4月15日(火) 快晴 (高石市・大阪国際ユースホステル
~阪南市・南海本線 箱作駅~海南市・黒潮旅館)
4時45分、ユースを出発。羽衣駅から南海本線に乗り、昨日の到達点である箱作駅へ向かう。
6時10分、箱作駅出発。空気はひんやり、空は青空。国道26号線を行く。このあたりは孝子(きょうし)越街道というようだ。
小さなアップダウンがいくつも続き、
6時30分、箱作公園の歩道橋上から大阪方面を振り返る。左は大阪湾、
中央の高いビルはあべのハルカス。
6時55分、岬町に入る。表示は海南まで28キロ、和歌山まで16キロ。
みさき公園駅手前で、男性に「どこまで行くの」と声をかけられ、しばらく話しながら一緒に歩く。リタイアしたので長距離を歩きたいと思っているが、まだ62歳だから年金がたいして出ないため動きがとれない。いずれ日本一周をしたいので今は体力づくりに励んでいる、とのこと。これまでも歩いていて同様の話を聞いたが、昔のアニメ「忍たま乱太郎」の歌詞にあるように「やりたいこと やったもんがち」である。「意志あるところに道あり」。志を持続させ、計画の実現を祈る。
7時55分、深日(ふけ)町駅の先で南海本線を写す。
26号線は、大川(というほど大きくはない川)に沿って、孝子峠に向かう南海本線と並行している。
8時50分、孝子駅にて小休止。
孝子峠(標高100m)。「ビーチバレーのまち」なのか。
9時5分、孝子峠にて和歌山県和歌山市に入る。
峠からは一気の下り。下りの途中で、山を切り崩すような大規模な造成工事をやっていた。和歌山大学前という駅もあり、大きなイオンモールもあった。「学園城郭都市」という不思議な看板もあった。何だろうな。
宅地造成の何台ものダンプカーを見ながら下る。
9時30分、和歌山の工業地帯を遠望。煙突は新日鉄住金の工場。
郊外の市街地を行き、
10時25分、紀の川大橋。水は緑がかってとても美しい。大河である。川幅は淀川とどちらが広いだろうか。上流方面。
四国遍路の最後にお礼参りで訪れた高野山で、柿落ち葉の町石道から紀の川の上流を俯瞰したのを思い出す。
こちらは下流方面。自動車が多い。
そのまま進むと、和歌山市役所のところで26号線は終了し42号へ。
10時45分、市役所隣の和歌山城を見学。1時間余り。
天守入場券、410円なり。
パンフレット。
天守に登る。紀の川河口が眼下に。
和歌山城は、徳川御三家である紀州徳川家の居城。将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出すことになっており、徳川吉宗が養子に迎えられて8代将軍となった。
城内の展示として、和歌山県が生んだ知名人として、陸奥宗光、南方熊楠とともに、元阪急ブレーブスの悲運の監督西本幸雄が紹介されていた。
熊楠の手書きのノートが展示されていたが、粘菌の図に、細かい欧文でびっしり説明が書かれていた。聞きしにまさる偉大な学者、という印象。
「まりと殿様」の歌碑あり。5番の歌詞が書かれていた。西条八十作詞。
てんてん手鞠は 殿さまに
だかれてはるばる 旅をして
紀州はよいくに 日のひかり
山のみかんに なったげな
あかいみかんに なったげな
城の周囲は太陽の光を浴びて新緑が眩しい。
その後は単調な42号線の国道歩き。
13時20分、和歌の浦。遠方は片男波。
「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 芦辺をさして鶴鳴き渡る 」と山部赤人が詠んだ地である。
和歌の浦で写真を撮り、通りがかりのお婆さんから土地の話を聞いた。彼女の話では、昭和40年ごろまでは海苔の養殖が盛んだったが、川の方に化学工場ができたために海苔が全滅した。会社と闘ったが駄目だったとのこと。それまでは冬は海苔、春から秋はサツマイモなどの農業が中心だった、と。
鶴ならぬ白鷺。
13時40分、紀三井寺。
奈良時代に建立された由緒ある寺院だが、久しぶりにザックを背負って歩いたせいか、若干草臥れて231段の石段を上る意欲がわかず、下から眺めるだけで通過した。
山門、
仏殿。
紀三井寺緑道を通り、小さなトンネルを抜け、
14時50分、海南市に入る。
宿は、国道沿いと聞いていたが、少し中へ入ったところにあり探すのにちょっと苦労したが、
15時30分、黒潮旅館に到着。宿泊、素泊まり 3700円
歩数 50844歩 (累計 1935494歩)
距離 30km (累計 1241km)
費用 5411円 (累計 188596円)
~阪南市・南海本線 箱作駅~海南市・黒潮旅館)
4時45分、ユースを出発。羽衣駅から南海本線に乗り、昨日の到達点である箱作駅へ向かう。
6時10分、箱作駅出発。空気はひんやり、空は青空。国道26号線を行く。このあたりは孝子(きょうし)越街道というようだ。
小さなアップダウンがいくつも続き、
6時30分、箱作公園の歩道橋上から大阪方面を振り返る。左は大阪湾、
中央の高いビルはあべのハルカス。
6時55分、岬町に入る。表示は海南まで28キロ、和歌山まで16キロ。
みさき公園駅手前で、男性に「どこまで行くの」と声をかけられ、しばらく話しながら一緒に歩く。リタイアしたので長距離を歩きたいと思っているが、まだ62歳だから年金がたいして出ないため動きがとれない。いずれ日本一周をしたいので今は体力づくりに励んでいる、とのこと。これまでも歩いていて同様の話を聞いたが、昔のアニメ「忍たま乱太郎」の歌詞にあるように「やりたいこと やったもんがち」である。「意志あるところに道あり」。志を持続させ、計画の実現を祈る。
7時55分、深日(ふけ)町駅の先で南海本線を写す。
26号線は、大川(というほど大きくはない川)に沿って、孝子峠に向かう南海本線と並行している。
8時50分、孝子駅にて小休止。
孝子峠(標高100m)。「ビーチバレーのまち」なのか。
9時5分、孝子峠にて和歌山県和歌山市に入る。
峠からは一気の下り。下りの途中で、山を切り崩すような大規模な造成工事をやっていた。和歌山大学前という駅もあり、大きなイオンモールもあった。「学園城郭都市」という不思議な看板もあった。何だろうな。
宅地造成の何台ものダンプカーを見ながら下る。
9時30分、和歌山の工業地帯を遠望。煙突は新日鉄住金の工場。
郊外の市街地を行き、
10時25分、紀の川大橋。水は緑がかってとても美しい。大河である。川幅は淀川とどちらが広いだろうか。上流方面。
四国遍路の最後にお礼参りで訪れた高野山で、柿落ち葉の町石道から紀の川の上流を俯瞰したのを思い出す。
こちらは下流方面。自動車が多い。
そのまま進むと、和歌山市役所のところで26号線は終了し42号へ。
10時45分、市役所隣の和歌山城を見学。1時間余り。
天守入場券、410円なり。
パンフレット。
天守に登る。紀の川河口が眼下に。
和歌山城は、徳川御三家である紀州徳川家の居城。将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出すことになっており、徳川吉宗が養子に迎えられて8代将軍となった。
城内の展示として、和歌山県が生んだ知名人として、陸奥宗光、南方熊楠とともに、元阪急ブレーブスの悲運の監督西本幸雄が紹介されていた。
熊楠の手書きのノートが展示されていたが、粘菌の図に、細かい欧文でびっしり説明が書かれていた。聞きしにまさる偉大な学者、という印象。
「まりと殿様」の歌碑あり。5番の歌詞が書かれていた。西条八十作詞。
てんてん手鞠は 殿さまに
だかれてはるばる 旅をして
紀州はよいくに 日のひかり
山のみかんに なったげな
あかいみかんに なったげな
城の周囲は太陽の光を浴びて新緑が眩しい。
その後は単調な42号線の国道歩き。
13時20分、和歌の浦。遠方は片男波。
「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 芦辺をさして鶴鳴き渡る 」と山部赤人が詠んだ地である。
和歌の浦で写真を撮り、通りがかりのお婆さんから土地の話を聞いた。彼女の話では、昭和40年ごろまでは海苔の養殖が盛んだったが、川の方に化学工場ができたために海苔が全滅した。会社と闘ったが駄目だったとのこと。それまでは冬は海苔、春から秋はサツマイモなどの農業が中心だった、と。
鶴ならぬ白鷺。
13時40分、紀三井寺。
奈良時代に建立された由緒ある寺院だが、久しぶりにザックを背負って歩いたせいか、若干草臥れて231段の石段を上る意欲がわかず、下から眺めるだけで通過した。
山門、
仏殿。
紀三井寺緑道を通り、小さなトンネルを抜け、
14時50分、海南市に入る。
宿は、国道沿いと聞いていたが、少し中へ入ったところにあり探すのにちょっと苦労したが、
15時30分、黒潮旅館に到着。宿泊、素泊まり 3700円
歩数 50844歩 (累計 1935494歩)
距離 30km (累計 1241km)
費用 5411円 (累計 188596円)