水瓶

ファンタジーや日々のこと

「戦国大名」「天下一統」

2016-06-29 20:19:07 | 雑記
中公文庫の日本の歴史「下克上の時代」から「戦国大名」、今「天下一統」の途中で、面白いんだけれど、時々げんなり。
戦国時代ゆえ戦戦はあたりまえとしても、そうした乱世に生きてる武将たちさえちょっと腰がひけるように見える信長。
本ではこれからさらに拍車のかかった信長が、比叡山を焼き討ちしたり高野聖一千人余殺戮するようです。うげえ。
こんな人、敵にいても味方にいても上にいても下にいてもいやだなあ。。
でも、信長が初めて上洛(京都にゆく)した時には、すでに京の町では天下を取る人との評判が立っていたそうで、
昔でもそういう情報は早かったのは、商人がかなり敏感に反応していたからのようです。

でも近江、今の滋賀県琵琶湖畔は行ってみたいなあ。こないだテレビでちょっと見たんですが、近江八幡てすごくよさそう。
信長の夢、今はなき安土城、安土の城下町は近江八幡の近くだったんですね。恥ずかしながら知らなんだ。。
あと比叡山もあるし、昔の大工さんとかが定期的に道具を調達しに来たりしたのも近江だったそうだし、
時代は後になるけど、ひこにゃん彦根城もにゃんと琵琶湖畔ではないですか。みどころ多いじゃん!
京都への水運商ルートであった琵琶湖周辺はすごく重要な地域で、独立気風の高い菅浦という惣村などもあり、
さすがの信長も平定するのに手こずったようです。法華衆、一向一揆、僧兵などなど、とにかく全体的に荒々しい。

しかしこの、日本中上から下まであふれんばかりだった荒々しい気風が、江戸時代にはほとんど見られなくなるのは、
そういう時代を目の当たりにした家康その後の将軍たちが、そういった気風が育つ土壌を徹底的につぶしていったからなんでしょうか。
滅私奉公的な武士道も、裏切り寝返り当たり前の戦国時代があったからこそ、後世江戸時代になってできたもののようです。うーむ。



「戦国大名」では、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、朝倉義景などなど、私レベルだとぼんやり名前だけ知っていたような武将たちについて書かれていて、面白かったです。
「三本の矢」の、ちょっといい話の武将ぐらいにと思ってた毛利元就が、そんな陰険な人だとは思わなかったけども。
でも、親子兄弟の間での殺し合いも珍しくなかったからこそのたとえだと思うと、戦国の世のなんとすさまじきことよ。
今いう兄弟仲良く、みたいな感じじゃなくて、ほんとにあれなんだもんなあ。。
ていうか、何かというと契約がわりに嫡子だのを人質にとるってどういう野蛮だ。

あと、北条早雲が名前のかっこよさを意識していたのは間違いないと確信しました。
戦国武将にとって、名前のひびき、鎧装束、花押などのかっこよさはすごく大事なんだと思います。イメージ戦略というやつじゃ。
ていうか戦国武将は名前をコロコロ変えるな!やたら名前に義ってつけるな!覚えられない上にも覚えられないじゃないかあ!
でも信長の、うつけ時代のちょんまげが「茶筅」と言われ、生まれた子の名前にも茶筅てつけるのは、どんだけ茶筅が好きなんだと。
マンガとかに書かれる信長のちょんまげだけなんかヘンなのは、そういう記録がちゃんとあったからなんですね。
なんかお茶にすごく興味あったみたいで、秀吉もそうですし、今の茶道ともまたちょっと違って、
すごく人を魅きつける最先端の何かが当時のお茶にはあったんでしょうか。



この中公文庫の日本の歴史が出版されたのは1960年代、巻によって書いてる人は違うんですが、
著者紹介を見ると大体1910年代あたりの生まれで、みんな文章がすごくしっかりしてて、
読んでて感じる安定感安心感がただごとじゃないんですが、私はそんなに数読んでるわけでなないけれど、
なんかそれぐらいの世代の学者さんとかって、やけに名文家多くありませんか。
宮崎市定、益田勝実、梅原猛、などなど、なんか格が高いっていうとあれだけど格高い。
でももし私が出版社のえらい人で、歴史の本書いてもらうとしたら、他のどの分野の本よりもやっぱり安定感を重視するだろうなあ。
しかしその文章の安定感てのは、いったいどっから来るんだろう。

以下、信長に会ったキリスト教の宣教師ルイス・フロイスが、ローマに当てた親書に書いた信長の様子です。「天下一統」から。

「この尾張の王は、年齢三十七歳なるべく、長身痩躯、髭少なし、声ははなはだ高く、ひじょうに武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉をおもんず、決断を秘し、戦術に巧みにしてほとんど規律に服せず、部下の進言にしたがうこと稀なり。かれは諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、みずから奉ずることきわめて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するがごとく肩の上よりこれに語る。諸人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。よき理解力と明晰なる判断力とを有し、神仏その他偶像を軽視し、異教いっさいの卜(うらない)を信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折を悪めり。」

まるで星座に星を打つように的確に描かれる信長の輪郭。ううやだやだ、おっかねえ。。。
このルイス・フロイスという宣教師、ただ者じゃないのです。きっとくぐってる修羅場がちがうんだぜえ。


長い夕方(後編)

2016-06-20 08:24:12 | 横浜の町
雲もギラギラと照り返し。

土曜日の街歩きの続きです。そんなに距離は歩いていないんだけど、暑い日の舗装道路は堪えました。。
でも体を少しでも暑さに慣らしとかなきゃ。今年はラニーニャで特にあっついらしいですね………ニャアー


元町公園には遊具のある場所もあるんだけど、子どもの姿は見えなくてちょっとさびしい。。
でも今こういう公園多いんですよね。
元町公園は休日昼間でも人気なく、木も深くしげってたりするので、心配な面もあるのかも知れません。


人気はないが猫気はあります。悠々ベンチ占領できるんだニャ〜。


美しいらせん階段。




橋の上から眺める街並。


山手トンネル。元町と石川町の間を通る大きなバス通りは、それぞれ一方通行のトンネル二本に分岐します。
トンネルの中と外は、オレンジ色の照明でくっきり分かれています。マグマみたい。


撮影してるのは櫻道橋という橋。遠近感がおかしくなったのかと思うような大きい犬を連れた人が向こうを横切ります。わん!




高架上を通るのは根岸線。


そうか、この道を通るバスは本牧行きが多いんだな。
本牧の方もほとんど行ったことがないんですが、いずれチャレンジしてみよう。



今すごく楽しみにしてるテレビが、こころ旅の他に、世界ふれあい街歩きと新日本風土記。
どれもどこかの土地のことを、色々な形でゆっくりじっくり紹介してるような番組ですね。
放映する曜日が楽しみなぐらいの番組があるのは、子どもの頃以来かも知れない。。
世界ふれあい街歩きはナレーションもよくて、特につぶやきシローのぼそぼそしたしゃべりがすごく気に入ってるんですけれど、
寝入りばなとかに聞くとよく眠れそう。
あの独特の、抑揚のない栃木イントネーションがなつかしいのかなあ。


山手トンネルは代官坂トンネルよりも長く暗いです。車通りも多い。




バスがしゅん!




山手トンネルに来たならと、ついでにちょっと見てみたいものがありまして、それがこのきつねくん。
石垣のきつねくんにはこんな由来があるんだそうです。お茶目なお寿司屋さんもいたもんですね。
ワニの木は場所をよく覚えてなくて見はぐってしまったので、今度また確かめにこよう。

そういえば回転じゃない、おいしいお寿司屋さんを探してるんだけれど、なんか怖くて入れないんですよね。。。
回転じゃないお寿司屋さんなんてもうずっと行ってないから、値段がよくわからない。。
最初は器のとか頼んで様子見ればいいのかな?松竹梅とか値段書いてありますよね。
しかし回転じゃないお寿司屋さんて、すっかり敷居が高くなってしまった。。。寿司屋は遠くなりにけり。


石川町駅の方へ回ります。高速の下は中村川。中村川は昔、石川と言ったそうです。
石川という地名はあちこちにあるそうで、かつては「石(あるいは砂地)のある川」だったことがいわれらしいです。
上を高速が走る今の川の姿から、岸に石や砂があった川の姿を思い浮かべるのはなかなか難しそう。。


ようやく暗くなってきたぞ。おなかもすいてきたぞ。というわけで


前に元町の喫茶店・伽香里のお店の方に教えていただいたえびすやさんへ。ビールだ!梅酒だ!


い〜い感じに油が落ちてるでしょう〜〜。たり。


今日はいくら釜飯。前回は五目釜飯で味付きでしたが、いくら釜飯はこんぶだしのみなんだそうです。
まっしろつやつやなごはんがやけにおいしくて………あーーーやっぱ米ですね。年々歳々米になっていきますね。


前にも書きましたが、えびすやさんは質屋さんの蔵だったものを改築した建物なんです。
石造りで窓には格子、壁には「質」の文字。そうその通り、クオリティに間違いはないのです。


食べ終わって外に出ればまっくらくらのすけ。


喫茶店・伽香里はもう閉まっていました。店の前に大きな鉢植えがあって


・・・あっ、このポワポワのケムンパス、、花が咲いてる!!そして固く閉じられた葉っぱ。ネムノキですね。
森のなかまと花の写真を撮ったり葉っぱをさわってりしていると、通りかかったお買い物帰りらしきお母さんと男の子も興味を持ったようで、みんなでネムノキを囲んでひとしきり話し込みました。
よくここを通りかかるお母さんいわく、この木は朝も昼も寝てるそうです。そんなでよく花つけたな。。。
すごく頭の回転の早い、面白いお母さんで、スマホでネムノキを検索して文章を読み上げてくれました。
人なつこい男の子は山手トンネルの先にある元街小学校に通ってるそうで(なぜか小学校は元町でなく元街)、
創立140年とかの由緒正しい学校で、古木名木でも有名らしいんですが、少年いわく

「蚊が多い。

通ってる子ならではの実感のこもった発言であります。かいかい。
でもこういうこともあるから街歩きは面白いのだ。すごく楽しそうな、仲良しの親子だったなあ。。


元町・中華街駅へ向かう途中の厳島神社。なんかにぎやかで、もしかして縁日かなにか?と思ったら、
別にそんなことはなくて、近所の人たちがぶらぶら涼んでいるようでした。
商店街すぐ近くの神社ってこんな感じなのかな。なんか楽しそうでいいなあ。

夏のいい所って、夜遅くまで人が外に出ててにぎやかだったりすることでしょうか。
一日が長くて、なんか得した気分になりますよね。

長い夕方(前編)

2016-06-19 11:42:24 | 横浜の町
こんな暑い日には、日陰で寝てるのが一番ニャア。。。

九州は大雨で大変なようなのに、ひょっとして関東は空梅雨になってしまうんでしょうか。
こんなに暑い中街歩きをしたら、夕ご飯まで体力が持たないので、家を出たのは3時すぎ。
昨日は猫とのエンカウント率がやたら高かったです。みんな涼しい所でのびてましたが。。


元町公園の近く。

今まで気がつかなかったけれど、元町公園の片隅に石碑があって、
ここにはかつて大正活映という映画の撮影所があったと説明がありました。
世界大恐慌のあおりを受けて、設立わずか二年で松竹に吸収されてしまったけれど、
若き日の谷崎潤一郎が文芸部顧問として所属していたそうです。へええ。。


今日はどの辺のルートを歩くか、森のなかまと相談して、代官坂の方へ。


代官坂のお屋敷の門。説明板によれば、もとは箕輪坂という名前だったのが、
横浜村の名主さんのお屋敷があったので、代官坂と呼ばれるようになったそうです。

幕末開港直後の当主であった石川徳右衛門さんは、日米和親条約締結のための応接場の設営、食糧、その他の設備一切を掌り、
なんとペリーも視察に訪れたそうです。その後徳右衛門さんは横浜町惣年寄となって、町政を担当したそうです。
石川町の石川もこの名主さんから?惣年寄というと、今の町長さんみたいなものでしょうか。
歴史の転換期に大変重要な役を果たした、実務家の方だったんですね。


ましろな塗り壁に黒板塀が目に涼しいですね。


代官坂を上っては


ふり返り。


ムーミンに出て来るニョロニョロを思わせる、空き地に直立する背の高い雑草群。
調べたら、オオアレチノギクかヒメムカシヨモギというようです。どっちも帰化植物。妖怪っぽいなあ。。


代官坂トンネルが見えて来ました。


ダンスホール「クリフサイド」。




今日はトンネルを抜けて左の方へ向かいます。


上へのぼる急な階段は山手公園へ続く「こうえんざか」。


「日本庭球発祥之地」の石碑。横浜はあっちこっちに色んな発祥の碑が建ってます。
開国後の輸入ものは、まずこの辺からだったんですもんね。
公園内にはテニスコートが何面もあって、今もにぎわっています。


ヒマラヤスギ。かなりの巨木が何本もあるんです。


庭球発祥記念館。この日はもう閉まってたけれど、中には昔のテニスの写真や、古いラケットなどが飾ってありました。


山手公園は日本初の洋式庭園なんだそうです。


山手68番館。今は公園管理事務所になっています。
他の山手西洋館ほど立派じゃないけど、小さくてかわいらしいおうちなんですよ。


赤くなってきた夕陽に染まる白百合。初夏というには暑すぎる気もするけど、初夏なんですなあ。。


山手公園は高台にあるので、街が見下ろせます。昨日は夕陽がきれいでした。


夕陽を浴びた幹。この木もなかなかの古木ですね。


猫も夕暮れの街を眺めてるんでしょうか。今日は暑かったニャア。。。
歩き始めもほとんど夕方だったのに、なかなか暗くならない今は夏至ももうすぐ。

後編につづく。

根津美術館・鏡の魔力/若き日の雪舟展

2016-06-16 08:22:04 | 雑記
苔の海に浮かぶ飛び石の島。じめじめしてなんとなく気持ちの晴れない梅雨を美しく彩ってくれるのは、緑つややかな苔の庭。

表参道にある根津美術館に行って来ました。
なんか行ったことがあるような気がしたら、行ってなかったようで、うわあここいいな!
個人的に室町ブームのため雪舟目当てで行ったんですが、同時開催の古鏡展にすっかりはまってしまいました。
展示されていた鏡のコレクションは、静岡で光学系の会社を経営されている方が寄贈して下さったものだそうで、これがすごい!
しかしよそにあげちゃったんだな、これだけのコレクションを。。。相続税対策とかもあるのかしら。
でもほんとは手放したくなかったろうなあ。


根津美術館は、wikiによりますと、東武鉄道の社長などを務めた実業家で茶人の、
初代・根津嘉一郎氏の収集品を展示するためにつくられた美術館だそうです。
この土地は、もとは河内藩主の下屋敷だったのが維新後に荒れ果てていたのを、根津氏が買い取って造園し、
個人のお邸としていたものだそうです。

・・・って、この庭、個人で造ったの???

いやあもうお金かける所が違うというかスケールが違うというか。。
鏡のコレクションといい、ここまでいくのって、公でやるのよりも、個人が好きでつくったり集めたりしたものなんですよね。
うんしかし、お金かけても成金趣味にならないのが茶の道的な趣味なのかも知れん。。。


園内はかなり広く、こんな道路がはしってるぐらい。あちらこちらにおもしろげな石像などが置かれています。



鏡のコレクションでは、中国の戦国時代(前3世紀)から宋の時代ぐらいまでのものが時系列に並んでいて、
装飾の変遷などがわかって大変面白いです。
古来鏡は、映すと病気が治るとか、化け物の正体があらわになるといったような、破邪や護身の力があるとされ、
呪術や道教の儀式に使われたり、贈り物にされたそうです。そういえばドラクエ2にそんなエピソードあったな。。
古い鏡は、まるで空白恐怖症のように、地紋から意味のわからない大きな記号のようなものからでびっしり埋め尽くされていて、
ちょっと怖いぐらい。
常設展には青銅器があって、根津美術館の青銅器コレクションは世界でも有数だそうで、
こちらは殷の時代からとさらに古いんですが、これもびっしり紋様で埋め尽くされていて、呪術的に感じました。
ていうか実際に神器として使われていたらしいです。
そういえば耳なし芳一の話に、芳一が平家の亡霊から見えないように体にびっしりお経を書くというのがあったけれど、
それと似たような感じなんでしょうかね?あの空白恐怖症みたいな何かは。。
でもその模様が、時代が新しくなるにつれ、玄武朱雀白虎青龍のような神獣になり、人の姿をした神仙になり、
イスラムの影響なのか植物文様が取り入れられ、やがては主要な絵の背景が空白のままの鏡もできたりして、
不気味な怖い感じは薄れてゆきます。呪術的だったものが、時代を経て、だんだん美術的になってゆくんですね。

古中国では、空は丸い形をしていて、大地は四角い形をしているという思想があったそうで、
円形の鏡の中に四角を配置するデザインが多かったです。
またラーメン丼といえばあれ!の、丼のふちに今も生きているあの模様も地紋に多用されていて、あれは雷文というそうです。
神獣は、四天王以外にもいっぱい描かれているんだけれど、いそうでいないあの不思議な獣たちは、
いったいどこから生まれて来たんだろう。
龍が、北斎の天井絵などでは蛇体に近く、小さな手(足?)がちょこんと出てるイメージだったけれど、
この鏡コレクションの一つに描かれていた龍は、ウロコの体に、鹿などの四足動物のような、
かなりしっかりした長い四本足をしていたのが、ちょっとふしぎでした。

唐時代の鏡に顕著なんですが、唐の初期には沢山の実をつけ豊穣繁栄の象徴とされたブドウの模様が好んで使われ、
盛唐の時期には、今度は鳳凰など二羽の鳥が夫婦和合の象徴として好まれ、そして社会情勢が不安定になって来た晩唐の頃には、
伝統的な儒教や道教が盛んになったことを受けて、そうした伝説や故事を題材とした文様が増えて来るそうです。
そういえば室町時代も、不安定になってくると源氏物語などの古典に人気が出たそうで、なんかそれはわかるようが気がしますね。








雪舟展の方ですが、かつては雪舟と拙宗はタッチの違いもあって別人だと思われていたのが、
雪舟等揚(せっしゅうとうよう)は若い時には、拙宗等揚(せっそうとうよう)と名乗っていたらしいことがわかり、
つまり二人は同一人物というのが今の定説なんだそうです。
で、拙宗等揚、若き日の雪舟の描いた芦葉達磨図ほか何点かの絵と、雪舟と名乗ってからの絵が展示されていました。
拙宗時代の絵は、すごく繊細で優しい。雪舟になってからの絵は、明に留学していた頃に描かれた、
四季山水図の夏の絵があったんですが、これが力強く迫力のある絵で、なるほど別人だと思われていたのもむりはない気がしました。
現代でも外国に行ったりすれば、人が変わったようになることも珍しくないだろうし、室町時代ならなおさらでしょうか。
いや、でもこの山水図は本当にすごかった。。。














禅宗の影響を受けたといわれる東山文化、「下克上の時代」の著者である永原慶二さんは、たしかにそうだけれど、
浄土真宗の影響を見過ごしてはいけないと書いていました。
禅宗の教義は難しくて、前知識がかなりないと、描かれた絵の意味する所もわからなかったりするんだそうですが、
雪舟も禅僧だけれど、雪舟の絵は当時から、上は公家から下は庶民に至るまで大変人気があったそうで、
それは禅その他の知識がなくても、いいと思えるからなんですね。
なむあみだぶつと唱えさえすれば極楽にいけると教える浄土真宗は、庶民に広まったわかりやすい仏教でしたが、
時衆の僧侶をそばに置いていたことからもわかるように(時宗は法然の浄土教から分かれたもので、
親鸞の浄土真宗と源を同じくする)、将軍義政もその影響とは無縁ではなく、パトロンであった東山文化全般に、
浄土希求的なものが見られるそうです。

そしてさらに、お茶、お花などの東山文化全般は、そうして一見敷居の高い、宗教性の強い文化のように見えて、
実は民衆性、土着性に基づいた生活文化で、それは同朋衆が身分の低い人たちであったこととけして無関係ではないと述べています。
今7,80代ぐらいの年配の女性って、お茶やお花、踊りとかやってたり、着物や器など、いい物を知ってる人がとても多いんですよね。
別に特に裕福じゃなくても、物を持っていなくても、知識としてよく知ってる。それは物を見分ける鑑定眼とは違うんだけれど。
戦後の経済成長期に、それまでは手の届かなかったような華やかな文化が自分たちにも手の届くものになって、
すごくどん欲にそういうのを求めていったような所があるんだと思います。
そういえばうちの母も、ミセスとか暮らしの手帖とか読んだりしてて、
暮らしにちょっと余裕ができるようになったらすぐお茶を始めたりしたし、
近代では、家庭にある女性を魅きつけやすかったのがお茶お花日本舞踊などだったと考えると、なるほど東山文化は生活文化で、
だから今まで残って来たんだなあと思います。

宗教行事だった祭りが、町民が主体的な役割を果たすほどに娯楽性の高いものになってゆく傾向は、
南北朝時代頃からあったそうです。
御伽草子などに始まって、庶民が娯楽を求めるようになったのが室町時代で、それは農作物などの生産力が上がったことや、
町衆と呼ばれる町人が力をつけ始めたことで、余裕ができてきたからだと。






こんな庭が、表参道駅から8分の所にあるんですねえ。。。

それまで人間扱いされていなかったような人たちが、人間として見られるようになって、暗かった所に光が当たるようになった時、
文化が生まれることがあるんじゃないかと、電車の中でスティービー・ワンダー聞きながら思いました。
室町の文化は、庶民が以前よりも人間らしく生きられるようになったことで花開いた。
黒人音楽もそんな感じだったんじゃないのかなと。中世から抜けた後に起こった、ヨーロッパのルネッサンスも。

少し前に「パードレ・パドローネ 父」というイタリアの映画を見たんですが、
主人公の男の子が小学生の時に、父親が学校に来て、これから羊飼いにすると言って学校から連れ出してしまう。
羊飼いはほとんど人と出会うことのない、ひとりぼっちの生活で、その子は言葉をほとんど知らないまま育ってしまう。
大人になって、家庭の事情から父親の命令で軍隊に入り、友だちができ、その友だちに言葉を教わって、
徐々に人間らしくなってゆき、やがて言語学者になって故郷に帰り父親と対決するという、自叙伝がもとになった映画だそうです。
自叙伝を書いた本人が最後に登場し、羊飼いだった頃のあの暗闇にもう戻りたくないと今も必死だ、と言っていました。
人間て、人間扱いされることで人間になってゆくような所があるんですよね。
文化的な生活って多分そういうことで、だから文化は大事なのだ。人間を人間にする。












梅に桜、藤などのみごとな古木もありましたが、今の時期に咲いていたのはクチナシのみ。よく香っていました。
そして何より、この梅雨のじめついた時期には、緑に輝く苔が本当にきれいでした。
花や紅葉の時期は多分すごく混むだろうから、けっこう今が穴なんじゃないでしょうか。
古鏡、雪舟展は7月10日までだそうです。



帰りにミュージアムショップで蚊取り線香型のお香を買いました。あー、お寺の香りだ。。。
このまま永眠安眠できそうな匂いです。ぐっすりぐー。

GO!GO!ベイスターズ!・関内夜景

2016-06-13 08:22:30 | 横浜の町
序盤はぐいぐい行っていたのに、交流戦わずか3勝で一気にコースアウトしてしまった去年。
しかし今年のベイスターズは違うったら違うんです。

にゃんとすでに7勝。マジですか?!

あははは、もう優勝しちゃうんじゃないかな?監督かわりばなで優勝って結構ありますもんね。。
いやめでたい。ともかく今のところは。ていうか今のうちにいっぱい喜んでおこう。わーいわーい


・・・ソフトバンクは、あれ絶対悪魔かなにかと契約しましたよね。いやあ、こわいわあー。。


横浜スタジアム最寄りの関内駅。ガードの向こうに見えるのはホテル街の看板です。




こういうのを撮りたくなる年頃なんです。


心なしか頼もしく見える気がする横浜スタジアム。


心なしか防御率高そうに見える入口。この日は京セラドームでオリックスと対戦でしたので、
リトルリーグの大会が行われていたようです。




エネオスのタンクを積んだ貨物列車。根岸線はこういうのが結構走ってるようです。






森のなかまがこのマンホールを指さして「ここだけなんだよ~」と得意げに言うそばを、
おばあちゃんがにんまりとして通り過ぎます。やはりチームが好調だと町ゆく人の表情も朗らかになるのでしょうか。


港町魚市場跡。1874年(明治7年)に、高島嘉右衛門が開いた魚市場の跡だそうです。新高島や高島町の名前の由来になった人かな?
「欧米風の吹貫建築で本格的な食品市場を開設させた」とありますけど、そんな市場がこの辺にあったんだ。
ひと際栄えた遊郭もあったそうですし、その頃のこの辺の様子、見てみたかったなあ。。


横浜市庁舎。あのてっぺんに見える塔、なんと鐘なんだそうです。
市民の声(要望)で昭和34年に建てられたそうですが、いざ鳴らしてみたらあまりのうるささに、
やっぱり市民の声(苦情)によって即座に鳴らすのが中止されてしまい、以来50年間一度も慣らされたことがなかったそうです。
なんかありがちなトホホ。。
それが、横浜開港150周年を機にまた鳴らされるようになり、今は午前8時、正午、午後5時、8時の一日四回鳴らしているそうです。
あれえ、気がつかなかったなあ、鐘の音。今は当時より街に音があふれているせいでしょうか。






お腹も空いてきました。ガイドで目星をつけてるお店はこの辺のはずなんですけど。。








やっと見つけたのは関内駅すぐ近く、天ぷら&割烹の天吉。横浜でも老舗の天ぷら店だそうです。
写真は濱丼。きす、いか、かき揚げ、ししとうの天ぷらがのっててボリュームも満点!コースなどもあります。
頼んだのはこの濱丼と吹き寄せ重、マグロのぬた、瓶ビール一本に梅酒で五千円いきませんでした。
うーん、桜木町や関内は、コスパのいいお店が多いですね。


天吉のお店。球場で試合のあった日は、もっと混んでるんだろなあ。


お店を出るとすっかり暗くなっています。今日は夜景も撮るぞ!



ちゃららちゃららららん ちゃらららら ちゃららちゃららららん ちゃららら~♪
ちゃん ちゃちゃっちゃちゃっ ちゃちゃっちゃらん ちゃちゃっちゃちゃっ ちゃちゃっちゃらん♪

街の歌が聞こえてきて 真夜中に恋を抱きし~めたあの頃~♪


うおう、元春若い…… 十代に聞いてた歌は強いですね。。
おじいちゃんおばあちゃんがよっく覚えてるのって、やっぱり十代二十代の頃の記憶なんですよね。
他の時期のことはけっこう忘れちゃったりしても。
だからその時期に聞く音楽、読む本は、それから続く一生の土台になるんだよ。






ビルの谷間の赤ちょうちん。この辺りは赤ちょうちんからライブをやるようなおしゃれなバーまで、
良さそうなお店がいっぱいあるんだけれど、私があんまり飲めないもので(食メイン)、ほとんど開拓してないのです。
でもいける口の方は、横浜スタジアムに観戦に来たおりなどに、どうぞ良さそうなお店を探して寄って行ってね。楽しいよ!






何かと思ったら、1998年に建てられた、横浜ベイスターズ優勝記念モニュメントでした。
よし、来年あたりもう一個つくっちゃおうぜ!






ジャックの塔。あとで気づいたらカメラのダイヤルが動いちゃってて、極彩色モードになっていました。
ホーンテッドマンション風になってしまいましたが、これはこれでたまには面白いかな。


横断歩道を渡ればすぐ日本大通駅。この日もいっぱい歩いて、いっぱい写真を撮りました。
いつも歩いてる通りの、ちょっと一本裏に入っただけで、ずいぶん街の表情が違うもんですね。
これからもっと暑くなったら、昼間に外へ出るのはしんどそうだから、遅めにシフトして夕景、夜景を楽しむことにしようかな。
夜の写真は失敗が多いから、設定考えて撮らなきゃ。


         


若すぎて なんだかわからなかったことが リアルに感じてしまうこの頃さ♪


なんだかわからないままに心を動かされて、記憶に深く刻まれて、
年とるごとにそれを経験でなぞっていくことで、リアルに感じられて来るのかも知れないなあ。。
最初に刻まれた溝に、針を落として音奏で、レコード回るが人生だ。にゃんてな。