里山悠々録

里山の家と暮らし、田んぼや畑、そして水墨画のことなどを記録していきます

我が家に残る一通の古文書(後)

2022年02月27日 | いえ

前日からの続き。
我が家に、何故一通の古文書が300年近くもの間残されていたのかを考えてみます。


まず古文書にある百姓久三郎と水呑久右衛門の関係についてです。
久三郎から久右衛門に石高の一部を譲渡することによって久右衛門は新たに百姓になった訳です。
そして、水呑久右衛門を別家にしていることからみると、二人には血縁があったと考えるのが相当です。


この古文書は土地の権利と身分を証明するものとして扱われてきたと思われます。
それが故に、長い年月大事に保管されてきたのでしょう。
とうの昔に意味をなさなくなった古文書ですが、今日まで破棄せず残されてきた訳です。
3年ほど前、我が家の過去帳を作る際、家系を詳細に調べました。


父は当家の6代目と明記されているので、小生は7代目に間違いありません。
残されていた位牌や戸籍謄本などから2代目以降は明確に分りました。
問題は初代。
残されていた最も古い位牌から嘉永5年(1852年)没の人に間違いないと推測できました。


位牌には行年、俗名が明記されていませんでしたが、後に幸い墓石から判読でき、行年78歳、俗名久次と分りました。


ちなみに相方とみられる人は慶応4年(1868年)没で行年77歳、俗名は判読できませんでした。
2代目の没年は明治12年(1879年)で行年66歳、初代没後27年です。


ところで、江戸時代、一般庶民は公式な苗字(名字)即ち姓を持たないのが普通でした。
姓を持つことができたのは特別な名士だけだったと考えられます。
それが、明治初期に戸籍法や平民苗字制度が制定され、一般庶民も姓を持つようになります。
大概はその時点で○○家が誕生したと思われます。
当然、我が家も2代目の時代に現在の苗字を名乗り○○家となったのでしょう。
そして、我が家ではその時の先代をもって、初代としたものと推測されます。
我が家には、かつて古い墓地がありましたが、墓碑の多くは風化し読み取れなくなっていました。
それは現在の墓地に集約され、中にはっきり天明年間(1780年代)と分る墓碑があります。


また、古文書に記されている屋敷名は現在の地名と一致します。


久右衛門なる人物が別家として新百姓になったことがこの古文書の肝で、この人が我が家の実質的始祖だった可能性が極めて高い。
そうでなければ長い間この古文書が保管されているはずがありません。
ただし、苗字を持たなかったため○○家とはならなかった。
おそらく昔は専ら屋号が使われ、△△の久右衛門と呼ばれていたのではないか。
この辺りでは、今でも屋号が日常的に使われます。
明治初期に苗字制度が出たことで我が○○家が誕生。時の先代を初代としたと結論づけました。
我が家初代の没年嘉永5年(1852年)と実質的始祖が新百姓になった元文元年(1736年)では110年余りのブランクがあります。
古文書の久右衛門家の構成は4世代となっています。


この中で一番若い4世代目の孫太なる子は享保20年(1735年)で2歳。
我が家初代久次の生まれたのは逆算すると1775年でこの間にも40余年のブランクがあります。
つまり、我が家の実質的始祖と思われる久右衛門までは初代からさらに数代遡り、そもそもは水呑と呼ばれる貧農であった。
これがこの古文書から紐解く小生の結論です。
以上は、父からの言い伝えなども全くなく小生だけの推測です。
なお、今日、我が家の本家とおぼしき家は存在しません。
江戸時代、士農工商の身分制度が厳格にあり、農は最上位の士に支配されていました。
農は人間の生存に最も必要な食を担うため形式だけは2番目に位置づけられていました。
工はもの作りで生存に欠かせず3番目、商はものを動かす商売で形式上は最下位の位置づけ。
しかし、金がものを言う世ともなって豪商が生まれ、実際の地位は逆転、商が上位で時には商が士を支配することも。
現代はと言うと、彼の地のように未だ士(軍隊)が力で支配する国はあるものの、大方は士は政に変化。
物事の最後は全て政治が決めると公言する方もいる。正しいかどうかは別物らしい。
農工商はどんなものだろう。
さらに全く新しい分野ITが加わりました。
GAFAはじめ人間の生存には最も遠いはずの産業が跋扈し、支配しようとしています。