水瓶

ファンタジーや日々のこと

筒井康隆さんのこと

2016-01-30 15:14:12 | 雑記
「モナドの領域」で、書くつもりだったんですが、うーん。。。理由は後述。
ええと、でも、私の読書遍歴のスタートと言えるのが筒井さんということになると思います。
それ以前は子ども向けの本かマンガしか読まなかったので。
最初は「時をかける少女」。これは映画になる前に読んだと思います。中学生の頃だったかな?
たしか「ねらわれた学園」の映画を見て、眉村卓さんの原作本を読んで、そのあと似たようなのないかなと探したら、
近くにあったのが「時をかける少女」でした。後に原田知世ちゃん主演の映画ももちろん見ました。
すごく面白かったので他のを買ってみたわけなんですが、これがたしか「おれに関する噂」
(表紙はおなじみ山藤章二さんの顔のない男!)
「時をかける少女」はジュブナイル、少年少女向けに書かれた本でしたが、「おれに関する噂」はそうではなく、
読み始めて「えっ!」とびっくりしたんですが、面白かったんですよね。。。
筒井さんの本はいわゆる、子どもが読んでいたら親が眉をひそめるような本で、
でもそういう本ほど読みたがるのが思春期の子どもというもので。
ジュブナイルでない本では、子どもにもわかるように、なんて容赦はしない書きっぷりなんですが、
でも子ども向けに書かれた本て、ある時期からの子どもはいやがるものなんですよね。
自分にはまだ理解の及ばないものを、精一杯背伸びして手を伸ばして、一生懸命読むんです。

前にもちょっと触れましたが、筒井さんの本はヒモのはしっこが色んなものにつながっていて、
つまり色んなものの端緒に触れる機会になりました。中でも私は動植物についてのエッセイが好きで(「私説博物誌」)、
シャカイハタオリドリ、コモリガエル、テングノムギメシ、リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ、
こういう初耳だった、珍しい生物の話がすごく面白いんです。おお、今でもよく憶えてるぞ!
筒井さんのお父さんは天王寺動物園の園長さんで、象の肉を持ち帰ったことがあるんだっけ。
科学、文学、映画、ジャズ、その他もろもろ。ひっぱらなかったヒモもいっぱいあります。
大人は、主に学校の成績を上げることにつながる分野に、子どもが興味を持つよう苦心するものだと思うんですが、
それを難なく(おそらくご本人にはそういう意図もあまりなく)やっていたのが筒井さんで、
ただ大人としてはあまり子どもに知って欲しくないことの端緒もいっぱい混ざっていたので、
PTAとかから嫌われたんだろうなあと思います。でも、非常に教育効果ありましたよ。私には。
そうして色々に興味を持ったことから、その時々気の向くままに、あれやこれやのヒモをたぐったりして、
今けっこう楽しく暮らせてるんじゃないかなあと思います。
好奇心て、奇を好む心って書きますけど、まさにそういう部分に訴える力がとても強いのです。
そういえば奇想天外なんて植物もあったっけ。



小説では極限を書くことが多いでしょうか。極限状態でのパニック描写とか、ちょっとこわれた人の描写とか、
世界一じゃないかと思います。それに不快感の極致を追求したかのようないくつかの小説。。
筒井さんの小説は何度も繰り返し読んだ私でも、あまりに不快すぎて一回しか読んでないのがたしか二つ三つあります。
ご自分でも書いてて相当つらかったんじゃないかと思いますが。………なんで書いたんだろ?
でもなんか最近、世の中がほんとに筒井康隆さんの小説っぽくなって来たなあと思うことが多くてシャレになりまへんな。。
筒井ラインというものがありまして(今つくった)、そこから先へどんどん踏み込んでくみたいだ。。。
あともちろん、面白いSFも紹介していて、当時は海外のSFは違和感や難しさを感じて読めなかったものも多いんですが、
フレドリック・ブラウンやブラッドベリは面白く読めましたし、最近になって読んだのも沢山。
「宇宙のランデブー」は筒井さん推薦の帯で買ったんです。

「モナドの領域」なんですが、これは、えー、私がひっぱらなかったヒモの先を扱った話でした。
どうも哲学は苦手で、どうしたわけかそういう文章って一応読めはするものの右から左で、全然頭に入って来ないのです。
だから残念なことに、大法廷やテレビ出演でのGODの話はわからない部分も多くて。
ほんと、文字列が脳みそにぶつかってバラバラに砕け散っちゃうんですよ。。。
ただ、ちょうど年末に新約聖書を買って読んだところだったので、そっちからのアプローチで少し。
初めて読むタイミングとしては悪くなかったかなあと思うんですが。。
さすがといおうか、哲学的な話がわからなくても面白く読めるようになっていて、ミステリ仕立てになってたり、
市井の人々を描く、ちょっと意地の悪い筒井節やの脇道小道がいっぱい用意されてるんです。
ふわあ、でも筒井さんゆるくていいなあ。適当に不真面目でいいなあ。
面白がっちゃあいけないことを面白がるのが筒井道というものであります。こわあい道ぞ。しーっ、しーっ!

・・・えー、そんなわけで、書名を記事のタイトルとするにはちょいと気後れした次第です。
読み返したらまた少しわかってくるだろか。いまだに背伸びしないとダメですね。もうあんま伸びないけど。
小説の終わり、特に最後の文章がとても気に入って。加藤さんいいなあ。
こういう人が一番の使徒になったりするんだよね。へんなの。

幽霊をとらないで

2016-01-24 09:56:00 | 雑記
雪いまだ降らず。昨日は関東平野部でも雪がふるかも?ということで、家を出ずに買い込んだ本を読んでいました。
ロバート・エイクマン「奥の部屋」、アタリでした。これは面白いぞお!
帯に「モダン・ホラーの極北」とあるんですが、ほんとだ、モダンホラーっぽい!
(※私のいうモダンホラーっぽいというのは、「シャイニング」や「ツインピークス」みたいな感じ、ぐらいの意味です。
あんまり新しいの知らないので。。。双子が出て来てドアから血の海があふれ出して来るみたいな。
レッドラム!レッドラム!
エイクマンは絵画や芝居が好きだったそうなんですが、小説を読むと印象的なシーンが一枚の絵のように目に浮かびます。
モダンホラーって、映像化しやすいのかも知れませんね。
それではここで私の好みと偏見にもとづいた、上質な怪奇小説のポイントをお教えしましょう。うるさいぞお。

1:スプラッタな残酷・残虐表現がない。
あくまでそれとなく何か恐ろしげなことがあったらしい……と匂わせるぐらい。
ポーやラブクラフトがほのめかし上手で、かなりグロテスクな何かを暗示させています。
ご存知でしょうか。昔「サイコ」や「エクソシスト」を上映した映画館で、失神する人が続出したことを。
ああいう表現も時代とともにエスカレートして、見る方も慣れてゆくものかも知れませんが、あのぐらいの描き方がいいなあ。
私は映画「バイオハザード」で、人間サイコロステーキを見た時にもうダメだと思いました。。。
包丁で刺したら痛いに決まってる、みたいな恐怖はいやなのです。
出たツバでご飯を三杯食べられる梅干しの絵のような恐怖がいいのです。最上の調味料は想像力なのだ。

2:語り手もしくは主人公が行動的すぎてはいけない。
ただし好奇心にかられて幽霊屋敷に行くとか、開けちゃいけないドアを開けるぐらいの行動力がないと話が進みませんが。
ブルース・ウィリスやシュワちゃんのようなアクティブすぎる俳優はホラー映画に合いません。
「シックスセンス」にブルース・ウィリスが出てましたが、おなじみのタンクトップ姿ではなくスーツ姿でした。
あれはホラー向けにご自慢の筋肉を封印したのに違いありません。
怪奇なものがもたらす恐怖は、筋肉ではけして克服されないのです。

3:愛が恐怖に勝たない。
愛は怪奇がもたらす恐怖の切っ先をにぶらせてしまいます。
愛する人を守るため、という利他的な感情は、恐怖を克服させてしまうのです。いいことだけども。
愛で恐怖を超克させてしまって安っぽくなった映画は結構多いのです(特にアメリカ映画)。
感動させることを目的にした作品はいいけど、私が怪奇小説や映画を見たい時って、それは求めてないのです。
あと、ど~もフランスの怪奇小説は恋愛が強く絡んでくるので苦手かなあ。。
情熱の炎が恐怖の氷をとかしてしまうのか。ドラマチックにはなるんですけど。
また、私が知ってる狭い範囲で性に絡めて恐怖を高めるのに成功したのは、マッケンの「パンの大神」だけです。

4:知性も勝たない。
知的な人が怪異な恐怖に向き合う形をとる怪奇小説は多いんですが、最終的には負けてくれないとつまりません。
いっとき霊界を科学的に解明する、みたいなブームがあったみたいなんですが(コナン・ドイルとかはまったらしい)、
霊界探偵みたいな人が怪奇の原因を明らかにする、みたいな話は、どうしても今読むとちょっと古くさく感じてしまう。
(でもブルワー・リットンの「幽霊屋敷」は好きです。日本語訳の一人称が「余」という珍しい小説です。)
まして現代的な科学で解明してしまうなんてのは、怪奇小説にはもってのほか。あっちいけ~!!

5:隅々までスッキリきれいに解決しない。なんだかよくわからないものがあちこちに残ったまま終わる。
推理小説では隅々まできれいさっぱり解明してくれないといやなんですが、
怪奇小説ではちょっともやもやしたものが残る、ぐらいがいいように思います。
あんまりやりすぎるとイラッとしたりするんですが………ウォルター・デ・ラ・メアの朦朧法はちょっと苦手。。
エイクマンはもやもやの描き方と加減がすごく上手い気がしました。

・・・と、書いたのを自分で読み直して、筋肉も愛も知性も恐怖に勝てないとなったらいったい何が勝てるのか?
いえ、勝たなくていいんです。怪奇小説だから。

怪奇小説における語り手もしくは主人公の正しい身の処し方は、いよいよとなったら逃げるか、
怪奇の時間が過ぎるのを息をひそめて待つ、あたりでしょうか。台風が通りすぎるのを待つように、夜明けを待つように。
ただし観察は怠らず。このために、ある程度知性と理性を備えた人物が、語り手や主人公に選ばれることが多いのでしょう。
あわあわして何があったのかろくに憶えてないんじゃ、小説にならんもんね。



大人になるとサンタクロースや妖精や妖怪の存在を信じなくなるものだと思いますが、
幽霊は現代になってもまだしぶとく生き残っているようです。
アガサ・クリスティーが「ナイル殺人事件」の前書きに、こう書いていました。

「自分では、この作品は"外国旅行もの"の中で最もいい作品の一つと考えています。そして探偵小説が"逃避的文学"とするなら、(それであって悪い理由はないでしょう!)読者はこの作品で、ひとときを、犯罪の世界に逃れるばかりでなく、南国の陽射しとナイルの青い水の国に逃れてもいただけるわけです。」

さすがミステリの女王ではありませんか。うれしいなあ!
アガサ・クリスティは怪奇小説もいくつか書いていてなかなかの腕前なのですが(「死の猟犬」は特に怖い!)、
推理小説ではもやもやを残さずきれいに解明し、怪奇小説では意味深なもやもやを残し、と実にもののわかった人なのです。

怪奇小説も逃避文学だと思います。現実や日常生活から逃れて、ふわふわと心を遊ばせる。
特に怪奇なもののいい所は、完全に理解した、世間一般に認められた専門家みたいな人がいないことです。
幽霊の専門家が、幽霊はそんな風には出て来ない、とか、幽霊が出る条件とは、なあんて言い出したらきゅうくつですよね。
幽霊を見てはいけない、幽霊になって人前に出てはいけない、みたいな法律もできようがないでしょうし。
幽霊はいないと考えるのはもっともなことだとは思うんだけれど、
幽霊はいるって考える人を、そんなものいないと徹底的に追いつめるようなことは、無粋で子どもじみたことだと思うのです。
そりゃあそういう所につけ込んで、高い印鑑やツボを売りつける霊感商法とかは悪いことだけど。
(ちなみに私は、幽霊はちょっといるような気がするし、なんだかちょっとはいて欲しいな派です。

時代につれ、人が妖怪を見なくなって、幽霊を見なくなって、UFOも見なくなっていくのかも知れませんが、
妖怪も幽霊もUFOも夢がある存在なんだと思います。夢があるというのはつまりピーターパンのごとし、
現実や日常とはちょっと違う世界へ連れ出してくれる存在ということです。
その「物事の成り立つ根っこがこことは違うゆえに息抜きのできる世界」が、どんどん狭くなっちゃってるからね。。。
でもサンタクロースや妖精のような、楽しく美しいハッピーな世界の住人たちよりも、
恐怖のようなネガティブな感情に絡んだ、ダークサイドの住人たちの方が長く生き残ってるっていうのも面白いですね。

・・・幽霊側の弁護人からは以上です。お礼に出て来なくていいので。

真冬もピーク!

2016-01-20 16:46:14 | 日記
ふくらんだ枝先の間をすり抜けてゆく白い飛行機。先週末のおさんぽの写真です。
最近は元町公園がお気に入りで、ということはやっぱり木の写真が多いです。

わざわざ雪のある所を選んで歩く小学生を見て、雪の上を歩いてHPが回復するのが子ども、
けずられるのが大人だと思いました。うえ~


道路脇にあったランの鉢植え。ランというと温室育ちのイメージがあるのに、寒空の下こんなに立派に咲いていました。
しかしランて、どことなく動物的な匂いのする花ですね。


ずん、ずん、ずん、とのっそり出て来たニャンコ。
「なんかこの猫、谷啓に似てるよね」と私が言うと、「でも猫って大体谷啓似だよね」と森のなかま。
そういえばそうかも。トロンボーン吹きますか?

以下、木の写真がいくつか。↓







みなとみらいの辺りは大きな公園や、保存されている歴史的建築物などが多いせいか、
大きな古木が結構残っているんですが、私はこの元町公園の木が特に気に入っています。
もともと谷になっている地形で斜面に生えている木が多く、ダイナミックな樹形をしているので、
ヘビや龍や象や恐竜などの動物を思い出して、森の生命力の荒々しさみたいのを感じるのです。わさわさおーんおーん。








真ん中のシルエットはキジバトくんです。
今の時期、枯葉のつもる辺りからガサゴソいう音が聞こえたら、大抵キジバトなんですよね。
キジバトはつがいか単独で行動することが多いようです。


ハトは首の動きがすばやくするどいので、写真がブレるブレる………








外人墓地入口のコブシ。もう毛皮のコートを着てぷっくりし始めてますね。輪郭がきらきら。


車も人影もふと途絶えた一瞬、西日を浴びて道路が光ります。トワイライトゾーン。


神奈川近代文学館の梅もちらほら。今年は早いみたいですね。

この日は森のなかまの希望で、「世界の翻訳本で見る『星の王子さま』」展を見に行きました。
「星の王子さま」は岩波書店から出ている唯一のSFなんですよ!
そんなに大きいスペースではないのですが、色んな国の本の装幀が見られてなかなか楽しめました。
エジプトの本の表紙はまるでアラビアンナイトのようなターバンを巻いた王子さまで、これがまたかわいいんですよ。。。


港が見える丘公園でよく見かける、これは何の木だったっけ、、?
花が咲いたり葉をつけないと、何の木なのかさらにわからなくなってしまいますね。。
でも葉が茂っているとわからない枝ぶりがあらわになって、これはこれで面白いんですよね。
この木はまるでコートハンガー!


西の空は金色がかったオレンジに


東ではベイブリッジが地球影に沈んでいます。




元町通りの時計がキンコロキンコロ鳴り出して五時を知らせます。
ようやく日がのびて来だしてうれしいなあ。


           


おまけの読書記録。お正月にKindleで読んだコンラッドの「闇の奥」
映画「地獄の黙示録」の原案なんですが、タイトルのまがまがしさにおじけづいて映画も見ず本も読んでなかったのです。
でも原案の本はベトナムが舞台じゃないんですよね。
それに、森のなかまが「そん~なに心配するほど重暗くはないよ。面白いよ。」とおすすめするのでポチリ。
たしかにけっして明るく楽しい話ではないんですが、ほんとだ面白くてどんどん先へ進む・・・!
一つにはマーロウという無頼派の船乗りの語り、という形を取っているせいかも知れません。
私は「語り」の形をとる本だと、すごくとっつきがよくなるのです。
読み終えた後も、けしてハッピーエンドではないのに後味の悪い感じはせず、そうですね、なんでだろ、、、
全体にじめじめじとーん、とした感じがしないんですよね。ハードボイルド風とでもいいますか。。
コンラッドは自身も船員の経験があるんだそうです。
でも二十歳の頃、やっぱり森のまかまにすすめられて短編集か何か読んだ時には、あんまり面白いと思わなかったんだよなあ。

訳者の方のあとがきに、重要なセリフ「The horror! The horror!」を「怖ろしい! 怖ろしい!」と訳したとありました。
昔訳された有名なものが「地獄だ!地獄だ!」になっているそうなんですが、
「日本語の地獄は幅広いニュアンスを持っているので」、前出のものにしたそうです。
たしかに、私の地獄のイメージでは閻魔さまが大上段にかまえていたりするので、それなりに秩序だってたりするんですよね。

真冬もピーク。あらぶる雪や風に倒されないように、にゃんとか春まで乗り切りましょう。

ユーモア、そしてブラックユーモア

2016-01-17 09:05:49 | 雑記
先日テレビでアガサ・クリスティー原作の映画「オリエント急行殺人事件」をやってたんですが、
前に見たのはずいぶん前のことだったので、とても楽しんで見られました。
オールスター・キャストのそうそうたる面子!
アルバート・フィニーという役者さんがポワロをやったのはこの一回きりなんだそうですが、
姿格好のイメージはこの映画が一番原作に近い印象です。
ショーン・コネリーにヴァネッサ・レッドグレーブ、美貌のジャクリーン・ビセット、
えっ、まさか!と思ったらなんとイングリッド・バーグマンが地味~な役で出てたり、
あれ、オーラが薄い感じのこの人なんかで見た憶えあるなあ、と思ったら「サイコ」のアンソニー・パーキンスだったり。
ローレン・バコールのミセス・ハバーズはちょっとかっこよすぎて原作のイメージとは違うんですが、
なにげないしぐさまでさまになってて思わず見惚れてしまうようで、
あの時代のハリウッドの銀幕スターの存在感ちゅうのはすごいですな。。。

ええとまあそれで、クリスティーを読みたくなって電子書籍で新たに買ったり本をひっぱり出したりして読んでるんですが、
クリスティーの短編はユーモアが際立ってるなあと。ことに「ヘラクレスの冒険」とか。
私は結構笑いについてはうるさい方なんですが、ちょっと思ったことたらたら書いてみようかなあと。
あくまで私個人の好みにもとづいた、すごく主観的な話です。あしからず。



私の好きなユーモアというのは、「これがユーモアだ!」とは言いにくいようで、たとえば「このセリフがユーモアだ」と、
取って示せるようなものではなく、つかもうにもつかめないかすみかもやのようです。
一枚の絵全体を眺めた時にユーモラスだと感じるように、かもし出される空気というか。配置、構成の妙で。
あと「ユーモアとペーソス」って昔よく映画とかのコピーにありましたけど、
コメディでペーソスがあんまり強いのは嫌いで、なくてもいいです。
ペーソスとはコトバンクによればこういう意味です。ウェットなのいらん。

読む本がかたよってるせいもあるんですけど、わりとイギリスの作家にユーモアが巧みな人が多い気がします。
ダンセイニもそうですし、「銀河ヒッチハイク・ガイド」を書いたダグラス・アダムスという人もそうです。
イギリスの上流階級って、すごくユーモアが効く舞台なんですよね。。。
体裁とか体面とかをすごく気にしてて、マナーや社交辞令が行き渡ってる社会というか。

最近シェークスピアの「十二夜」を読んだんですが、そういう口あたりのユーモアをさかのぼると、
源はその辺てことになるんでしょうか。まあ大体のことはシェークスピアが元祖って言っておけば間違いない気はするんですけど。
解説に説明があったんですが、十二夜というのはクリスマスから十二日目の一月六日のことだそうで、
この日に愚者の祭りっていうんでしょうか、ふだんの秩序をひっくり返したような、
ハメを外した乱痴気騒ぎのお祭りが行われていたそうです。裏クリスマス?
そのドタバタにちなんで、一月六日に喜劇「十二夜」の舞台が初演された、とかうんぬん。
あ、そうだ。それでそれを知らずにたまたま一月六日に「十二夜」を読んだのが、なんか偶然でうれしかったなあ。
「十二夜」には道化師が出て来るんですが、道化というのも面白い職業ですよね。
仕えてる相手、主人を面と向かってバカにしたりする。そういうことが職業的に成り立っていたっていうのは不思議ですね。



そして取り扱い危険!なのがブラックユーモアです。
昔角川文庫でポケットジョーク集がシリーズで出てまして、テーマが「男と女」とか「子ども」とか、
「酒・ギャンブル」とかいった具合に分かれていたんですが、その中にズバリ「ブラックユーモア」の巻がありました。
おおっぴらに言えるようなもんじゃなくて、ひっそりこっそり交わされるジョークとでもいうんでしょうか。
今はあれ、発行できないんじゃないかなあ。。

ブラックユーモアはユーモアよりもずっと、時と場合や相手やをすごく選ぶんじゃないかと思います。
私は筒井康隆さんの小説が好きで、十代の頃にはずいぶん読み込んだんですけれど、
ブラックユーモアというとまず一番に筒井さんの名前が思い浮かびます。
かつて断筆宣言されたりしてますが、ブラックユーモアは、名手にしてそういうトラブルが起こりえる難しさがあります。
私はブラックユーモアは他の何よりも質が大事だと思っていて、この場合の質は「笑える」ことです。
(といっても、あくまで私が笑える、としか言えないんですけれども………。)
質の悪いブラックユーモアは陰惨で笑えず、ただただブラックなだけです。
ひねりもなんもなくて、単なるド直球の悪口や嫌味、皮肉、嘲りからは、ユーモアは生まれない。

ブラックユーモアは毒のようなもので、たとえば予防接種でごく弱いウィルスをほんの少し体内に取り込むことで、
インフルエンザを予防できるような、そういう性質のものじゃないかと思います。
そして予防接種をするのは、弱ってる時じゃなくて、体力のある時、健康と言える時です。
盤石な倫理観が世の中に行き渡っていて少し息苦しさを感じる時に、陰でこそっと言ってふうと息をつくような。
誰しも聖人というわけにはいかないですしね。清すぎる水に棲んでると弱ってしまう。。
でも、今はそういう意味では、あんまり壮健な時代じゃないんだろうなあと思うことが多いです。
予防のつもりで接種したら、本当にインフルエンザにかかって重症化してしまう、そんな時代のように思います。ふぃー。

ブラックユーモアは主流や王道にはなりえないもので、もしもその黒さが暗示している価値観のようなものが、
堂々ど真ん中に御神輿をすえた時には、全く笑えないものに変わってしまう。
だから、中央にあるものがぐらぐらしてあぶなっかしい今は、昔よりもずっと、
ブラックユーモアを扱うことが難しくなってるんじゃないかと思います。ブラックユーモア受難の時代。
でも本来、硬直してガチガチになった土壌ををやわらかくするのに役立つものなんですよね。毒も使いようで。



うーん………だんだんしょんぼりしてしまいました。
笑いやユーモアについて何か書こうとすると、大体ユーモラスじゃなくなるものなんですよね。

               

ついで。私は筒井さんの本を十代の頃に読み込んだおかげで、語彙がかなり豊富になったと思います。
多岐なジャンルに渡って該博な方で、そういった知識が小説やエッセイの中に好奇心をそそるように散りばめられていて、
難しい言葉から××な言葉まで、とても沢山筒井さんの本で憶えました。ゲゼルシャフトゲマインシャフト!
当時はそういうこと考えて読んでたわけじゃないんですけども、今思うとありがたいことですね。

電子書籍と紙の本

2016-01-09 21:33:22 | 雑記
年末に移動中の電車や実家で読もうとKindleでけっこう本を買い、また紙の本も買い、
あらためて電子書籍と紙の本の違いについて考えるところがあったので、ちょっとまとめてみました。
写真は大晦日、実家に帰る途中に寄った浅草の隅田川です。
あの船は松本零士さんデザインでかっこいいんですよね。日本の人も外国の人も沢山、船着き場で待っていました。

電子書籍のいい所

① 場所をとらない
この利点は強いです。紙の本はどうしてもかさばります。この利点はマンガではさらに大きくなります。
住宅事情がよほど良くないかぎり、スペースがなくってゆく恐怖感。。。

② (少し)安い
もう終わっちゃったんですけど、光文社古典新訳文庫が半額セールをやっていたので結構買いました。
半額だとこんなに購買意欲がそそられるのかと思います。
ちょっと冒険かな~みたいな本でもべしべし買えて、今まで知らなかった面白い作家も見つけられました。
でもまだ基本的には、紙の本に比べてあんまり安くないですよね、電子書籍。過渡期の出版事情とかもあるんでしょうけど。

③ その場ですぐ買える
おうちにいたまま「おっ!」と思えばすぐ買えてしまう。
Amazonもない昔は、本屋に注文して一週間から十日待ってまた本屋に取りに行ったりしてたのです。
しかしあの、Amazonのすぐ届く速さはすごく便利なんだけど、色々考えてしまい、プライム便は使えません。。

④ 重くない
電車の中や旅先にも本棚を持っていけるすばらしさ。電車の中でどれ読もうかな~と気軽に選べることのぜいたくさ・・!

紙の本のいい所

① 読破感が強い
これ意外に大事な気がします。達成感というか。今までで一番読破感が強かったのはプルーストの「失われた時を求めて」です。
それはもう読破感がすごかったです。なにせちくま文庫の分厚い文庫本で十巻分ありましたから。
最後の方で感動したんですが、いったい本の内容に感動したのか、
それともこんだけ長くてめんどくさい本を読み終えようとしている自分に感動したのか今となってはさだかでないです。
でもなんせ、「失われた時を求めて」は二十世紀文学の金字塔ですから、
いっぺん読んでみたかったのです。まさにチャレンジ精神です。
読み終えた時には十巻全部並べて眺めて悦に入りました。
そして、自分はやっぱりあんまりプルーストが好きじゃないことがはっきりしました。
ちなみにもう一つの金字塔、ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」は、
「失われた時を求めて」ほどは長くないけど中途挫折したままです。
到達するのが難しいからこそ金字塔なんだな。。。

② 一冊一冊に独立感がある
これは読破感とも関係あるんですけれども、芥川龍之介がKindleで安く出てるので買ったんですが、
全作品が入っていてすごくお得なのです。が、ずっとは読み続けられないんですね。。。いっぱい書いてますし。
だから「芋粥」や「蜘蛛の糸」から、晩年の「或る阿呆の一生」や「河童」まで読まないと読み終わらないんですけれど、
こうなると、ほとんど芥川龍之介の一生を追いかけるようです。
うわ、、、でもこうしてみると35才の生涯とは思えないぐらい濃密な作家人生送ってますね。。。しんどいよう。
それだけに、短い生涯のあいだに作風もずいぶん違ってきていますし、短編中編を集めた本でも、
ある程度時期とかによって区切られていた方が、その本の個性というんでしょうか、そういうので把握しやすい気がします。
まあ他の電子書籍は紙の本と同じように分かれているんですが、やっぱり「一冊の本」ていう感じは薄まる気がします。
インディペンデンス・ブック。

③ 装幀の楽しみ
独立感とも関係するかもですが、たとえ文庫本であれ表紙の絵やデザインがあって、
それで一冊のイメージを把握して、頭の中なり心の中なりにラベリングしてストックできます。
たとえば子どもって、最初は絵本から読み始めて、その後挿絵の多い本になり、
段々文字だけの本でも読めるようになるという流れがあると思うんですが、
だから「本=文字」ではないんですよね。限りなく近いけれど。
で、この文字以外の部分て、文字で書かれた内容を記憶したり、印象を強めることを助けてくれる気がします。
だから教科書には信長の肖像とかのってるんですよね。けして落書きするためじゃないのです。したけど。

④ パラパラめくりの意外な検索力の高さ
電子書籍はページをパラパラめくることができないのが大きな難点の一つです。
これはほんとに電子書籍で読み始めるまでわからなかったんですが、ええと、あれどこに書いてあったかな~と探したり、
アンソロジーのどれ読もうかな~とか思ってパラパラめくってざっと眺めたり、みたいなことが電子書籍ではできません。
しかし気づかなかったけど、章のタイトルや、ヘタすると短編のタイトルすらも、私憶えてなかったんですね。。。
そんな感じで、電子書籍はぼんやりなんとなく、のアクションがしにくいんです。なんでも明確になってないと。キビシイ。

・・・と、こうしてまとめてみた所、電子書籍のいい所の方がはっきり明確で言葉にしやすく、
逆に紙の本のいい所はあいまいで言葉にするのが難しかったです。
正直、紙の本の良さは思い入れみたいなもので、必要ないといえば必要ないものとも言えます。
でもそのあいまいで、なんとも言いようのないところが、まさに紙の本、手に触れることのできる物の力なのかも知れません。

今のところ私の結論としましては、読書を楽しむためには、本当はできれば紙の本が一番いいんだけれど、
もろもろの事情によりそういうわけにもいかないから、代替物として電子書籍で読むことも多いし、
それでとても助かっている、といった感じです。



ちなみに最近知った面白い作家がこの人です。プリーモ・レヴィ
内容紹介のところに「アウシュヴィッツ体験を核に問題作を書き続け、ついに自死に至った作家」とあって腰が引けたんですが、
わりとバカバカしくて笑えるユーモラスな短編が多かったです。
寄生虫の生と死や、宿主への愛について語るサナダムシの詩とか。
アウシュビッツにいたことがあるからって、必ずしも深刻で深遠な作品ばかり書かなきゃいけないってことはないですよね。