水瓶

ファンタジーや日々のこと

大岡川をさかのぼり(前編)

2016-05-29 13:35:46 | 横浜の町
新吉田と呼ばれる大岡川の辺り、埋め立てられたのは十七世紀半ば頃。浅いながらもとても濃い歴史があるんです。

昨日は桜木町の近くの河口から、大岡川をさかのぼってみました。
どうせ川をさかのぼるなら、かかってる橋を写真に撮ってみようと思い立って。
かなり歩いたので、今日はすっかり足が筋肉痛。いてて。。


とはいいながら桜木町前を通る大きな車道、河口の北仲橋は撮るの忘れまして、次にかかる弁天橋からです。
名前の示す通り、赤い橋。


すぐ近くにそびえるのはランドマークタワーやみなとみらいのビル群。
でも弁天橋をちょっと過ぎるだけで、ずいぶん雰囲気が変わります。


それほど広い川幅でもないんですが、船がいっぱい停泊しています。

大岡川は過去、水運で重要な役目を果たしたそうで、荷揚げ場址も残っています。
上流は日野川と笹下川に分かれていて、室町時代に鶴岡八幡宮が焼失した時には、笹下川から大岡湾(戦国時代は蒔田湾と呼ばれていて、ちょうど桜木町駅付近が河口だったそう)を通じて、材木を運んだそうです。
そういえば材木問屋みたいなお店、いくつか見かけました。ていうか鶴岡八幡宮て焼失してたんだな。。。


Googleマップには名前がのっていない住吉橋。冒頭写真もこの住吉橋で結構大きい橋なんだけど、なぜなのさー
大岡川沿いには桜並木があって、春にはさくら祭りが開かれていますが、昔は梅林で有名で、江戸から観光客が沢山来たそうですが、
団地が建てられたため、梅林はなくなってしまったそうです。


広い車道の大江橋。広いのは、かつて路面電車の線路が通っていたからのようです。今の大江橋は四代目。
大体この辺りの橋は、明治の初め頃に架けられたか、架け替えられているんですが、
その頃に山手の居留地から来る馬車が格段に増えたため、それに耐えられる橋にしたからのようです。

初代・木造の大江橋が架けられたのは1870年(明治3年)。大江という名前は当時の神奈川県令(今の知事)の方から取ったそう。
1902年には横浜電気鉄道の路面電車を通すため、二代目のトラス橋に架け替えられ、1922年には三代目に架け替えられました。
その後、関東大震災で被災しましたが落橋は免れ、横浜大空襲にも生き残り、現四代目は1973年に完成したもの。
へええ、、関東大震災も横浜空襲もサバイブしたというのは、なかなか強運の豪の橋ですね。

(※大江橋についてはwikiではわからない部分があったんですが、こちらのサイトに詳しい話がのっていて、参考にさせて頂きました。)


ちょうど走って来た根岸線。おお、いい感じに撮れたぞ!と自画自賛したうえに森のなかまに自慢。へっへっへ~


桜川橋。検索したら、最近公開された映画「さらば あぶない刑事」に、定年した刑事がこの桜川橋近辺でラーメン屋の屋台をやっているという設定があって、出て来たようです。

写真撮ってて、なんかやけに絵になるなあと思う場所が多かったんですが、
この辺りは古くから映画のロケ地などで使われていたんですね。黒澤明の「天国と地獄」が特に有名なようです。


「都橋商店街」で画像検索すると、これに似たような写真がいっぱい出て来ます。
商店街といっても一つの建物で、ハーモニカ横町と呼ばれているそうです。あ、な~るほど!


都橋のたもとには交番があります。この辺り交番がとても多いです。

大岡川の橋は、関東大震災でほとんど落ちてしまったそうで、その後に架けられたものを復興橋というそうです。
浅草辺りの橋もそうですよね。そして復興橋のたもとには、交番・トイレ・消火器具納庫があるのが一般的なんだそうです。
江戸時代には橋番と言われる番人がいたのかも。


都橋商店街、道路側からのようす。店名からすると、ほとんどスナックや居酒屋のようです。
そう、商店街は商店街でも、夜の商店街なのだ!
・・・ので、昨日おさんぽした時間帯には、みんなClosedの札がかかっていました。
夜はまたぜんぜん雰囲気が違うんだろな。

東京オリンピック開催時に、本通りをきれいに見せるため、本通りに並んでいた露天や屋台をここに収容したのが始まりだそう。
だから間口の狭い、小さなお店が並んでるんですね。会員制と札がかかっているお店も多いです。
こういう感じのお店って、初めて入るにはかなり勇気がいると思うんですが、ここにそのレポがありました。
メニューがない店が多いそうなんですが、わりと良心的な会計で、意外に大丈夫のようです。

ちなみに、ちょっと古くからあるような町には、こういう昭和的なスナックって何軒かあると思うんですが、
今やママも常連のお客さんも高齢化して、まるで全額自費負担のデイサービスのような機能を果たしていることもあるようです。
こういうお店のママって地元の情報通で、またよく気が回るから、独居の高齢男性などには有用なのかも知れません。
デイサービスで折り紙やぬり絵なんかちまちまやってられるけえ!みたいな男性も多いですし。
でも、人としゃべったりカラオケで歌ったり、そういうことなんですよね、認知症対策って。


桜川橋近くの交差点。


これもGoogleマップには名前ののらない宮川橋。


かんばん屋さんの「かんばん」というかんばん。???


長者橋。関東大震災の後に架けられた復興橋の一つで、他の橋よりも西洋風だと思うんですが、それもそのはず、
復興では多くの橋が一度に建設されていたので技術者が足らず、東京芸術大学の教授が生徒に課題として親柱のデザインをさせ、
その一つが採用されたからのようです。長者橋はアール・デコ調。

大岡川の橋の名前、長者橋とか黄金橋とか、いかにも由来がありそうな名前なので調べてみたんですが、
この辺りは埋め立て地だったので新しい町が多く、名前をつける際にせっかくなら縁起のいい名前を、ということで、
長者町、黄金町、曙町、寿町などのいかにも縁起のよさそうな名前が選ばれて、橋の名前もそれに準じたからのようです。
すごく羽振りのいい長者がいたとか、埋蔵金の伝説があるとか、そういう由来があったわけじゃないんですね。。。しょぼん。


日ノ出町駅。この辺りから上流にかけて、大岡川に沿うように京急線が走っています。


変化に飛んだ景観の町。


旭橋は、車道と人が通るための橋とに分かれています。


京急高架下のアート街。

私が横浜に越して来たのは十二年前ぐらいで、あまり古い話を知らなかったんですが、
大岡川近辺は、さらに新しい埋め立て地区みなとみらいとは、雰囲気なり歴史なりちょっと違うんですね。
仕事柄、戦前戦後からこの辺りに住んでいたという何人かの年配の方と接する機会も多く、へえー、やっぱ横浜みたいな都市に長く暮らして来た人の経験は、栃木の田舎育ちのうちの親とかとは違うなあと話を面白く聞いたりしました。
生半可につっこむのも難しい話で、このブログではあまり触れませんけれども、今回の記事を書くにあたっては、
大岡川の歴史や橋の話など、このはまれぽでたいへん面白く読ませていただきました。

青線地帯から芸術の街へ 黄金町の話

みなとみらいはきれいで、お買い物してもお散歩しててももちろん楽しいんですが、
黄金町や日ノ出町、伊勢佐木町にはまた違う面白さがあり、それはなんかこうダークな過去含めての独特の雰囲気があるからだと。
もちろん今はきれいになって治安も良くなっていて、だから森のなかまと私もこうしてのんびり写真を撮って散策できてたりするわけなんですが、カメラとか向けない方がいいのかなと思われる場所が、ちらほら路地裏なんかにあったのも確かです。
こういう黒歴史的な話って、忘れて欲しい人たちがいるのももっともだと思うんですけれども、私は知って良かったかな。


ここ最近、こうした町の風景の美しさって、たとえば山手の西洋館みたいな美しさと違うけれど、何がどう違うんだろうか考えてるんですが、一つには生活感のこと。
生活感は職と住が同じ場所にある時に、よく出て来ると思うんですが、たとえば高級住宅地って、スーパーや病院が近くになかったりして、生活するのに必要だけれど所帯くさいものを、なるべく遠ざけてるんですよね。
だから不便でもあるんですけど。しかも高台にあることが多いし。。
で、いわゆる下町って、職と住が一緒のことが多いんですよね。その辺が、古民家の美しさとも通じるかな、と。
古民家は農業なり漁業なり、生業に適するよう作られていたから。
逆にいえば、お金があれば、生業や風土を無視して家を建てることができるので、山手西洋館はそういう美しさです。

あと、もう一つは時間がつくる美しさ。歴史っていうと大げさだけれど、時間がたつことで、ある期間そこに人が暮らして来たというようなことから生まれてくる美しさ、みたいなものがあるのかなあと。
かつての生活をしのばせる美しさ。なんか別の言い方があるかも知れませんが。
廃墟ブームとかあったりしますが、あれもかつて人がそこにいて何か活動していた、みたいな痕跡が見えるから面白かったり感慨深かったりするんじゃないかと思います。
で、その時間経過がかもし出す美しさは、山手だろうが下町だろうか持っているはずで、はてどんなもんでがしょう。


かつての大岡川は、横浜名産のスカーフを染色するために、工場からインクまじりの汚水が排出されていて、インクくさかったそうです。
今はきれいになって、カヌーを漕いでる人もけっこういるようです。


日ノ出湧水。開港後、埋め立て地の辺りは良質な水の確保に苦労したそうですが、日ノ出町辺りは自然の湧水に恵まれた土地で、
民間業者が、横浜港へ出入りする船に、飲み水などを提供していたそうです。
今この湧水は環境変化などで飲料用には適しませんが、生活用水として使うことは可能だそう。

と、今回は旭橋まで。どうだ、ディープじゃろう。上流へとつづく。

ブラフ18番館

2016-05-27 20:27:58 | 横浜の観光・博物館など
先週行った山手西洋館のつづき、外交官の家の隣にあるブラフ18番館です。
ブラフ18番館は、関東大震災の後に山手45番地に建てられた外国人住宅で、
カトリック山手教会の司祭館として、1991年まで実際に使われていたそうです。


南仏風というんでしょうか、こんな感じの家並みが有名な街どっかにありましたよね。


そうそう、窓には花咲くプランターが飾ってあって。


採光のいい廊下。とても明るくて現代的な家ですね。


家具は大正末期から昭和初期の外国人の暮らしを再現して、元町で作られていた家具を復元展示してあるそうです。
あー、ああいう柄の布張りのソファとか、私が子どもの頃の豪華な応接間のインテリアって感じだ……。


このテーブルと椅子、いいなあと思って。


上と同じタイプの長椅子。シンプルで、どことなく懐かしいデザイン。


寝室は今風。まるでペンションのようですが、昔のベッドは小さくて高かったんだな。。。



二週続けてここへ来たのは、ブラフ18番館でやっていた、この工藤暖簾ギャラリーさんの展示会へ森のなかまが行きたい~!
と言ったからなのです。
撮影、ダメですよね…?とたずねてみたら、意外にもOKを頂いたので、撮影させていただきました。

森のなかま、結婚前とかはこういうかわいい物たちに、特に熱心だったような記憶もないんですが、
年々歳々、強く心魅かれるようになっているようで、よくネットで調べたりして、今や私より全然詳しいありさま。
おっさんになって色々弱ってきて、なにかかわいい拠り所とかが欲しいのかも知れません。
でも、こういうの好きなのっていいことだよね。


この花柄のシマウマくんや象さんは、フェルト工房FU・WA・RIさん。


まるまゆみさんの楽しいプチキャンバスシリーズ。


前田智美さんのフェルト造形「Tree」。鹿の角が木なんです。


同じく前田智美さんのミニチュア動物のピンクッション。なんてよくできてるんだ。。。
私は雑な人間なので、お裁縫なんてボタンつけをいやいやするぐらいなんですが、これは欲しいと思いました。


Ikka Tamuraさんの針ねずみくん。パステルカラーがやさしい色合い。


同じくIkka Tamuraさんの森に住む小人の魔法使い。まるで絵本から飛び出て来たような、独特の世界がありますね。


よねざわなみさんの、これはキウイ鳥かな?最近、こういうちょっと珍しい動物のぬいぐるみとか増えてきて楽しいですね。


てびねり工房圓夢さんの、木目込み風「兎」。
着物には縁がなくても、和風の布って見てると何かに使いたくなるんですよね。千代紙とかも。


あみありうむ ことり屋さんの、インコのパラダイス箱「セキセイインコ」。バードランドだよう!

他にもいっぱい、かわいい楽しいものたちがあったのですが、写真が思ったより失敗していまして……。
紹介できなかったものも多くて残念です。また機会があったら、こうして展示会やってくれたらうれしい!

と、すっかり満喫して見終えた後は石川町方面へ。最近は、街の写真を撮るのが楽しくて。
小津映画を見だしてから、今まで気がつかなかったような美しさに気がついた気がします。


自販機にゴミ箱、標識や古びた看板、雨の流れあとが残り始めた壁。
単体では気にも止めないような物が、景色の一部になると美しく見え出して来るのが本当にふしぎです。


人を入れると町の風景がより生き生きするんだけれど、顔がはっきり写っちゃってるのはこのご時世よろしくないですよね。。残念。

そういえば唐突なんですが、今日夜のこころ旅再放送で、
山形県のはっぽう造りのかやぶき屋根の家が、紅葉を背景に出て来て感動…!
元あった場所に今もある古民家、しかもおそらく周囲の環境もあまり変わらないままって、今となってはごくわずかなんだろなあ。。





生きてる間に、どれだけのものに美しさを見つけられるだろう。





横浜は、かつて外国の人が住んでた住居が石造りだったりしたせいか、港が見える丘公園のフランス旧領事館跡や、
山手80番館遺跡など、関東大震災の痕跡がそのまま見られる遺構がけっこう残っているんですが、
考えてみれば意外にないですよね。関東大震災の遺構。
木造の家は残りにくいし、だから代わりに地蔵尊とかたてて来たんだろうか。

でも、人災は天災よりも、ずっとずっと忘れがたいものなんですね。
ヘリの音とか騒がしかったけど、オバマさんが広島に来てくれてほんとによかったなあ。

山手イタリア庭園・外交官の家

2016-05-22 17:56:20 | 横浜の観光・博物館など
初めからここに建てられたのかと思いきや、移築された家なんだそうです。もとは渋谷区南平台。
「外交官の家」とは、かつて日本の外交官だった内田定槌氏の家だったからとのこと。

建てられたのは明治43年ですから、もうすぐ大正という頃ですね。
設計者はアメリカ人のJ・M・ガーディナー。アメリカン・ヴィクトリアン様式の影響が見られるそうです。


前庭はこんな感じ。みなとみらい線元町中華街駅の元町側出口から、山手通りへ出てずーっと歩いて行きます。


ちょうど季節でバラとアイリスが咲きほこっていました。


入口から中へ入ると、なぜか和洋入り混じった廊下が。それがなぜかは後述いたしまする。


クリスマスシーズンで世界のクリスマスの飾り付けをしている期間はもんのすごく混みますが、
今の時期ならゆったり見られます。

先週は結婚式をやっていて中はあまり見られなかったので、中の写真は今週撮ったものですが、
外観の写真は先週のものも混じっています。
そう、山手西洋館では結婚式を挙げることもできまして、かなり前から予約で埋まるほど人気なんだそうです。
見学は無料でできますが、この結婚式が貴重な維持費用になるんだそうで、昨日はベーリックホールでもやっていました。


一階のサンルーム。八角形の塔部分に当たります。いいなああ…!




とにかくぜいたくな造り。


廊下の床もたいへん凝ったもの。




今にも原節子が下りてきそうな階段。


二階の寝室。このベッド、コンパクトな上かなり高さがあり、寝ぼけて落ちたらシャレにならなそうなんですけど。。。


浴室とトイレ。トイレのふたが木製なのが面白いんです。


サンルームの上にあたるのがこの部屋のようです。


一階の和風部分に戻って来ました。


和風部分を前庭の方から見るとこんな感じ。なんでここだけ、しかもこんな小さい部分が和風なんだろうとふしぎに思っていたら、
もともとは西洋館と和館が併設されていたんだそうです。移築の時に、西洋館の部分だけ持って来たんだそうですが

かーーー。。。

今思えば惜しいことを。和館も一緒に移築すればなお面白かったのにいい。。。


イタリア庭園の方から見た併設部分。


窓からの眺め。窓からローマが見える、って昔あったんですよ。

Wind is blowing from the Aegean~♪







ヘンリー・ジェイムズの小説の舞台って、こんな感じだったんでしょうか。
ヘンリー・ジェイムズは、どっちかっていうと苦手というか、読んでていらっとするというか、なんですけど、
でもこんな雰囲気だろか。あとアメリカの古い時代っていうと、ホーソーン?もクセが強いな。。

前に「モホークの太鼓」というジョン・フォードの映画を見て、アメリカの植民地時代ってかなり独特だなあと。
最初はイギリスから移民してきて、インディアンと争って、その後に西部劇で描かれる時代が続くわけですよね。
服装とかの様式が、最初はイギリスっぽくて、後にマカロニウェスタンに変わってゆくのが不思議だなあと。
言葉は悪いけど、一回野蛮に戻るっていうか。
マカロニウェスタンのファッションは、いくらかインディアン風が入ってたりするんだろか。ズボンのびらびらとか。

「モホークの太鼓」(現ニューヨーク州が舞台)は独立戦争の頃が舞台で、だから1770年頃、
「風とともに去りぬ」(南東部のジョージア州が舞台)がそれから百年後の南北戦争(1861~1865)の頃。
で、西部劇の舞台は、wikiによれば19世紀後半の西部開拓時代。西部劇は南北戦争と同じ頃なのかな。それとも後なのかな。
「風とともに去りぬ」と西部劇の雰囲気が違いすぎて、同じ国の話のように思えない。。
西部は南北戦争あんまり関係なかったんだろか。その頃の西の事情がわからんですたい。まーーー、アメリカ広いからなあ。
そこにラブクラフトを入れ込むとさらにややこしくなりそうだ。るるいえー

・・・と、検索してアメリカの州地図を見て、いわゆるアメリカの都市と言われる所ってみんな東北部のちっさいとこに集まってて、
あとはなんかいかにもトレマーズが出て来そうな感じじゃないかとぼんやり眺めてたら

ぎょぎょぎょっ!!

左上の太平洋岸、つまり西北部にワシントン州ってのがあるではありませんか。あれ???え???

………えー、このワシントン州は、「1846年にオレゴン境界紛争を解決するためのオレゴン条約が結ばれた結果、イギリスから割譲されたワシントン準州の西側が現在のワシントン州になった。1889年にアメリカ合衆国42番目の州として認められた。」
というわけで、合衆国では結構新しい州なんですね。郡庁所在地はシアトル。
イチローがいたシアトルマリナーズはこのワシントン州のチームですね。

一方、ワシントンD.C.というのは、「政府所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界都市であり、また金融センターとしても高い重要性を持つ。首都としての機能を果たすべく設計された、計画都市である。」

そういえばこないだ「世界ふれあい街歩き」で、ワシントンD.C.をやってて、
ワシントンD.C.はどこの州でもないんですよって言ってた!正式名称は「コロンビア特別区」(District of Columbia)なんですと。
はああ、知らなんだー知らなんだー………







というわけで、今回も新たな発見がありました西洋館の旅でした。
古い建築物を訪ねることは、歴史をたどるに等しいのだ。にゃんてな。

元町・えびすや

2016-05-21 22:19:50 | 日記
昼頃から急に暑くなって夏のよう。先週に引き続き今日も山手イタリア庭園方面へいってきました。
夕ご飯に入ったお店がちょっと珍しいお店でしたのでご紹介。
みなとみらい線の元町・中華街駅からだとちょっと歩く感じで、根岸線石川町駅の方が近いかなあ。
バス停元町のすぐ近くのえびすやさんです。お店の入口がちょっと奥まってるので気がつきにくいかも。


かつては質屋さんの蔵だったという店内。頑丈なつくりで解体するのが大変だったので、改装して今のお店にしたんだとか。


蔵だけに暗いかと思いきや、木材の色も明るくていい感じ。


「写真を撮ってもいいですか?」とたずねると、どうぞどうぞと言っていただいたので、ご好意に甘えました。
五時半オープンの直後で、まだ他にお客さんもいなかったので、二階も見せていただきました。


やきとりと釜飯がメインメニュー。ねぎま!


厚揚げ!


そ、そして………手羽先!!

んめええええ!!


五目釜飯!

しかし食べ物をおいしそうに撮るのはほんと難しいな。。
他にもまだ頼んでみたいメニューがいっぱい。ここはリピートするぞ!



今日、コーヒー飲んだ元町の小さな喫茶店の方に、この近くで高すぎず(二人でほどほど飲んで食べて一万円いかないぐらいの感じ)、安すぎない(でも○○ら水産ほど安くない感じ)、おいしい焼き鳥屋さんとかないですか?と聞いたら、
みごとストライクゾーンにほうってくれたのがこのえびすやさんで、とても感じのいいご夫婦でやっています。

ちなみにこのお店を教えてくれたのは、元町通りの一本裏の通りにある加香里(かがり)という喫茶店の方です。
カウンター席が五席ぐらいしかなくて、カウンターの中では、ちょっと年配の女性がテレビで森繁久彌の映画見てる感じ。
ちゃんと豆からひいてサイフォンで入れてくれて、しかもブレンドが350円。もちろんおいしいよ!



私のブログの閲覧数なら、殺到するほど人が来るとも思えないし、記事にしても大丈夫かなあと思いまして。
もしこちら方面へ来る機会があったら、一度寄ってみて下さい。外人さんとかも喜ぶそうです。
やっぱりこういうのが好きなんだって。

あと、今探してるのは、ギムレットを飲ませるイカしたバーでございます。ギムレット飲んでみたいんじゃい。下戸だけど。
帰り道はにわか雨に降られましたよ。ゲコゲコ。

石川町散歩

2016-05-18 20:30:12 | 横浜の町
山手西洋館の中でも、山手イタリア庭園のある外交官の家は、JR根岸線石川町駅寄りで、
みなとみらい線の元町中華街駅からは少し離れているので、今まであまり行っていませんでした。
先日はこの方面をおさんぽしたんですが、石川町辺りの町並みが予想外におもしろかったので、
外交官の家とは別に記事をまとめてみました。




山手へと上がってゆく階段。この辺り、急な坂や階段が多いんですが、そのおかげでというか、
景色に変化がついてよいのです。眺めはいいし、すごくいい所なんですよね。苦労もあると思いますが。。


外交官の家の横にある階段を下りて来るとこの坂道に出ます。ここも結構な勾配。





石川町は、やきとり屋とそば屋とワインを飲ませる洋風居酒屋、それに手芸屋さんや雑貨屋さんが多い印象でした。
間口が狭く、小さいお店がひしめきあって、なつかし楽しい感じです。
あと岩手のアンテナショップもありました。レモンバジル風味のサバ缶がおいしかったんですよ!
地方のアンテナショップはいつも人がいる感じ。なんか入りやすいんですよね。なんでだろう。


山手から石川町へ下りて来る階段の途中に、お地蔵さんの祠があって、こんな碑が立っていました。

大丸谷震災地蔵尊の由来碑

1923年(大正十二年)九月一日午前十一時五十八分関東全域にわたって大被害をもたらした関東大地震は震源地を相模湾の北西隅あたりの海底と推測され、北海道、沖縄にいたる地域でも人体に感じ、全世界の地震計に記録をとどめ、死者99,331名。負傷者103,733名、行方不明43,467名の大地震であった。当時此の付近一帯は各所より発生した大火災により一面火の海となり避難民は高台(十三番)の安全地帯を求めて大丸谷道路上を山に向かって殺到した。其の数役三百名、然し下方より吹き上がる火焔は物凄く道路上は忽ち灼熱の地獄と化し前進をはばまれ止むなく右手の崖を草の根につかまりつつ我先にと登りはじめたが後続の避難民は火焔にあおられ熱さに耐えかね、つつじの灌木の中に身を伏せこらえたが後方よりせまる火勢の猛威には抗しきれず、ついに二十七名が二度と帰らぬ犠牲者となった。震災五十周年にあたり尊き人命を失った方々の霊にたいし改めて冥福を捧げるものであります。
昭和四十八年九月一日 石川町一丁目町内会


月曜日の夜に関東地方で大きめの地震があって、久しぶりに緊急地震速報で電話がギュンギュンいってびっくりしました。
昔って、こういう天災には、備えもなすすべも、今よりももっとなかったんでしょうね。
堀立柱の祖末な小屋なら、震度5ぐらいでも倒壊して、けがをした人や死んだ人も出たかも知れない。
江戸時代になっても、富士山の噴火や三度の大きな飢饉の時などに、幕府や藩の援助はぜんぜん不足していたようですし、
稲作農耕の暮らしの身動きの取れなさ、日本の、新たに開墾する土地のなさは、こうした災害へ対抗することも難しくしただろう。
けしてどうでもいいことではない、本当なら忘れるべきでない過去を無理にでも忘れ去って、
気持ちも暮らしも立て直すほかなかったんだろうと思いました。
もしも深く、真面目に考えれば、再建のために立ち上がる気力も出なくなってしまうんじゃないかと。
忘れるというのは、具体的にはほとんど対策することができなくて取らざるをえない、最後の奥の手なんだと思います。
ことに大きな天災を相手にしては、過去、人間は、ほとんど無力だったでしょう。
でもだからこそ、大きな被害のあったことについて、こうした碑や記録を未来に残してゆくことは、すごく大事なことなんでしょうね。


この建物は美容院で、とても目をひいたんですが、意外に町並みになじんでいました。建ってからの時間のせいかしら。


山手西洋館のような、その建物自体が美しい場合と、一軒一軒は山手西洋館ほどには美しさに重点を置いていないのに、
町並み全体に独特の美しさが現れてくるのは不思議ですね。
高級住宅地って、全体を見た時の美しさは、あんがい退屈なんですよね。
山手西洋館や高級住宅地の美しさは、ほかお城とかもそうだと思うけれど、生活感を隠した美しさで、
古民家やこうした町並みの美しさは、生活感がほどよくにじみ出た美しさなのかなあと。






電車に乗って馬車道駅まで。石川町とはまた雰囲気が違いますが、ビルの壁に夕陽が照り返してきれいでした。

しばらく前にBSプレミアムの新日本風土記で、鳥取県酒津の「とんどう」というお祭りを取り上げていて、
とんどうっていうのはお正月飾りとかを十五日頃にお炊き上げする、いわゆる左義長の一種のようです。
鳥取は因幡の白うさぎ伝説にあるように、大国主命、つまりオオナムチのお膝元で、
「火山列島の思想」にも取り上げられていたんですが、このわらで編んだ山、夜には火をかけて、まるで火山のように見えました。
左義長は徒然草に記載があったり、戦国時代頃の屏風絵にも描かれていたりとかなり起源が古いようで、
ひょっとしたら火山神・オオナムチをまつるお祭りに由来するのかも知れないなあと、これは私の想像ですが。

古民家で祭られているかまどを見た時も、考えてみればかまどってご自宅用のミニ火山みたいだよなあと。
お盆に帰って来たご先祖さまを、お供えなどを焼いて送るように、
左義長はお正月に訪れた神様(これもやっぱりご先祖様?)が宿った正月飾りを焼いて、高所へ送る儀式のように思えますし、
全く無関係にも思えた山の神、火の神、かまどの神、ご先祖さま、が、ぼんやりとつながってきたように思います。
おそらく、こういうことに確かな答えを出すことはできないんでしょうけれど、こうして考えをめぐらすのは面白いのです。

原始・古代の祖先たちにとって、山は神であった。山が清浄であるからではなく、山が神秘不可測な〈憤怒〉そのものであったからである。山は、まず火の神であることにおいて、神なのであった。(「火山列島の思想」益田勝実)





関東大震災から93年。東京オリンピック、私はテンションだだ下がりなんですが、
もしも予定通りにやらなければならないとしたら、東京の街を少しでも地震に強いようにしてくれたらいいなあと思います。
大がかりにそういう工事やら区画整理やらやるにはいい機会ですもんね。
東京に関東大震災規模の地震が今来たら、、、と考えると、本当に恐ろしいです。。
建物は当時よりはるかに耐震性があるけど、人口の集中も当時の比じゃないだろうし、日本全体に及ぼす影響に至っては、
考えるのも恐ろしい……。
だから、やっぱり少しでも、今できるだけのことはしておかなければ。
天災は今でも恐ろしいけれど、人は昔ほど、それに対して無力ではないはずですよね。


         


おまけ。懐中電灯は何本かもっておくと安心ですよ。少しお高めでも、今は小型で軽くて性能もいいのがありますから。
まあうちはもう、そんなにあってどうすんだってぐらいあるんですけど、震災の時には本当に助かりました。
だってあの時は、お店から懐中電灯も乾電池も、みんななくなっちゃいましたもんね。。
あとは、ガスレンジでもきれいにしておこうかなあ。