――☆★さんぐ/撮速日記★☆――

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本丸御殿

2006年05月05日 15時41分00秒 | Weblog
 川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に藩主松平斉典が造営したもので、現在は玄関・広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみ。

 川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌父子によって築城された。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡り争っており、これに備えたものであった。築城当時の規模は後の、本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。
 天文6年(1537)に小田原を拠点に武蔵への進出を図った北条氏綱により攻め落とされた。天文15年(1546)に、扇谷上杉氏は対立していた山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城奪還を図るが、北条軍は八千の軍勢で上杉・古河公方連合軍八万を撃破(川越夜戦)、その後川越城を拠点に北武蔵への支配を固めていった。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて落城。川越城には江戸の北を守る重要拠点として酒井氏が配置され、その後も幕府の要職にある大名が藩主に任ぜられた。
 寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の本格的な拡張、整備を行った。
 現在の本丸御殿は、住居の玄関、広間部分と移築復元された家老詰所。

川越散策16(太田道灌像)

2006年05月05日 13時28分13秒 | Weblog
太田道灌公像 (川越市役所前)です。太田道灌ってどんな人かというと・・・

太田道灌 おおた・どうかん(1432年~1486年)

扇谷おうぎがやつ上杉氏の家宰(執事役)。
足利幕府の関東管領(将軍の補佐役、足利幕府関東支店のようなもの)は、足利基氏が就任して以来その子孫が管領職についていたが、足利持氏の代になってこの管領を鎌倉公方に名称変更し、公方の家宰(執事役)を関東管領と呼ぶようになった。関東管領には上杉家が代々就任し、後に上杉家は山内、扇谷、犬懸、詫間の四家にわかれた。この中で山内上杉家と扇谷上杉家が二大勢力として台頭し、相争うようになる。太田道灌は扇谷上杉家の家宰であり、上杉家の中で弱小だった扇谷上杉家を山内上杉家に並ぶ二大勢力にまで押し上げた立役者であり、有能な武将であった。山内上杉家の策略により、扇谷上杉家当主上杉定正にその野心を疑われ、暗殺されてしまう。

川越散策14(菓子屋横丁)

2006年05月05日 11時43分20秒 | Weblog
 菓子屋横丁の入り口。蔵の町並みから十字路を左に曲がり、しばらく歩くと細い路地1本分位に店が並んでいます。駄菓子屋さんが多いかな。変わったところではモンゴルの岩塩をつかったものや、巨大な麩菓子、くず湯、長いガムとかソースせんべいみたいな駄菓子など、安くて素朴なお菓子が処狭しと並べられていました。人も大勢で、道を歩くのにもかなり足元に気を使いました。
 こういう狭い路地に人がごちゃごちゃしているのが、小江戸というか、なんとなく下町っぽくて良い感じです。