日本人の宇宙飛行士の人って、なぜお父さんが休日に家族をショッピングモールに連れて行くみたいに
宇宙ステーションだの操作するような人ばっかりなのか不思議です。なんかみんな雰囲気似てません?
写真はみなとみらい、帆船日本丸の近くのマリタイムミュージアムに展示されている船の模型。
今日はSF読書ノートです。ル・グインとJ・G・バラードもKindleで出してくれえ!
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」「都市と星」と続けて読みました。
「楽園の泉」は宇宙エレベーターを実現しようとする科学者兼技術者が主人公の話です。
宇宙エレベーターというのは、ずいぶん前にソ連の科学者が考えた、すごく高い所まで届くエレベーターのことです。
「都市と星」は、遠い未来の地球にぽつんと残った、文字通り閉じた都市の話。
(サイバネティクス理論を応用実現した都市だそうです。頭に思い浮かべただけで見たい景色が見られたり、
食べたいものが食べられたりする、なまけ者の夢のような都市です。いいなあ。)
どちらもこれぞクラーク!といった感じで面白いです。
・・・のですが、続けて読んでたら何か物足りなくさびしい……。え、なんで?なんで?
クラークの小説というと、二つ三つ専門分野の知識を持ったような学者だの技術者だの天才みたいな人たちが中心で、
そういう人たちは当然のようにずば抜けて知性的で理性的で冷静で、わずかな欠点といえば自分の名を後世に残したいという、
比較的罪のない、欠点とも言い切れない野心がちっとばかり強いぐらいです。
平均的な人たちも脇に顔を出しますが、それとてすごく理性的で、話せばわかるような人ばかり。
敵役すらけしてバカではないという。つまりクラークの小説には
自分に似てる人がぜんぜん出て来ない・・・!!!
そう、クラークの小説にはバカな人が出て来ないので感情移入がほとんどできないのです。
そうか、それでさびしかったのか……!
クラークはバカな人が書けなかったのか書くのがいやだったのか、ほんっと出て来ません。
でもだからこそ読みやすい、というか私がクラークを好きなのはまさにそういう所ではあるんですが、
クラークの考える未来には、私みたいな人間は淘汰されちゃってるのかと思うとやっぱさびしい。ぐっすん。
上記の「楽園の泉」「都市と星」、後に書きます「火星年代記」にも扱われていますが、地球の滅び方って重要ですよね。
今まで映画や小説、マンガとか合わせたら、いったい何回ぐらい滅んだんだろうというぐらい地球は滅んでるけれど、
どう滅ぶかの描き方は、すごく大事だと思います。
核戦争とか宇宙人が攻めて来るとか彗星がぶつかるとか。自転が止まりそうというのもあったっけ。あとマグマが冷えるとか。
ていうかむしろ今までよく滅んでないな………大量絶滅はあったけど、まだ人間全部いっぺんには滅んだことありませんよね。
映画にしやすいようなドラマティックな滅び方なら比較的短期間で済むけれど、
滅ぶぞ滅ぶぞとも思わないまま、じわじわだんだんと衰退してゆく滅び方もあるんじゃないかと思います。
で、なんかえらくヘンだけど妙にリアルかも、と思い出したのが、ヴォネガットの「ガラパゴスの箱船」。
南米の経済危機から始まって人類が退化してオットセイみたいな生き物になって海で繁殖する、という滅び方です。
何がどうしてこうなった???
・・・ええと、生き物としては繁栄してますが、人類としては滅亡といっていいかな、と。
さすがヴォネガットといおうか。でもこれで話の感じがつかめたあなたはすごい!
ブラッドベリの代表作「火星年代記」ってどんなだっけ?と思ってKindleで買って読んだんですが、
クラークとちょうど対極にあるのがブラッドベリかも、と思いました。
wikiによるとクラークは1917年、ブラッドベリは1920年生まれでほぼ同世代ですが、この二人はとても対称的です。
ブラッドベリはSFだけでなく、ファンタジーや怪奇小説的なものも多く書いてますが、科学には弱かったと言われていて、
たとえば火星に下りた宇宙飛行士たちが焚き火でハムエッグ作ったり、ハーモニカやアコーディオンを演奏し始めちゃったりする。
なんか宇宙というよりは、アメリカ入植開拓史のようで、作中でもそうなぞらえています。
そんなだから、やっぱりブラッドベリのSFは今読むとさすがに稚拙で古くさいなあ、、とか思いながら読み進んでいる内に
いや、それがどうした!
と思ってしまう。これがブラッドベリ!
あっさり淡々としたクラークに対して、ブラッドベリは詩情あふれる熱っぽいノスタルジーがたっぷりで、
苦手な人は苦手だろうし、好きな人でもずっとブラッドベリばかり読んでいたら胸やけしてくるような所があるけれど、
それでも「火星年代記」が名作だと言い切れるのは、たんに叙情的なだけではないからです。
ブラッドベリの小説に出て来るのは、クラークの小説には出て来ないような人たちがほとんどで、
私はブラッドベリ描く人々の中に、沢山のありえる自分を見ることができます。
感情的で、時には勇気ある選択をすることもあるけれど、考えなしに行動したり、わかっていながら愚かなことをしたりと、
クラークの人類ならクリアするだろう障壁を、ブラッドベリの人類は越えることができません。
ブラッドベリの描く火星がどんなに実際とかけ離れていようと、
クラークよりもブラッドベリの方がリアルに感じられるのはそこなんです。人。
多分ブラッドベリは、その世代でも保守的といえるような部分もあって、物事に対する常識や感覚が現代とは少し違うけれど、
大切に思うものが同じなら、細かな違いについては「それがどうした!」と思えます。幹がまっすぐならいいじゃない?
「それがどうした!」と思えるなら、五十年前、百年前、さらにもっと前の創作物にも感動できるんですよね。
「火星年代記」は、バラバラに書きつづっていた作品を後で一つにつなげたものだそうで、
オムニバスというんでしょうか、一つ一つを短編として読むこともできます。
まるでポーの復讐のような、残酷ながら胸のすく「第二のアッシャー邸」、火星に移住した神父が見た奇蹟「火の玉」、
フロンティア前夜の恋人たちを描く「荒野」、そして老夫婦が出会った火星人とは…?「火星の人」。
ブラッドベリの描いたまるで妖精のような火星人は、いったいどこから生まれて来たんだろう。。
ちなみに記事のタイトル「月は今でも明るいが」は、特に気に入った章のタイトルです。
文明がアクセルなら文化はブレーキだ。
ブラッドベリの庭は垣根が低くて子どもでも入りやすい、一度入ると大人でもしばらく留まってしまう、そんな庭です。
宇宙ステーションだの操作するような人ばっかりなのか不思議です。なんかみんな雰囲気似てません?
写真はみなとみらい、帆船日本丸の近くのマリタイムミュージアムに展示されている船の模型。
今日はSF読書ノートです。ル・グインとJ・G・バラードもKindleで出してくれえ!
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」「都市と星」と続けて読みました。
「楽園の泉」は宇宙エレベーターを実現しようとする科学者兼技術者が主人公の話です。
宇宙エレベーターというのは、ずいぶん前にソ連の科学者が考えた、すごく高い所まで届くエレベーターのことです。
「都市と星」は、遠い未来の地球にぽつんと残った、文字通り閉じた都市の話。
(サイバネティクス理論を応用実現した都市だそうです。頭に思い浮かべただけで見たい景色が見られたり、
食べたいものが食べられたりする、なまけ者の夢のような都市です。いいなあ。)
どちらもこれぞクラーク!といった感じで面白いです。
・・・のですが、続けて読んでたら何か物足りなくさびしい……。え、なんで?なんで?
クラークの小説というと、二つ三つ専門分野の知識を持ったような学者だの技術者だの天才みたいな人たちが中心で、
そういう人たちは当然のようにずば抜けて知性的で理性的で冷静で、わずかな欠点といえば自分の名を後世に残したいという、
比較的罪のない、欠点とも言い切れない野心がちっとばかり強いぐらいです。
平均的な人たちも脇に顔を出しますが、それとてすごく理性的で、話せばわかるような人ばかり。
敵役すらけしてバカではないという。つまりクラークの小説には
自分に似てる人がぜんぜん出て来ない・・・!!!
そう、クラークの小説にはバカな人が出て来ないので感情移入がほとんどできないのです。
そうか、それでさびしかったのか……!
クラークはバカな人が書けなかったのか書くのがいやだったのか、ほんっと出て来ません。
でもだからこそ読みやすい、というか私がクラークを好きなのはまさにそういう所ではあるんですが、
クラークの考える未来には、私みたいな人間は淘汰されちゃってるのかと思うとやっぱさびしい。ぐっすん。
上記の「楽園の泉」「都市と星」、後に書きます「火星年代記」にも扱われていますが、地球の滅び方って重要ですよね。
今まで映画や小説、マンガとか合わせたら、いったい何回ぐらい滅んだんだろうというぐらい地球は滅んでるけれど、
どう滅ぶかの描き方は、すごく大事だと思います。
核戦争とか宇宙人が攻めて来るとか彗星がぶつかるとか。自転が止まりそうというのもあったっけ。あとマグマが冷えるとか。
ていうかむしろ今までよく滅んでないな………大量絶滅はあったけど、まだ人間全部いっぺんには滅んだことありませんよね。
映画にしやすいようなドラマティックな滅び方なら比較的短期間で済むけれど、
滅ぶぞ滅ぶぞとも思わないまま、じわじわだんだんと衰退してゆく滅び方もあるんじゃないかと思います。
で、なんかえらくヘンだけど妙にリアルかも、と思い出したのが、ヴォネガットの「ガラパゴスの箱船」。
南米の経済危機から始まって人類が退化してオットセイみたいな生き物になって海で繁殖する、という滅び方です。
何がどうしてこうなった???
・・・ええと、生き物としては繁栄してますが、人類としては滅亡といっていいかな、と。
さすがヴォネガットといおうか。でもこれで話の感じがつかめたあなたはすごい!
ブラッドベリの代表作「火星年代記」ってどんなだっけ?と思ってKindleで買って読んだんですが、
クラークとちょうど対極にあるのがブラッドベリかも、と思いました。
wikiによるとクラークは1917年、ブラッドベリは1920年生まれでほぼ同世代ですが、この二人はとても対称的です。
ブラッドベリはSFだけでなく、ファンタジーや怪奇小説的なものも多く書いてますが、科学には弱かったと言われていて、
たとえば火星に下りた宇宙飛行士たちが焚き火でハムエッグ作ったり、ハーモニカやアコーディオンを演奏し始めちゃったりする。
なんか宇宙というよりは、アメリカ入植開拓史のようで、作中でもそうなぞらえています。
そんなだから、やっぱりブラッドベリのSFは今読むとさすがに稚拙で古くさいなあ、、とか思いながら読み進んでいる内に
いや、それがどうした!
と思ってしまう。これがブラッドベリ!
あっさり淡々としたクラークに対して、ブラッドベリは詩情あふれる熱っぽいノスタルジーがたっぷりで、
苦手な人は苦手だろうし、好きな人でもずっとブラッドベリばかり読んでいたら胸やけしてくるような所があるけれど、
それでも「火星年代記」が名作だと言い切れるのは、たんに叙情的なだけではないからです。
ブラッドベリの小説に出て来るのは、クラークの小説には出て来ないような人たちがほとんどで、
私はブラッドベリ描く人々の中に、沢山のありえる自分を見ることができます。
感情的で、時には勇気ある選択をすることもあるけれど、考えなしに行動したり、わかっていながら愚かなことをしたりと、
クラークの人類ならクリアするだろう障壁を、ブラッドベリの人類は越えることができません。
ブラッドベリの描く火星がどんなに実際とかけ離れていようと、
クラークよりもブラッドベリの方がリアルに感じられるのはそこなんです。人。
多分ブラッドベリは、その世代でも保守的といえるような部分もあって、物事に対する常識や感覚が現代とは少し違うけれど、
大切に思うものが同じなら、細かな違いについては「それがどうした!」と思えます。幹がまっすぐならいいじゃない?
「それがどうした!」と思えるなら、五十年前、百年前、さらにもっと前の創作物にも感動できるんですよね。
「火星年代記」は、バラバラに書きつづっていた作品を後で一つにつなげたものだそうで、
オムニバスというんでしょうか、一つ一つを短編として読むこともできます。
まるでポーの復讐のような、残酷ながら胸のすく「第二のアッシャー邸」、火星に移住した神父が見た奇蹟「火の玉」、
フロンティア前夜の恋人たちを描く「荒野」、そして老夫婦が出会った火星人とは…?「火星の人」。
ブラッドベリの描いたまるで妖精のような火星人は、いったいどこから生まれて来たんだろう。。
ちなみに記事のタイトル「月は今でも明るいが」は、特に気に入った章のタイトルです。
文明がアクセルなら文化はブレーキだ。
ブラッドベリの庭は垣根が低くて子どもでも入りやすい、一度入ると大人でもしばらく留まってしまう、そんな庭です。