水瓶

ファンタジーや日々のこと

「エゾの歴史 北の人びとと『日本』」海保嶺夫

2016-02-20 11:25:01 | 民俗のこと
最初はなかなか手こずっていたのですが、読み進む内にがぜん面白くなってきた「エゾの歴史」。
一章目が、戦前戦後のえらい人たち(金田一耕助京介とか喜田貞吉とか津田左右吉とか)のエミシ論エゾ論を
比較考察するみたいな章なので、とても難しいのです。ど~もこの手の文章は苦手。。
でもなんとか読み終えたので、おおまかに理解したすじを文章にしようとしたら、
ものすごく長くなりそうなので途中でやめました。
なので、印象に残った部分だけでも覚え書きがてらブログに書いとこうかなと。
とはいえデリケートな問題も含んでいてうかつなことも書けないので、ご興味のある方は本の方を読んでみて下さい。
肝心の本が古本以外品切れ中なのが残念ですが、読みごたえたっぷりです。
著者は北海道開拓記念館の学芸員だった方だそうです。

大ざっぱにいうと、エミシと呼ばれたのは、東北から北海道にかけて住む、中央政府に従わない人々のことのようです。
エゾと呼ばれたのは、北海道の南、松前半島の辺りに住み、和人の言葉を解する「渡党」、
北海道の太平洋側に住むアイヌ民族の「日の本」、日本海側・オホーツク海側に住む同じくアイヌ民族の「唐子」、
これら三類の人々のようです。日の本と唐子は和人の言葉を解さなかったそうです。
渡党とは、もともとは本州から渡って来た人々のようで、奥州藤原が頼朝に滅亡させられた時に、
北に逃げて来た残党という説もあるそうです。北海道は鎌倉時代の流刑地でもあった。
だから、アイヌの人々だけがエゾというわけでもないんですね。
また、北海道の島だけでなく、津軽も北海道と同じ文化圏にあったと著者の方は考えているようです。
ちなみにアイヌ文化が成立したとされるのは十三世紀。思ってたより遅かった。
なにせアイヌのことは、アイヌ神話や「銀のしずくふるふるまわりに」でしか知らなかったので、
まるでおとぎ話のようなイメージしかなかったのです。

エミシの方が古くから文献に出て来るそうで、七世紀から十一世紀ぐらい、
一方のエゾは、エミシと入れ替わるように十二世紀ぐらいから和歌にも詠まれるようになる。
十二世紀というのは奥州藤原が隆盛だった頃で、平泉の商人などからエゾの話を伝え聞いた平安貴族や都の人々は、
異国情緒のようなものを感じていたようです。

陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ かき尽くしてよつぼの石ぶみ (頼朝)

いたけもるあま見る時に成にけり えそか千島をけふりこめたり (西行上人)


頼朝と西行の和歌です。この二人は蝦夷地までは渡っていないけれど、陸奥までは行っていたそうです。
意味はわかりませんが、なんとなく遠い目をしている頼朝や西行法師の顔が浮かぶようではありませんか。



意外だったのは、いわゆる二度の元寇(文永の役・弘安の役)以前から、なんと四十年もの長きに渡って、
元とアイヌの人々はサハリンで交戦していたらしいです。
元側の文献しか残っていないので、元が優勢だったように書かれているけれど、
どうもあの恐ろしい元を相手に互角か優勢に戦っていたらしく、わりと条件のいい講和をしているそうです。
ふだんからヒグマを相手にしてたりしたから強かったんでしょうかね・・?

中世アイヌの人々はかなり自由に海を行き来していたようで、時にはユーラシア大陸の黒龍江から川をさかのぼり、
ニンクタや三姓というかなり内陸の方まで、交易をしに行っていたようです。

アイヌの人たちが黒貂の毛皮などのかわりに大陸から入手した絹の反物は蝦夷錦と呼ばれ、
本州との重要な交易品になったそうです。
錦がつく地名ってわりに多いとは思うんですが、「錦」のwikiを見ると、ズバリ「錦」という地名が北海道に多いようで、
もしかしたら蝦夷錦と関係あるのかも。

そして、この正保国絵図。青森県まではかなりいい線いってるのに、北海道だけえらくてきとうですよね。
ねぼけ頭の日本列島。。 でもこの地図が作られた頃には、エゾの地は島だということがわかっていたけれど、
秀吉や家康の頃にはまだ、大陸と地続きだと考えられていたらしいです。
これ、なんで松前藩がこんないいかげんな地形図を出したのか考えたんですけれど、
他の藩は耕作地から課税額を算出するために、猫の額のような土地までも検地していたけれど、
エゾ地では農耕がされなかったために、あんまり熱心に土地を調べていなかったんじゃないかなあと。
松前藩の財政の柱になっていたのは農耕ではなく、交易だったんですね。しかも国外との。
そんなわけで松前藩は、鎖国の方針をとる江戸幕府のもとでは異質な藩だったとありました。
他に国外との交易を許されていたのは、琉球王国との窓口として薩摩藩、朝鮮王国との間にたつ対馬藩、
そして幕府が直轄していた長崎奉行所で、これらと松前藩を合わせて四口というそうですが、
それぞれに事情はかなり違っていて、一口に同じとは言えないようです。

でも同じ地図に、リアルな地形を描く津軽と、いまだぼんやりした島のイメージにすぎない蝦夷地が隣り合っているのを見ると、
未知だったものが姿をはっきりさせてゆく過程のように思えて、すごく面白いなあと思うんです。
夢が現実に近づいてゆくようで。霧の中からだんだんとあらわれる。



まだよく理解してない部分も多く、今二度目を読んでる最中です。
アイヌ文化の前身である、独自の農耕と土器を持っていた擦文文化のこと、
鎌倉幕府から蝦夷管領に任ぜられた俘囚の長(ふしゅう・武士の語源とも言われる)・安藤氏のこと、
アイヌとの交易を独占するお墨付きを江戸幕府から得て、北の門番となった「商人の藩」・松前藩のこと、
内訌から松前藩への叛乱へと発展したシャクシャインの戦い、
天保の飢饉によって津軽からエゾの地へ人々が流入したことや、幕末に起きる変化などについて、詳しく書かれています。
「北海道」という地名になったのは明治二年からだそうです。近代の始まり。
ここにいたって、古代・中世・近世に渡って続いてきた「エゾの歴史」は、終わるわけですね。

・・・充分長い記事になってしまいましたが、最後に珍しい和歌を一つご紹介いたしましょう。

我恋は海驢のねながれさめやらぬ 夢なりながら絶えやはてなん (衣笠内大臣家長)

「海驢のねながれ(トドのねながれ)」とは、
「トドが腹を上にし、目を細くして流れに逆らわずに、のんびりと寝ているようす」だそうです。
「トドのねながれ」、い~い響きだなあ。ぷかーー


※上の二枚は森のなかまが横浜人形の家で以前に撮った、北海道の人形の写真から借りました。
トップの写真、ちょっと精霊っぽくありませんか?

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