川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に藩主松平斉典が造営したもので、現在は玄関・広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみ。
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌父子によって築城された。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡り争っており、これに備えたものであった。築城当時の規模は後の、本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。
天文6年(1537)に小田原を拠点に武蔵への進出を図った北条氏綱により攻め落とされた。天文15年(1546)に、扇谷上杉氏は対立していた山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城奪還を図るが、北条軍は八千の軍勢で上杉・古河公方連合軍八万を撃破(川越夜戦)、その後川越城を拠点に北武蔵への支配を固めていった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて落城。川越城には江戸の北を守る重要拠点として酒井氏が配置され、その後も幕府の要職にある大名が藩主に任ぜられた。
寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の本格的な拡張、整備を行った。
現在の本丸御殿は、住居の玄関、広間部分と移築復元された家老詰所。
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌父子によって築城された。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡り争っており、これに備えたものであった。築城当時の規模は後の、本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。
天文6年(1537)に小田原を拠点に武蔵への進出を図った北条氏綱により攻め落とされた。天文15年(1546)に、扇谷上杉氏は対立していた山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城奪還を図るが、北条軍は八千の軍勢で上杉・古河公方連合軍八万を撃破(川越夜戦)、その後川越城を拠点に北武蔵への支配を固めていった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて落城。川越城には江戸の北を守る重要拠点として酒井氏が配置され、その後も幕府の要職にある大名が藩主に任ぜられた。
寛永16年(1639)、川越藩主となった松平信綱は川越城の本格的な拡張、整備を行った。
現在の本丸御殿は、住居の玄関、広間部分と移築復元された家老詰所。