒に貰った彼の作曲になる幾つかの曲のコピー・テープは、「第二詩集の刊行の折、小貫と長谷川には随分世話になったから....。」と
の彼の言葉を受けて、福岡在住の小貫順・悦子夫妻に送った。
共に中学時代の同窓である。
皆、繋がりを大切にし、昔、子供であったこともお互いが同じ時期に笑い、騒ぎ、暮らしていたことも、そして何よりも友達だったことも覚えている。
だからこそ、何年経っても友達だったことを思い出すし、恐らくは死にそうになってもそのことだけは覚えているのだろう。
  彼自身は、「降雪の日々」の中で、既に詩作から離れたような記述をしているのだが、僕は、今でも、彼は本物の「詩人」であり、「音楽家」だと思っている。

*      *      *

  こうして僕は、この雑文の他節同様に大学時代を越えて今に至る「幾つかの詩」に関連した記憶を書き綴っているのだが、僕自身の拙い或いは真似事の「詩作」はこの時代、つまり高校時代以降は途切れてしまっている。
残念だとも思わない。
やはり、言葉をきれいに綴ることができたのは、この時代をおいて他にはなかったと自答している。
僕自身も「数字しか理解できない大人」になってしまったのだろうとも思う。
それも又それが僕達の道であり、淋しいけれども現実である
  ただ、残されているエピソードと、それに繋がってゆくことの出来る人々との糸は、たとえ細く切れそうになっているにしても大事にしたい。

  [覚え書き]
   第1詩集「大雪原」/孔版
     大学時代に貰ったが、手元には無い。緑の表紙に、タイトルが白色絵具だったか
     で書かれていた。
   第2詩集「雪風の涯てより」/孔版
     70ページにもなる大冊。大震災の直後訪問した、林の自宅で貰った。僕の知ら
     ない、彼に出会ったような気がした。
   第3詩集「降雪の日々」/凸版
     前作同様、平成7年春に貰った。 明石に戻ってから編んだ詩集。

*  * * *  * *

【追記 或いは蛇足】

松浦教子さんのこと
 ボタニカルアート画家・小西美恵子とは、大久保中学校の同窓だった。
そのことを知ったのは、一年おきだった展覧会の会場が北野坂にあったギャラリー・ミウラからかなり坂を上った「GALLARY北野坂」に移った頃だった。
展示作品を一通り拝見したあと、のんびりと話し込んでいた最中に彼女が口にした『…友達の松浦さん…』の言葉に僕は「その人、のりこと言うんでしょ?」と口を挟んだ時だった。
『えぇ~っ、なんで知ってるン?』 
「高校時代に幾つかの詩をきれいな字で書いてもらってたから印象深い…、会ったことないけど…。」と話す僕。
さすがに小西も仰天していたが、その高校時代に貰った便せんにきれいな字で書いてくれていた幾つかの詩を鑑定?の為に送った。
上の記憶では、書いてもらった便せんは無くなった…と書いているのだが、冊子の間にしっかりと保存されていた。
後日、会場を訪れた旧姓松浦さんと話した顛末、『便せんに書かれていた文字は確かに自分のものだけれど、高校時代に三井が見舞ってくれた記憶、その便せんを託した記憶はない…と本人は言った』と、その顛末も含めてメールが届いた。



▲ 便せん6枚に訳詩2編 佐藤春夫、島崎藤村らの詩が便せん15枚に書かれていた。▼

米山の憧れの人 中島道子さん
『人丸山東坂』に登場している。
二人は中学時代の同窓、高校も同じだったから何度か二人で自転車走らせて藤江の自宅を訪れたこともある。
後年、予想通りで米山は長年の意中の人と一緒になった。
残念ながら114会に二人そろって出席したのは、震災の年の一度切りである。

福島の長江さん
ワンゲル時代の同期、林正明の西宮時代の同窓。
夜半の福島駅の初対面、その夜の宿のこと、翌日の磐梯吾妻スカイラインのことは今も画像にある。
泊めて頂いたのは間違いなく林のおかげだと思うのだけれど、後年、小嶋と二人して俺たちやっぱりお邪魔虫だったなぁと話したものだ。

無量光寺の小川さん
中学時代の同窓で頭脳明晰だったと思う。
たまたま女房どのの実家・荒井家の墓所がそこにあり、がんで他界された父君葬儀もそこで執り行われた。
毎年春と秋の彼岸、夏の盆には墓参の折に何度も境内で立ち話が出来た。
近年、かなり憔悴が目立つようになって来たが幾つかの不幸が重なり、その心労が大きいのだろうと懸念している。

*  * * *  * * *  * * *  * *

【追記 或いは蛇足】への言い訳け
 酷暑が続く夏、記憶が溶けてしまいそうなくらいの暑さが続いている。
「ロマンチストの独り言」を一気に認めたのが震災の年の暮、真冬だったけれど、エッセイは思いつくままだった。
だから一度、年代別程度に再編しておこうと思いながら果たせないままになっていた。
外に出掛けることも多いのだけれど、異常な暑さはもしかして体の為には良くないナと自覚して、書き溜めていたものを再編した。
中には幾つもの記憶違いも、言葉足らずも含まれている。
だから、30年近く昔に認めたエッセイへの追記 或いは蛇足の形は、まだ記憶がハッキリしている間に残すのが妥当だろうと思っている。

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