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コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

お地蔵様の指さす方向にあるもの

2014年11月30日 | 歴史ネタ
富貴野山宝蔵院が弘法大師によって開かれ、その後7参詣道のうち一色口が禁忌とされたようだ。

古くより栄えた富貴野山・宝蔵院(松崎)には、「富貴野の七口」と言う白川口、皆奈(海名野)口、江奈口、桜田口、船田口(門野)、峰輪口、河津口がある。
しかしこれには弘法大師が開山した云う一色口が禁忌とされ公表されていないと言う。
理由は女谷の形状が修行の妨げ説が有力と考えられている事による。


伝承なので疑わしいのは当たり前だが、その内容を考えてみることにする。

弘法大師伝説は、行基に比べれば多くはないものの修善寺の独鈷伝説など各地に存在するようだ。したがって、そもそも弘法大師が富貴野山に訪れ、宝蔵院を開山したかどうかからして疑わしい。もし大師本人或いはその弟子が開山に携わったことが事実としても、長らくこの地に留まったとも考えにくく、開山当初から参詣道が複数あったとは思えないのは当たり前であろう。
そしてその後「一色口は禁忌」とされ、参詣口が閉じられたということだが、その一色口には開山から900年くだった天明年間に、一色の若者達によって建立された宝蔵院への道標地蔵がいまでも残されていることへの説明がつかなくなる。禁忌としたなら、撤去してしかるべき道標が、そのまま残地されてることからすれば、伝承そのものが眉唾ものといわざるを得ないわけだ。天明年間と言えば、江戸期最大の飢饉が襲ったその真っ只中である。石造物の多くは化政時代のように世の中が平穏な時代に建立されるのが常であるが、天明の大飢饉は伊豆にはあまり影響がなかったのか、或いは飢饉ゆえ仏門に縋るものが多くなったため、道迷いせぬよう厚志により建立されたものか等の理由があろうが、想像の域をでない。
 さて、この道標地蔵が一風変わっている。分岐地点に安置された浮彫立像の地蔵様の光背部分に、富貴野山へ続く方向が書かれてある。また、袖の下から手が伸び行き先を指し示すなど、手の込んだ意匠のものとなっている。ところがである。よく観察すると、左右の文字と行き先が逆転しているように見えることに気づかれるだろう。この謎を解くヒントを与えてくださったのが、先般道中ご同行いただいたおじなべさんである。目的地へ導かせる主体は誰か?お地蔵様の立場になって考えれば、おのずと答えがでます。その解釈はこうである。「(お地蔵様の)右(手方向)又は左(手方向)ふきのみち」と読めばよいのである。つまり、括弧内を省略した文字を彫ったため、参詣者から見て左右が逆転したように見えてしまったというわけだ。したがって参詣者がここでの判断を間違えると、とんでもない方向へ進んでしまうことになるので特に注意が必要である。ともかくも参詣者は難しいことを考えずに、お地蔵さまの前に立ったら、袖の下から伸びる手が指し示す方向へ辿ればよいのである。
道標地蔵は、川金沢沿いに3体佇んでいらっしゃるので、以下のマップに位置関係を落とし込み、三体の画像及び光背文字を掲載しておく。(下流から1体目と2体目は道路開削により設置位置が変わっていると推測される)


第一道標 右ふきのみち 左やまみち ※右手が判別しにくいですが


第二道標 左ふきのみち 右白川みち


第三道標 左ふきのみち 右やまみち


いかがだろうか。三体すべての設置位置が行き先と符号することが理解いただけるものと思う。
ちなみに、この書物の文面も掲載しておくこととしよう。


最後に一色口が禁忌とされた理由が、「女谷の形状が修行の妨げになることによる」ことらしい。
これをいかに解釈するか?一色口から座禅石まで参詣道を登りつめ、尾根に沿って宝蔵院へ達するとすると、あの「のぞき岩」脇を通過したと考えられる。とすれば、こう解釈できないだろうか?
「一色口からの参詣道で必ず通過する「のぞき岩」の形状が女性の陰部を彷彿とさせるので、この参詣道は修行の妨げになる」と・・・

 


 いずれにせよ、どの伝承も後付によるものと思われ、なんの確証もない。

 ただ一色口に佇む道標地蔵だけはいまだに、富貴野山を指し示し佇んでいるのは紛れもない事実である。
 

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