水瓶

ファンタジーや日々のこと

笑う門には

2014-12-30 09:26:15 | 民俗のこと
横浜人形の家に展示してあった漆器です。
おとといの日曜日には家でのんびりと、BSでやってた「古地図巡り東京の旅」という再放送の番組を見ました。
オグちゃんのナレーションに三宅裕司さんて、なんかほっとしますよね。
私は三宅裕司さんの、にゃあとしてる顔が好きなのです。

今年最後の記事になるかな?どうも一つにまとまらない近頃よく考えてることなど、
横浜人形の家で撮った写真に合わせて、たらたら書いてみました。話とびとび。



〈平安時代の貴族のこと〉
宮本さんによれば、平安時代の貴族はケガレのない生活を送るハレの人々であり、
神様をお祀りするのがいわば仕事のようなものだったそうです。
土に触れることはケガレなので、高床式の家に住み、地面に直接触れることのないよう気をつけたり、
物忌みだとか方角だとかに、すごく気を使ったんだそうです。
貴族の乗り物である牛車は、地面に触れることなく移動できるけれど、
通りがちょっと狭ければすれ違うのも難しく、しかも行っちゃいけない方角だのあったから、
何かとめんどうだったようです。
(牛車は小さな部屋を牛にひかせてるようなもので、すごく重くて大きいんだそうです。
なにせ車輪の高さが大人の背よりも高かったりして、
日本の小柄な馬ではとても引けそうにないしろものなのです。平安貴族の生活には牛!
そうしてケガレのない生活をして神様を喜ばせ、災害が起こらないように祈り、
悪い病気が流行らないように祈り、豊穣を祈る。

「馬を調教するものが、神官の支配する農耕社会を支配した」。
初めに大陸から日本列島に渡って来た「馬を調教するもの」である騎馬民族が、
少なくとも平安時代には、こうして農耕社会の上に立つ神官になっていたんですよね。
しかも初めからそうだったんじゃないかと思うぐらい、不思議なほどなじんで。
「ギリシャは戦争でローマに負けて、文化で勝った」と聞いたことがあって、
これはギリシャを征服したローマが、ギリシャの文化に染まっていったということらしいんですが、
これもそれに近いことなのかな?

けれどその後、今度は身分の低い貴族、つまり身内から、
武士という新たな「馬を調教するもの」が出て来て、実質的に日本を支配するようになる。
歴史って、こういうことの繰り返しなんでしょうか。



〈聖書の一節〉
クリスマスの後に、教会の礼拝に行かれ方にリーフレット見せてもらったんですが、
そこにヨハネによる福音書の一節が書かれていました。

はじめに言(ことば)があった 言は神とともにあった 言は神であった
彼ははじめに神とともにあった 
すべてのものは彼によって成った 成ったもので彼なしに成ったものはなかった 
彼の中に命があった この命は人の光であった
光は暗闇の中に輝いている そして暗闇はそれに打ち勝たなかった

ああ、これが人間なんだ、と思いました。動物と人間とを分けるもの、人の光、言葉。
赤ちゃんがおぎゃあと生まれたのち言葉を覚えて、物心がついて段々と記憶ができていって。
過去が留められているのが物だとしたら、言葉も物だと言っていいような気がするし、
物心は記憶といってもいいのかなあと。
記憶って、言葉になってどっかにしまわれてるような気がするのです。
それとも、記憶のしまわれてる引き出しの取手かラベルみたいな役目をしてるのが言葉なのかなあ。

今年の初詣で引いたおみくじに「言葉は魂です。大事にしましょう」と書いてあって、
なんか一年間の宿題が、ようやくとけた気がします。



〈民具の美〉
へへへ、すごいでしょう。ミニチュアの生活道具たち。くしゃみしたら飛び散ってしまいそうです。
宮本さんが、庶民の家や日常の生活用品について、
実用にもとづいた美しさがあるといったようなことを書かれていて、
たとえばべんがら格子、あれは西の方では杉が少ないために、
家を建てるのにも松材が使われていたことが多かったそうなんですが、松は虫が喰いやすい。
その虫よけにべんがら(紅殻:酸化鉄)を塗ったものなんだそうです。
実用という制限の中でも、目に楽しくという気持ちから生まれたのが、民具の持つ美しさなんだと思います。
冒頭写真の漆器は庶民使いの物ではないけれど、もともとは漆も、
木を湿気から守って、長持ちさせるために塗られるようになったものでした。
竹細工の籠や陶器、木工品などにも、同じような、細やかな美しさがありますよね。

宮本さんの本読んでいて、う~む……なんかずいぶんと生活をおろそかにしてた気がする、、
よし、クリスマスに昔凝ってたパウンドケーキでも焼こう!と思い立ったら、
バターが売ってませんでした。年が明けたら出回るかしら・・・



〈こっけいさの効用〉
上流階級に出回っていたような美術品には、有無を言わさぬ立派な雰囲気がありますが、
庶民の民具にはこっけいだったりかわいかったり、思わずくすっと笑ってしまうようなものが多いです。
「おめでたい」って悪口でも使われたりしますが、そのめでたさにも通じるこっけいさ。
近代以前には、病や貧困、死が今よりももっと身に近しく、
民具に見られるこっけいさやかわいらしさには、そうした重苦しさを振り払い、
不幸を遠ざけたいと願う気持ちが込められてるようにも思えます。笑う門には福来る。

・・・てなことを、浅草をぶらぶら歩いてる三宅裕司さんを見ながら考えてました。
三宅さんのつくる笑いにも、似たような軽さがある気がしませんか?
もしも昔に生きていたら、私も怪奇小説なんか読まなかったんだろうな。。。
だから今、こうして怪奇小説を楽しめるのって、結構恵まれてるんじゃないかと思います。
クトゥルフ・フタグン!クトゥルフ・フタグン!

             

どうぞよいお年をお迎え下さい。来年がいい年になりますように。

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