水瓶

ファンタジーや日々のこと

「火山列島の思想」益田勝実

2016-03-09 11:06:47 | 民俗のこと
「昼は五月蠅(さばえ)なす水沸き、夜は火瓫(ほべ)なす光く(かがやく)神あり。」

昼は騒音を立てて水沸き、夜になると火を盛った壷のように輝きを放つ神様といえば、な~んだ?
答えはオオクニヌシ、またはオオクニヌシの国。温泉!火山!

オオクニヌシノミコトは別名をいくつも持っていて、その一つがオオナムチです。
そしてこのオオナムチを「大穴持ち」、すなわち噴火口を持つ山そのものと見たのがこの「火山列島の思想」の著者です。
もっといえば「オオナムチ」とは、この火山列島日本のあちらこちらに噴火という形で時々現れる神々の共有名で、
出雲のオオクニヌシは、そのマグマの神々の内の一体であったものが、
出雲風土記での因幡の白ウサギや国譲りの物語ではっきりと示されるような人格神にまで発展した姿だと言います。
そこではかつてのマグマの神の姿はほとんど忘れられているけれど。

この「火山列島の思想」は十一章からなっていまして、それぞれ別に発表された文章のようですが、
私は最初の四章をひとつながりに読みました。(上の話は三章目の「火山列島の思想-日本的固有神の性格」から。)
二章目の「幻視-原始的想像力のゆくえ」では、古事記の記述を読み解いていきます。

国稚く浮きし脂のごとくして、くらげなす漂へる時、葦牙のごとく萌えあがる物によりて成れる神の名は、
ウマシアシカビヒコヂ神、次にアメノトコタチノ神。この二柱の神もまた、独り神となりまして、身を隠したまひき。
上のくだりの五柱の神は別天つ神、次に成れる神の名は、クニノトコタチノ神、次にトヨクモノノ神。
この二柱の神もまた独り神となりまして、身を隠したまひき。
次に成れる神の名は、ウヒヂニノ神、次にイモスヒヂニノ神、次にツノグヒノ神、次にイモイクグヒノ神。
次にオホトノヂノ神、次にイモオホトノベノ神。次にオモダルノ神、次にイモアヤカシコネノ神。


・・・漢字の変換が難しいのでカタカナ表記にしてしまいましたが、このちょっと読むにも根気のいる、
古事記の神様の名前の羅列。これが、著者の方が現代の言葉に訳すとこうなるのです。

「角ぐむ葦の芽が頭をもたげた。とろとろの状態の広いところに、一つ二つと泥土地帯が姿を現し、杭が打たれて、排水がなり、大地はみごとに完成した。おお、尊いかぎり。壮大な大地の誕生よ。」

アメノトコタチなどの神様の名前は後世からの挿入だとして訳に入れていませんが、ウマシアシカビヒコヂは葦の芽、
ウヒジニ、スヒジニは泥土の神(ヒジは泥、ニは赤土)、イクは生命力のみなぎりを讃える語。
クイは水田の遺跡に見られる農耕土木のための杭。オオトは大地、その男女一双の神がオオトノジ、オオトノベ。
オモダルは形の完成を意味し、アヤカシコは「ああ、かしこ」の賛嘆の叫び。

ちょっと強引?でも、たしかにこういう読み方をすると、単なる意味不明の神様の名前の羅列があら不思議、
ちゃあんとある状態、しかも稲作農耕を思わせる風景を描く文章になるのです。
この記述以降は二度と顔を出さない、祭られた形跡のないこれらの神々の名前について、
語るために語られる神、「叙述である神々」とし、こう書いています。

「人々は、まだ、ことばを自由に駆使して、ことばによってその空想のすべてを描き尽くそうとしてはいない。おそらく、まだ、それができないでいる。そして、かれらが感じとった自然創造の神秘な営みのごく一部を、神々の名という形で表現しえて、大部分の空想をことばとしては〈未表現〉の世界に残している。しかし、それは埋没しきらず、神々の名が、その〈未表現〉の世界を感じ取る媒介として、微妙な役割を演じつづけるのである。」

そして「葦牙のごとく萌えあがる物によりて」の記述についても本当は、
「天地のはじめ、陸地がまだ若く、くらげのように漂っていた時、一本の葦の芽の神が頭をもたげたよ」
と読むべきだったと言います。
「葦牙のごとく」は、幻視者の眼を失った古代の史家による解釈であって、
あくまで角ぐむ葦の芽を神そのものと見たのが本来であったはずだと。神話はフィクションではないんですね。

「物を物そのものとしてみ、また、信仰の上でのイメージにおいてみる。二重構造の視覚、それは原始以来の眼であった。夜の視覚でもあった。」





四章目の「廃王伝説-日本的権力の一源流」では、古事記の国譲りの記述から、
父子とされるオオクニヌシ(父)とコトシロヌシ(子)の神様について、ツキヨミから得た着想から考えを広げてゆきます。

死んだ妻イザナミを慕って黄泉国へ行き、追われて逃げ帰ったイザナギが、海へ入ってみそぎし、
左の眼を洗って生まれたのがアマテラス、右の眼を洗った時に生まれたのがツキヨミ。
けれどそのツキヨミを月神そのものと見るのではなく、ヨミの「読む」を数えることとし、
月を数える月齢視測者、月を祭る一族のことだと考えます。
(月の満ち欠けを周期にした太陰暦は、潮に大きく影響するために海民にとって重要だったそうです。
暦は「日読み(カヨミ)」から来るらしい。太陽暦は農耕向けですね。)
そして同じ見方から、コトシロヌシのコトシロを事代、言代、つまりオオクニヌシという神を祭る司祭者の一族とします。
オオクニヌシは祭られる神であり、コトシロヌシは祭る司祭者であったのが、
いつからか司祭者の方も神と混同されるようになったと。日本の神は、個々に人に所有されていた段階があったといいます。

シャーマン文化といわれるアジア・オセアニア地域の中で日本が少し違うのは、公衆の面前で神がかりしないことだそうです。
一般の人々の前で神がかりせず、密室、あるいは囲われた場で行われる。
今も大きなお祭りでも、御神輿担いだりは誰でも参加できるけれど、その先の肝心の神事は目立たない、
神主さんなどのごく一部で行われたりするそうで、基本的に神事は密室の儀式なんですね。
それを、ある特定の神様を祭る技能を持った一族(神聖家族)に神様が独占され、
その一族のコトシロを通してしか神様の言葉を聞くことができない、日本は「神が虜囚である」状態だと説きます。
そして密室がゆえ、司祭者の性質に強く支配されるために、神様が変質しやすい。
一族の変化がそのまま神様の変化になってしまうと。
このことについて、もともとは農業神であったお稲荷さんが商売にたずさわる人々の守護神となったり、
菅原道真の怨霊をなぐさめるために祭られた天神さまが、学問の神様になった例をあげています。
もともとはマグマの神であったオオクニヌシが、諸説あるけれど、
出雲という国やその土地を表すような神様になっていった理由もここにあるとします。
そう、なんか日本の神様って、一人にいっぱい名前があったり、色んな面があったりして、
「これ!」といった姿がすごくつかみにくいんですよね。
 
少し前に「新日本風土記」の番組で、宮崎県の高千穂の伝統行事である夜神楽のことをやっていたんですが、
古いやり方を続けているある集落では、夜神楽を野外や公民館などではなく、個人の家の中でやるんだそうです。
なので選ばれた家は大変なわけですが、でもこれを見た時に、なんとなく上のことがうなずけるような気がしました。
そして、オオナムチなどに表される日本の神々は、不常在性、つまりいつもいつもいるのではなく、
時々ハレの日に天から、下界の聖別された祭りの庭へ降りて来るために、
また、しばしば祭る方の姿勢(精進潔斎や物忌みなど)を重視するあまりに、神の客体化が弱かったと言います。
つまり神様そのものについて、あまりはっきりしっかりと捉えようとしなかった。
そして、そういったことが後々にまで民族性に影響しているとします。
突発的に噴火しては憤怒の姿を見せて、多くの人々の心にその存在を刻みつけ、やがて鎮まると忘れられてしまう火山神。

「神の出生も、その名の由来も忘れることができる。人間社会の生産力の発展、自然との対抗力の増大がそれを可能にした。しかし、その忘却の過程において、人々は、生みつけられた土地の神の制圧下にその精神形成のコースを規定されてきた。火山神は忘れられても、日本の火山活動が活発であった時代に、マグマの教えた思想、マグマの教えた生き方は、驚くほど鞏固にこの列島に残っていったらしいのである。」


         



と、こんな感じにかなり独創的で、私はこういう本を他にあまり読んでいないのでなんとも言えないんですが、
すごく面白くて、目が冴えて眠れないような感動もしました。
思わずほほお~っと目を見はって、そうか、そうかもと思ってしまうこの説得力の源はいったい何なのだ。

この本が最初に出版された1968年からおよそ五十年という時をへて、今また火山活動が活発になって来たように思えます。
著者の方はツキヨミとオオクニヌシという、主流から外れてしまった神々を扱うことによって自由奔放に想像をめぐらせ、
また、暗に主流の見方も促しているようにも見えます。影を使って光を描く。


・・・ああでも、こうして書いてほっとした。あたまつかれたよう。。。




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