青森県弘前市といえば津軽氏の本拠地ですが、今日は津軽為信公について・・・。
為信公のデータとしては以下の様です。
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天文19年1月1日(1550年1月18日)
死没 慶長12年12月5日(1608年1月22日)
墓所 青森県弘前市藤代の革秀寺
官位 従五位下、右京大夫
藩 弘前藩(津軽藩)藩主
氏族 (清和源氏義光流久慈氏?→)大浦氏→津軽氏
父母 父:大浦守信?久慈信長?
養父:大浦為則
妻 正室:阿保良(おうら・大浦為則の娘・14歳の時に為信と出会い恋愛による18歳同士の結婚・不妊)
側室:栄源院
牡丹を定紋とした:公家の近衛氏から牡丹を拝領し家格を誇示(近衛家は藤原氏で奥州では強い影響力を持つので)
津軽牡丹・卍紋・津軽輪宝・錫杖(しゃくじょう)など。
卍は仏教の吉祥を表わす紋。輪宝・錫杖(しゃくじょう)は密教の法具(仏の加護を願った)
津軽氏の家紋、卍・錫杖の由緒についての伝説
義父大浦為則の後を継いで間もないある夜、為信の夢枕に、異様な姿をした二人の童子があらわれた。
「われらは、昔からこの西山(岩木山)に住み、勧善懲悪を宗として、民を教戒することを心としてきた。公(為信)よ、今こそ、この津軽の国を治める時である。急ぎ実行せよ、われらが加護致す。」と告げた。
為信がその名を問うと、二人は「卍」「錫杖」と答えて消え去り、同時に夢もさめた。
そこで為信は、これぞまさに岩木山権現の霊験と喜び、旗印に卍、馬印に錫杖を用い、さらに兜の前立にも錫杖をつけたのであった。
その後、見事統一の念願が叶い、「津軽右京亮為信(つがるうきょうのすけためのぶ)」を名乗って、初代藩主となったのである。
この時の卍が、現在の弘前市の市章となっている。
日本家系調査会
為信公のデータとしては以下の様です。
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天文19年1月1日(1550年1月18日)
死没 慶長12年12月5日(1608年1月22日)
墓所 青森県弘前市藤代の革秀寺
官位 従五位下、右京大夫
藩 弘前藩(津軽藩)藩主
氏族 (清和源氏義光流久慈氏?→)大浦氏→津軽氏
父母 父:大浦守信?久慈信長?
養父:大浦為則
妻 正室:阿保良(おうら・大浦為則の娘・14歳の時に為信と出会い恋愛による18歳同士の結婚・不妊)
側室:栄源院
牡丹を定紋とした:公家の近衛氏から牡丹を拝領し家格を誇示(近衛家は藤原氏で奥州では強い影響力を持つので)
津軽牡丹・卍紋・津軽輪宝・錫杖(しゃくじょう)など。
卍は仏教の吉祥を表わす紋。輪宝・錫杖(しゃくじょう)は密教の法具(仏の加護を願った)
津軽氏の家紋、卍・錫杖の由緒についての伝説
義父大浦為則の後を継いで間もないある夜、為信の夢枕に、異様な姿をした二人の童子があらわれた。
「われらは、昔からこの西山(岩木山)に住み、勧善懲悪を宗として、民を教戒することを心としてきた。公(為信)よ、今こそ、この津軽の国を治める時である。急ぎ実行せよ、われらが加護致す。」と告げた。
為信がその名を問うと、二人は「卍」「錫杖」と答えて消え去り、同時に夢もさめた。
そこで為信は、これぞまさに岩木山権現の霊験と喜び、旗印に卍、馬印に錫杖を用い、さらに兜の前立にも錫杖をつけたのであった。
その後、見事統一の念願が叶い、「津軽右京亮為信(つがるうきょうのすけためのぶ)」を名乗って、初代藩主となったのである。
この時の卍が、現在の弘前市の市章となっている。
日本家系調査会
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