水瓶

ファンタジーや日々のこと

川崎市立日本民家園・信越の村

2016-05-04 20:57:25 | 川崎市立日本民家園
こう言ったら他地方の民家になんだけれど、古民家の横綱とでも言いたくなるのが合掌造りの家。

民家園を歩いていて、この茅葺き屋根のてっぺんが木々の上に見えて来た時、
縄文ぽい……!!と思ってちょっとぎょっとしました。
といって、私のこの「縄文」というイメージがどっから来たのかはなはだあやふやで、よく考えれば弥生でもいいんですけど。
あと、なんか恐竜っぽくもありますよね。こうして木々の中に佇む姿は、まるで古代の巨大な生き物のよう。
生きてる、生きてる………。

川崎市立日本民家園、信越エリアの記事です。
しかしこれだけの家を移築するのは、さぞ大変だったでしょうね。


長野市大字上ヶ屋蟹沢にあった水車小屋。戸隠や善光寺辺りのようです。
古い解説を使っている本を参考にしているので、今は違う地名かも知れません。

水車には二種類あって、一つは揚水水車といって、水流を利用して低い所から高い所へ水を揚げるもの。
もう一つは動力水車で、水流を動力源として米つき・粉引き・わら打ちなどに使われるもの。この水車は動力水車のようです。


車輪の方が小屋よりも早くいたむため、車輪だけ交換できる構造になっているそうです。移築の時に車輪だけ取り替えたとのこと。
直径3.6メートルの大きな車輪が回っている様子は、なかなかの迫力です。そっか、車のタイヤにはない大きさですね。


建てられたのは江戸時代末期ぐらいだそうです。歯車がぶれているように、今もちゃんと動いています。
ぜんまい時計と同じ仕組みなんだなあ。でもこういうのって、なんとかゴコロをくすぐりますよね。
こういうメカニックが見えるスイスの時計って、めっちゃくちゃ高いじゃありませんか。


長野県南佐久郡八千穂村上畑にあった佐々木家。千曲川流域の、今の小海線沿線にあった村だそうです。
この日は草バッタをつくるイベントをやっていたので、縁側近くに人がいっぱいいました。
佐々木家は、南側が茅葺き屋根からひさしの突き出た、広い濡れ縁になっているのが特徴なんだそうです。
ひなたぼっこしたらほんとに気持ちよさそう。。。


民家園の民家を回っていたら、ほとんどどの家でも囲炉裏で火を焚いていました。
これはGWの囲炉裏サービス!、、、ではなく、茅葺き屋根の虫を煙でいぶして追い出すためで、
ふだんから二三日ごとに、囲炉裏で火を焚いているんだそうです。森のなかまと私もすっかりいぶされました。けほけほ。


中二階は物置などに使われていたようです。今でいうロフトみたいなものかしら。。。


茶の間の仏壇。黒ずんだ木には、なんともいえない風格がありますね。
五箇山は浄土真宗が盛んな地域だったそうで、仏壇が大変立派なんだそうです。


奥に二間続きの座敷があり、当時の農家としてはかなり高級な造りになっているそうなんですが、名主をつとめていた佐々木家では、
代官所の見廻り役人を接待したり、宿泊させたりするために、こうした部屋が必要とされたようです。


佐々木家の井戸。ちゃんと屋根もつくられていた立派なもの。

佐々木家はこの家を新築して間もなく移築されているんですが、それは1742年に千曲川の大洪水が上畑村を襲ったため、
佐々木家は被害をまぬがれたものの、の他の家と一緒に山裾の場所に移動することになったからなんだそうです。
流失家屋140軒、死者248人という大変な被害だったそう。なんで日本てこんなに自然災害が多いんだろう。。。


富山県南砺市(なんとし)上平細島にあった江向家。五箇山地方に属している上平村の上流には有名な白川郷があり、
五箇山も白川郷も庄川の深い渓谷とけわしい山並にはさまれた、わずかな平地にひらけた村々だったそうです。
大変交通の困難な地域だったそうですが、庄川の谷は北陸と濃美地方を結ぶ重要な交通路で、
上平村の人々は、加賀との国境のけわしい山を越え、金沢の町へ出かけることもあったそうです。

この家の形は妻入といって、入口が屋根の妻のある側にあります。この写真だと右側手前の面にあるのが入口。
たぶんこの屋根の二面が合わさってる部分を妻というんじゃないかと思います。「人」みたいになってる側ですね。
逆の「平」(屋根がまっすぐになっている側)に入口がある形を平入というそうです。
「人」の下に入口があるのが妻入、「一」の下に口があるのが平入。よし、やっとおぼえた!


平地が少ないこともあって水田や畑は少なく、そばやひえを作る焼畑が主で、
ほかにはミツマタから作る和紙の生産や、養蚕がさかんに行われていたそうです。
この日はボランティアの方が機を織っていました。


江向家のいろり。いい感じに撮れてうれしい一枚です。
えー、たしか煮るのがいろり、蒸すのがかまど。煮るが東で蒸すは西って宮本さんの本にあったかな。。


いろりの間に続く土間にあるうまや。こちらのうまやの隅は小ができるトイレになっていたそうです。

以下、ちとびろうな話になりますが、古い民家を見ていて大変気になるのがトイレでありまして、
母屋と独立して外にあったりするんですよね。。。
でもですよ、たとえば冬の夜にもよおした時、はるばる寒い外へ出て、用を足したものか、疑問だったのです。
まして豪雪地帯の家では凍死のおそれすらあるのではと。だって灯りもろくになかったでしょうし、お尻は冷えるし。。
というわけで、このおんまさんがいるうまやの隅で小用は足せたことはわかりましたが

じゃあ大はいったい???

・・・と声を大にしていうのもなんですが。
うーむ、私なら、わらを編んでちょっとした入れ物をつくっておくか、包んで入れられるようにしておいて、
夜中大をもよおしたらそれにして、くるんでうまやの隅にでも置いておいて、翌朝畑に肥料として入れる、かなあ。
馬には、まあ、がまんしてもらうことにして。匂いにはそんなにうるさくなさそうだし。
しかし馬フンて人間より臭くない気がするんですよね。独特のつやつやした匂いです。草食のせいかしら。


こちらは富山県南砺市桂にあった山田家。桂という集落は、五箇山の人々もほとんど訪れることがなかったという秘境で、
かつては「桂千軒」とも言われたそうなんですが、昭和43年の解体時には五軒の家しかなく、今はダムの底に沈んでいるそうです。


山田家は「蓮如上人の泊まった家で、千年以上たっている」と言われるそうなんですが、この家が建ったのは18世紀初期ごろらしく、
室町時代の蓮如上人が泊まったことはありえないとしても、室町時代の名号の輻が残されていたり、
この地域から蓮如の弟子の道宗という人も出ているので、
前身の家には、本当に蓮如上人が泊まったことがあるかも知れないと解説本にはありました。


合掌作りの家は雪の重みに耐えられるように、柱や梁が太いのが特徴だそうです。
この礎石の上に据えられた柱が、ちょっとしたビルほどの高さもある家の重量を支えてるんですね。すごいなあ。。。


富山県東砺波郡(ひがしとなみぐん)利賀村にあった野原家。平の方から撮った写真です。
白川郷の家は大家族で有名で、二十人以上住むこともあったそうですが、この辺りは6、7人ぐらいの家が多かったそう。
広い屋根裏や二階は養蚕のためだったようです。
合掌造りの家で妻側に窓が多くもうけられているのも、蚕のための通風窓としてなんだそうです。


ガイドさんによれば、今茅葺き屋根にしようとすると、一面一千万円ぐらいかかるんですと。ひょええ!
家なら一軒たっちゃうほどの金額ですが、自治体によっては九割ぐらい負担してくれるんだそうです。
だとしても、昔は四、五十年持った茅葺きも、今では酸性雨の影響などで三十年持たず、
そのつど葺き替えのために百万から二百万は自前負担でかかるわけですから、いや大変だよ………。
それにやっぱり現代の家の方が、現代の暮らしに合って快適な造りになっていますし、
時代に合わないものを維持保存するのは、何かと不便で高くつくものなんですね。
特に日本の家は、器そのものだけでなく、建てたり修繕する技術を持った人をも絶えないようにしなきゃいけないわけだから。

でもこういうのって、いい時は別にいらないんだけど、ちょっとしたピンチの時に、
気持ちを支えてくれる潜在力を秘めていると思うんですよね。文化遺産といいますのは。
それに、爆買いとディズニーランドだけでは、一過性の移り気な観光客しかつかめませんぞ。
円高でもリピートして来てくれるのは、こーゆーのが好きで入母屋造りについて質問しちゃうような物好きな外人なのです。
今のご時世ムダの無用のと、こういうのの公的な支援や補助金がどんどんけずられちゃうからもっとPRしなければ。

こういうのはケチったらあかん!あとで後悔するからな!

・・・あとで後悔とは馬から落ちて落馬するに似たり?


野原家のいろり。民家園の家を見て思うのは、とにかく中が暗いこと。ここにのせた写真はどれもかなり明度を上げています。
でもこの闇の深さ、幅広さ。まるでレンブラントの絵のようではありませんか。
この豊かな闇の中に、沢山の妖怪のたぐいがはびこったのもうなずけます。トイレに行けない長い夜。。

近現代のインテリアは、それまでとは比較にならないほど明るい電灯を室内に灯すようになって、
その光に耐えられるデザインを目指して来たのかなと思いました。けっこう、色々違ってくるんじゃないかと思うんですよね。
明るいと、ムラのない平面のようなフラットさが美しく感じられるんじゃないかなあと。薄暗闇での美しさとは違って。


中央横の柱は、左側に向かって下がるよう曲がった木を使っていますが、完全に水平な材をこのような部分に用いると、
中央が少し垂れて見えてしまうそうで、それを防ぐためだったらしいです。よく考えられているんですね。
ちなみに写真左側は外に面していて、右は家の内部に向かっています。


野原家の土間に吊ってあったこれ、何だかわかりますか・・・?
これだけ大きく湾曲させているのは、藤の枝でも使ったのかなあ。


暗い上に古い絵なのでちょっとわかりにくいかも知れませんが、下に川が流れる谷間に綱が渡してあって、
この籠に人や荷物を乗せて渡していたようなんです………。
以前、横浜人形の家で、これをかたどったらしい人形を見つけたんですが、それがこの籠渡し人形↓


正平ちゃんでなくとも、これに乗せられて深い渓谷を渡るのはちょっと遠慮したいですね。。。


岐阜県大野郡白川村長瀬にあった山下家。かの白川郷の家ですね。今はおいしいおそば屋さんが入ってます。

この民家園には合掌造りの家が四軒ありますが、どれも少しずつ違うんだそうです。
合掌造りには四系統あり、その内の三系統の民家がここで見られます。
この信越エリアでは、佐々木家をのぞく、江向家、山田家、野原家、山下家の四軒が合掌造りの家です。
佐々木家のあった南佐久郡は、冬はもちろん寒いけれど、五箇山や白川郷のような豪雪地帯ではなかったそうです。


今も残されている合掌造りの家は18世紀以降に建築されたものだそうで、それはなぜかというと、それぐらい近世にならないと、
今日まで残るこれだけの建物を、一般には作れなかったからのようです。
また、この地域の家にはどの家にも仏壇・仏間があり、このスペースを中心に家の造りが変化していったそうなんですが、
これは五箇山・白川ともに、善俊・蓮如両上人による布教があったため、真宗の信心が深かったからのようです。
それで前述の山田家のように、蓮如上人が泊まったと言い伝えられていたりするんですね。


山下家の二階では企画展示をやっていました。これは赤ちゃんを寝かせておくゆりかごのようなものと、それ用の蚊帳。
かなり快適そう。これならすやすや眠れますね。


道具の展示。右は背負子。左下にある丸い形のリュックのようなものは、背負子の下にひいてクッションにしていたもののようです。
山地では「ボッカ」という荷物運びの人がいて、牛も行けない山々を越えていったそうです。
当時のボッカの女の人が担いでた荷も、現代の体力がある男性でも担ぐの難しいんじゃないかなあ。
引っ越し業者とかエアコン取り付け業者の人ならいけるかも。重いもの担ぐのって、力だけじゃなくコツがいるんですよね。


合掌造りの家は、屋根裏・二階とも広いですが、居住スペースではなかったようで、
主に養蚕や貯蔵庫、物置に使われていたそうです。
大家族の多勢は、一階の居間にあたる「おおえ」や「だいどころ」で雑魚寝をしていたらしいです。
生きるに厳しい山間部では分家することもかなわず、長男以外は結婚もできなかったのが珍しくなかったそうです。
日本て山地は広いけれど、人が住むに適する土地は本当に少ない、狭い国なんだなあとつくづく思います。

宮本常一さんの「山に生きる人々」
によれば、平地に田畑を持っていてこそ山を恵みとして、
牛馬のための草や燃料の薪、建築のための木材など、さまざまな恩恵を受けられますが、
山のみで生きるとなるとその暮らしは大変厳しく、特殊技能といえるほどのものが必要とされ、
そうした技術や力を持っていた人々でも、開墾できる土地あらば山から下りて定住したがるものだったそうです。
今では景観の美しさが喜ばれる棚田や段々畑もそうした苦心の現れ。昔はほんとに大変だったんだなあ。。。

・・・気軽に気楽に書くつもりがえらく熱が入ってしまいました。合掌造りは横綱級だからね、ついつい……


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