水瓶

ファンタジーや日々のこと

神奈川県立歴史博物館・石展と常設展

2016-02-28 12:22:37 | 横浜の観光・博物館など
カフンカフーンした空気にもめげず、久しぶりの週末のお出かけ。ああ目がしばしばする……
神奈川県立歴史博物館の石展へ。しぶい!けどかなり力の入った企画でした。

写真は神奈川県立歴史博物館。この建物は旧横浜正金銀行で、こうして通りの奥にふっと見えればすぐそうとわかるんです。
設計したのは日本人だそう。古色もついて、なかなかいい建物ですよね。


くりりんとした青空を背景に梅。もうはやピークのよう。


沈丁花の香りも漂う土曜日は陽射しがぼかぽかとあたたかく。

森のなかまは別の何やらに行くのでみなとみらい駅で下ります。待ち合わせ時間を決めて別行動。私は次の馬車道駅へ。


馬車道駅の構内ではちょっと気になる展示。建築専門学校の生徒さんたちの構想モデルのようです。
眺めてたら、「よかったら気に入ったものの番号を書いてください」と紙を渡されました。
建築なんてよくわからないけどいいのかなと思いつつ、、、
でもみんなよくできてましたよ。作るの大変だったでしょうね。


色んなコンセプトの都市や住宅街のモデルがありました。写真に選んだのは水辺の暮らしのもの。
水運、海運の話にはまってるので。。。


歴史博物館内は原則撮影禁止ですが、エントランスロビーはOKとのことでした。
これは受付近くに飾ってある高村光雲の舞獅子。鬼気迫る迫力!


目力あります。といっても、目の真ん中には穴が空いてるんです。かぶる人が中からのぞけるようにですね。




石展の展示の概要をかいつまむと、神奈川産の色んな石や、古代の石による制作物、石で作られた像や板碑、
石工の道具、ジオパークについての説明、近代建築について、などなど。
ボランティアの解説員の方のお話を聞きながら、興味深く見られました。
神奈川産の石では根府川石や七沢石が有名だそうで、触れる石があったのでさわりました。
グラインダーという道具で磨くと、ほんと驚くぐらいつるっつるになるんですね。

古代の斧の復元模型があって、縄文時代の斧は、刃先になる楕円形の平たい石が木の柄に縄でくくりつけられているんですが、
弥生時代になると、柄に穴を空けて石を通す形になっています。よくできてるなあ。
もっとも金属製の刃ほど鋭いものではないので、木を切るというより、幹をけずっていて倒すという感じだったようです。
その斧を使って倒してみた木の切り株も展示してあって、ビーバーがかじり倒した木みたいでした。
また古代では、槍や鏃の先には黒曜石がよく使われていたようです。
黒曜石というのはガラス質なんだそうで、ピカピカ光ってよく目立ちました。
のちにこれが鉄に変わるわけで、鉄になるとまた大きく時代が変わるというか。

(そういえばアイヌ文化は鉄器文化と言われるぐらいなんだそうですが、
その鉄のほとんどを本州の和人からの輸入に頼っていたそうで、シャクシャインの戦いで松前藩への叛乱が鎮圧された後には、
鉄の輸入を制限されたり鉄の質を悪くされたりして、生命線を握られた形になってしまったそうです。
うーん、こんな風に立ち回られるとたまらんですね。。)

ほか、古代の石で作られた装身具や、調理のための焚き火まわりに置かれた石、木の実などをすりつぶすのに使われた石など。
実際に人手が加わった石、人に使われていた石って、千年以上たってもわかるもんなんだなあとしみじみ。
でも古代の、ていねいに磨きあげられた小さな釣り針を見てたら、
なんか森のなかまのDNAをひしひしと感じるようでちょっとおかしくなってしまい。。。
こういうもんいっしょけんめい磨く人って、大昔からいたんだろなあ。

時代は下って、豊臣秀吉による小田原城攻めのために、たった四十日で作られた石垣の一夜城(一夜じゃないじゃん!)
というのがあったそうなんですが、この城は戦のための砦とか要塞のようなものだそうです。
その頃の砦は土塁と堀によるものがほとんどで、石を使ったものは新しかったそうなんですが、
かなり効果を上げたようで、戦国大名は石工衆を配下に従えることがとても重要になったそうです。
そういえば会津は二本松の霞ヶ城でも、蒲生氏郷だったかな、石垣を組む工人たちを関西の方から連れて来たそうで、
今は天守閣は失われていますが、土台にみごとな石垣が残っていました。



石展を見終わって、待ち合わせ時間にはまだ少しあったので、常設展の方を回ります。
これが思ってたよりも見応えがあって、近代の方は時間に追われて駆け足になってしまいました。
そういえば常設展は見たことなかったっけ。。。

埴輪や土器って、時々見るとほんとに面白いですね。
つぼの形も色々で、縄文時代にはすでにかなりしっかりした形の注ぎ口のものがあったり、
埴輪の顔に点々と穴が開いてるのはなんだろうと思ったら、縄文時代の人たちの入れ墨だったり。
弥生時代の人たちは入れ墨は入れなかったそうです。
首飾り耳飾りなどの装身具は、装飾が主な目的というより、呪術的な目的とか、
首長とか長老とか巫女とかの身分を表すものだったんでしょうか。

仏像が結構充実していて、鎌倉のお寺から借りてきた立派なものがありました。
円覚寺の舎利殿の原寸復元模型の一角があってビックリ!鎌倉彫っぽい装飾がほどこされた縁台も。
また、思わずほおーと見入ってしまったのが、小田原城のひな形。
ひな形は修復時などに大工さんが作るものだそうですが、現存しているものは少ないようです。
大きさは一メートル強四方ぐらいあったかな、、、瓦屋根まで全部木で組んであって、本当によく出来ていました。

ちなみに小田原城の主は北条氏で、あれ?北条氏って鎌倉時代の終わりとともに滅亡したんじゃなかったっけ?と思ったら、
戦国時代の北条氏は遠い親戚にはあたるもののほとんど無関係で、区別するために後北条氏と呼ぶそうです。
(この後北条氏も先ほど書いた小田原城攻めで、豊臣秀吉に滅ぼされてしまうわけですが。。
国破れて山河あり。鎌倉滅んで鳩サブレーあり。
北条早雲が有名な宗主。北条早雲て、かっこいい名前の歴史上の人物ベスト3に入ると思うんですがどうでしょう。
あくまで個人的な趣味ですが、他には後醍醐天皇とか坂本龍馬とか名前かっこいいですよね。

あと、真葛焼の展示もよかったです。真葛焼の経緯ってちょっと変わってまして、
明治期にヨーロッパへの輸出用に作られたものなんだそうで、またこれが実際に向こうで受けたそうです。
なるほど見てみると、かなり大きくて精緻な立体浮き彫りがほどこされていたりとデコラティブで、
当時のヨーロッパの東洋趣味みたいなのが反映されているような気がしました。
狙って当てるっていうのはかなり難しいと思うんですけれど、そういうことに炯眼な人がいたんですね。

というわけで、かなり力の入っている石展に加えて、常設展の方も堪能しました。
神奈川県といえば、鎌倉幕府と小田原城と、東海道は箱根宿に関所、近代には横浜開港と、
歴史博物館にもけっこう見どころありますね。

あ、こうした展示の仕上げのお楽しみが、関連書籍の販売です。
過去の展示の図録や、関連ありそうな本が売っていて、これを見るのが最近は楽しみになりました。
昨日は「火山列島の思想」という本を見つけて買ってみました。面白く読めるだろか、これ。
最近あちこちで噴火したりしてますし、なんか気になって。しかし講談社学術文庫にはお世話になりますなあ。
こういう本を文庫で出してくれるのってほんとにありがたいなあと思うこの頃です。


森のなかまと待ち合わせて、お腹も空いたしがっつりしたものが食べたいねーとワールドポーターのLASTでお食事。
ボリューム満点のテキサスBBQバーガー、1380円なり。おいしいんです。ハラペーニョもあるよう。
石もお肉もたっぷりと満喫した週末でありました。お腹いっぱいだ、ふうー。

2016-02-25 20:13:51 | 日記
ここへ来て寒い日が続きますね。
先週先々週と週末に外出できなかったので、今週末こそ…!

写真は先々々週に乗ったシクロポリタンから撮った横浜の景色です。ホテル・ニューグランド。
マッカーサーとか大佛次郎とか、有名な人がいっぱい泊まった由緒正しいホテルであります。
泊まったことはないけど、一度だけ森のなかまのお父さんお母さんたちと一緒に食事したことがあって、
さすが歴史あるホテル、おいしかったです。クラブハウスサンドイッチだっけ。
サンドイッチってしっかり作るとほんとにおいしいんだな。


ドナルド・ダックトランプさんが予備選連勝だそうで、
あんまりこういうことブログには書かないんですけれども、すごいことですね。
「壁をつくる!」って言ってるのが、なんか今の時代にすごく象徴的な気がして。
私の子どもの頃は冷戦下で、東西間の「壁を壊す」っていうのが一つのキーワードだったように思います。
「寒い国から帰って来たスパイ」のラストシーンも壁でした。
・・・誰かタイムマシンで過去へ行って、恐竜ハンティングに失敗して蝶を踏んづけたんじゃないかな。。。



風邪・インフルエンザ、身近にも不穏な気配があちこちに来てます。
なんとか冬の猛攻を交わして、あったかい春を迎えましょう。

「エゾの歴史 北の人びとと『日本』」海保嶺夫

2016-02-20 11:25:01 | 民俗のこと
最初はなかなか手こずっていたのですが、読み進む内にがぜん面白くなってきた「エゾの歴史」。
一章目が、戦前戦後のえらい人たち(金田一耕助京介とか喜田貞吉とか津田左右吉とか)のエミシ論エゾ論を
比較考察するみたいな章なので、とても難しいのです。ど~もこの手の文章は苦手。。
でもなんとか読み終えたので、おおまかに理解したすじを文章にしようとしたら、
ものすごく長くなりそうなので途中でやめました。
なので、印象に残った部分だけでも覚え書きがてらブログに書いとこうかなと。
とはいえデリケートな問題も含んでいてうかつなことも書けないので、ご興味のある方は本の方を読んでみて下さい。
肝心の本が古本以外品切れ中なのが残念ですが、読みごたえたっぷりです。
著者は北海道開拓記念館の学芸員だった方だそうです。

大ざっぱにいうと、エミシと呼ばれたのは、東北から北海道にかけて住む、中央政府に従わない人々のことのようです。
エゾと呼ばれたのは、北海道の南、松前半島の辺りに住み、和人の言葉を解する「渡党」、
北海道の太平洋側に住むアイヌ民族の「日の本」、日本海側・オホーツク海側に住む同じくアイヌ民族の「唐子」、
これら三類の人々のようです。日の本と唐子は和人の言葉を解さなかったそうです。
渡党とは、もともとは本州から渡って来た人々のようで、奥州藤原が頼朝に滅亡させられた時に、
北に逃げて来た残党という説もあるそうです。北海道は鎌倉時代の流刑地でもあった。
だから、アイヌの人々だけがエゾというわけでもないんですね。
また、北海道の島だけでなく、津軽も北海道と同じ文化圏にあったと著者の方は考えているようです。
ちなみにアイヌ文化が成立したとされるのは十三世紀。思ってたより遅かった。
なにせアイヌのことは、アイヌ神話や「銀のしずくふるふるまわりに」でしか知らなかったので、
まるでおとぎ話のようなイメージしかなかったのです。

エミシの方が古くから文献に出て来るそうで、七世紀から十一世紀ぐらい、
一方のエゾは、エミシと入れ替わるように十二世紀ぐらいから和歌にも詠まれるようになる。
十二世紀というのは奥州藤原が隆盛だった頃で、平泉の商人などからエゾの話を伝え聞いた平安貴族や都の人々は、
異国情緒のようなものを感じていたようです。

陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ かき尽くしてよつぼの石ぶみ (頼朝)

いたけもるあま見る時に成にけり えそか千島をけふりこめたり (西行上人)


頼朝と西行の和歌です。この二人は蝦夷地までは渡っていないけれど、陸奥までは行っていたそうです。
意味はわかりませんが、なんとなく遠い目をしている頼朝や西行法師の顔が浮かぶようではありませんか。



意外だったのは、いわゆる二度の元寇(文永の役・弘安の役)以前から、なんと四十年もの長きに渡って、
元とアイヌの人々はサハリンで交戦していたらしいです。
元側の文献しか残っていないので、元が優勢だったように書かれているけれど、
どうもあの恐ろしい元を相手に互角か優勢に戦っていたらしく、わりと条件のいい講和をしているそうです。
ふだんからヒグマを相手にしてたりしたから強かったんでしょうかね・・?

中世アイヌの人々はかなり自由に海を行き来していたようで、時にはユーラシア大陸の黒龍江から川をさかのぼり、
ニンクタや三姓というかなり内陸の方まで、交易をしに行っていたようです。

アイヌの人たちが黒貂の毛皮などのかわりに大陸から入手した絹の反物は蝦夷錦と呼ばれ、
本州との重要な交易品になったそうです。
錦がつく地名ってわりに多いとは思うんですが、「錦」のwikiを見ると、ズバリ「錦」という地名が北海道に多いようで、
もしかしたら蝦夷錦と関係あるのかも。

そして、この正保国絵図。青森県まではかなりいい線いってるのに、北海道だけえらくてきとうですよね。
ねぼけ頭の日本列島。。 でもこの地図が作られた頃には、エゾの地は島だということがわかっていたけれど、
秀吉や家康の頃にはまだ、大陸と地続きだと考えられていたらしいです。
これ、なんで松前藩がこんないいかげんな地形図を出したのか考えたんですけれど、
他の藩は耕作地から課税額を算出するために、猫の額のような土地までも検地していたけれど、
エゾ地では農耕がされなかったために、あんまり熱心に土地を調べていなかったんじゃないかなあと。
松前藩の財政の柱になっていたのは農耕ではなく、交易だったんですね。しかも国外との。
そんなわけで松前藩は、鎖国の方針をとる江戸幕府のもとでは異質な藩だったとありました。
他に国外との交易を許されていたのは、琉球王国との窓口として薩摩藩、朝鮮王国との間にたつ対馬藩、
そして幕府が直轄していた長崎奉行所で、これらと松前藩を合わせて四口というそうですが、
それぞれに事情はかなり違っていて、一口に同じとは言えないようです。

でも同じ地図に、リアルな地形を描く津軽と、いまだぼんやりした島のイメージにすぎない蝦夷地が隣り合っているのを見ると、
未知だったものが姿をはっきりさせてゆく過程のように思えて、すごく面白いなあと思うんです。
夢が現実に近づいてゆくようで。霧の中からだんだんとあらわれる。



まだよく理解してない部分も多く、今二度目を読んでる最中です。
アイヌ文化の前身である、独自の農耕と土器を持っていた擦文文化のこと、
鎌倉幕府から蝦夷管領に任ぜられた俘囚の長(ふしゅう・武士の語源とも言われる)・安藤氏のこと、
アイヌとの交易を独占するお墨付きを江戸幕府から得て、北の門番となった「商人の藩」・松前藩のこと、
内訌から松前藩への叛乱へと発展したシャクシャインの戦い、
天保の飢饉によって津軽からエゾの地へ人々が流入したことや、幕末に起きる変化などについて、詳しく書かれています。
「北海道」という地名になったのは明治二年からだそうです。近代の始まり。
ここにいたって、古代・中世・近世に渡って続いてきた「エゾの歴史」は、終わるわけですね。

・・・充分長い記事になってしまいましたが、最後に珍しい和歌を一つご紹介いたしましょう。

我恋は海驢のねながれさめやらぬ 夢なりながら絶えやはてなん (衣笠内大臣家長)

「海驢のねながれ(トドのねながれ)」とは、
「トドが腹を上にし、目を細くして流れに逆らわずに、のんびりと寝ているようす」だそうです。
「トドのねながれ」、い~い響きだなあ。ぷかーー


※上の二枚は森のなかまが横浜人形の家で以前に撮った、北海道の人形の写真から借りました。
トップの写真、ちょっと精霊っぽくありませんか?

春一番・北のエミシのお話

2016-02-14 18:35:09 | 民俗のこと
昨晩から台風並みのすごい風で、春一番だそうですが、春一番てこんな激しかったっけ。。。

森のなかまの体調もいまいちということで家にいましたが、それならゆっくり休めばいいものを、
風の強いベランダで写真を撮ったり、懐中電灯を撮ったり、革製品をこすったりして落ち着きのない森のなかま。
まあそれで疲れが取れればいいんですけど。私は私でKindleで少々買い過ぎてしまいました。。。
うーん、うちにいたらいたでお金が使えてしまう現代社会よ。便利だなあ、くそう。

今日は主に、正月実家にいた時に見つけた本を読んでいました。
母が買ったはずなんですが覚えがないそうで、「あんたが買ったんじゃないの?」と言われましたが私じゃないぞ。
たぶん買ったはいいが読まないまま時がたってしまったのでしょう。「エゾの歴史 北の人々と『日本』」

私がこの手の学術っぽい本を読めるタイミングは年に一、二回あるかないかで、はずみがつけば続けて読むんだけど、
かなり頭の具合が良くないと息切れします。
しかもこの本、漢字が多い(しかも現代では見慣れない地名・人名)、年号が出て来る、文章が歴史上級者向け、
みたいな感じで難しく、けっっこう読みづらいです。
でも一度、エミシ・エビスについてくわしく書かれた本読みたいなと思ってたので、それにはうってつけのようです。
そう、エミシ・エビス・エゾ・アイヌなどについて書かれているのです。
エミシ・エビスについては、出雲よりも、北方をたどる方がいいのかも。
まあ、はっきり結論は出せないようなんですけれども。

奥州平泉のこと、エミシともエゾとも読む蝦夷のこと、エゾの三派・日の本・唐子・渡党、
十三湊、安藤氏、蝦夷管領、松前藩、黒龍江河口流域、サハリン、オホーツク文化、擦文文化、などなど。
同じ「エゾ」という言葉でも、古代・中世・近世ではそれぞれ示される対象が違うそうで、大変ややこしいです。
それにしてもわからないのは、古代、中世ぐらいの人って、
自分の住んでいる土地や関わりのある土地を、どうやってとらえてたんだろうと。
今は詳細な地図で、上空から見た形の日本やその周辺を知ってますけれど、
地図のない昔って、どうイメージしてたんだろう。

義経=チンギスハン説なんてありましたが、これは義経が本当に大陸に渡ってチンギスハンになったかどうかよりも、
その頃は、そういうことがまんざら荒唐無稽ともいえない、それが起こりうる状況があった、
ってことが言いたかったのかもなあと思いました。
つまり、鎌倉幕府に対抗できるだけの強い勢力が北東北から北海道にかけてあって、
その勢力は中国大陸の勢力と密につながるルートを持っていたという。網野善彦さん系の話ですね。
網野さんの本は相当クセ強いけど、面白いんだよなあ。近くにいたらやだろうけどなあ。

写真は東北三大駒の人形です。
中世アジアの騎馬の人々も、船に乗って、わりとひんぱんに海を行ったり来たりしてたんでしょうか。
馬も酔う酔う、北海波よお~♪(メロディーてきとう)

横浜人形の家・平田郷陽から郷土人形まで

2016-02-11 14:39:49 | 横浜人形の家
これ以上、何ひとつ足しても引いてもダメ。完璧とはこういうことを言うのでしょうか。
人間国宝・平田郷陽さんの人形「竹馬」です。
この子は手にペッペとつばをはいて、竹馬をしっかり握ろうとしてるところかなあ。。

横浜人形の家は平田郷陽さんの人形をいくつか所蔵しているようで、
時々入れ替えながら、いつも何かしら見られるようになっているようです。
人間国宝って聞いてるせいもあるけど、素人目にもやっぱり抜きん出た何かがあるなあと思わせられますね。

先週の土曜日に行った横浜人形の家の記事です。
今回は日本のあちらこちらの、新しい人形や今まで気づかなかった人形たちなどです。


これも平田郷陽さんの「獅子遊び」。しかし渋い色合いの着物ですね。
お父さんかおじいちゃんの着物を仕立て直した体?


掘柳女さんの「微風」。なんとなく中国風、それも西域と言われる辺りのイメージでしょうか。砂漠っぽい色合い。
手に燭台、帯には近東風らしき金細工。シルクロードの風が吹く~♪


鹿児島寿蔵さんの「聖徳太子孝養之像」。小さい像なんですけど、ありがたい、かわいらしい感じ。


秋田のなまはげ人形。よくニュースで見ますけど、子どもが本気で恐怖に怯えて泣き叫んでて、
トラウマになるんじゃないかと思いますが。。。wikiによると怠惰や不和などの悪事をいさめる鬼で、
刃物を持っているのは囲炉裏に当たりすぎてできる低温やけどのあとをはいでこらしめるためだそう。ひええ。。。


岩手の附馬牛人形。附馬牛(つくもうし)といえば遠野物語に出て来る地名!
当て字かもわかりませんが、岩手の方では馬も牛も飼ってたんでしょうね。


岩手の鬼剣舞。うーん、多いですねえ、鬼。鬼は西洋の悪魔とは違って、一概に悪い魔物と言いがたい面がありますよね。
季節季節の行事に堂々とあらわれたりするし。神様仏様の使いで罰を与える役目という感じなんでしょうか。
公的権力のお墨付きあり。うむ。


宮城は仙台の福神相撲の堤人形。お餅のようにみょーんとのびた頭に技をかけられながらも、
のっぺりした福々しい顔を見せている福禄寿の顔がツボにはまって、思わず吹き出してしまいました。
でもよく見ると、福禄寿も大黒様の足をしっかりつかんでるので、これは互角の戦いをしているのでしょうか。


埼玉は秩父の機織り人形。家内制手工業!機織機、細かい所までよくできてますね。


千葉のヤキレ人形。ヤキレというのはたぶん矢切の渡しの矢切のことだと思います。
で、民子と政夫というのは、「野菊の墓」の主役ですね。

なぜくわしいかと言いますと、実は森のなかまと結婚してから十年ぐらい矢切に住んでたのです。
矢切の~お 渡あ~し~~~♪ はとうとう乗らなかったな………。
「民さん、君は野菊のような人だ。。」というのは昔聖子ちゃんの主演映画のCMで流れていたセリフです。
えーっと、政夫役は中井貴一だったけかなあ。


東京の人形たち。ぶら下がってる籠かぶり犬は、深大寺と札があったような。。深大寺といえばソバだっけ?
右下の天狗は高尾山て書いてあるかな。左下はなんだろう?山申(やまもうす)みたいなものかも。


神奈川の西瓜天神。調べてみたら、どうも横浜市のようです。
腕をのばした姿がスイカを切った形になってるんですね。へええ、こんな人形があったんだなあ。


岐阜は飛騨高山の籠渡し人形。ひょっとして木材の職人とかが、本当にこういう風に山間部を渡ったりしてたのかなあ、、
と思って調べたら、大体合ってました。ひええ。。
こののんきなひょうきん顔は、恐怖のあまり気持ちがでんぐり返ってしまった顔でしょうか。。えへらえへら。


石川県の御陣乗太鼓。おお、新幹線通った石川県のだね!と思ってちょっと検索したら、
かなり力の入ったサイトを見つけました。詳しくはサイトに書いてありますが、
御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)とは、かつて奥能登平定のために攻めて来た上杉謙信の軍勢を、
村人たちが恐ろしいお面をつけて太鼓を打ち鳴らし夜襲をかけて追い払ったという伝承に由来するそうです。
強敵を恐ろしがらせて追っ払うという明確な目的のもとに作られたお面だけに、半端でない怖さがあります。
完成度の高い、豊富な幽霊の面々!・・・このお面をつけて海藻の髪を垂らしたりしたそうなので、
そんな姿で夜中に奇襲かけられたりしたらたまりませんね。。。

またまた宮本・網野ルートからですが、奥能登というと民俗学では有名な時国家という旧家がありまして、
ちょっとうろおぼえで書いてしまいますが、江戸幕府の台帳によれば時国家は「水呑百姓」と記載がある。
「水呑」というのは土地をほとんど持たない小作農家ということなんですが、実情はその響きとはかけ離れ、
林業や製炭、製塩、陶器や漆器など幅広く産業を手がけ、また日本国内かなり遠くの地方とも交易をして、
相当豊かな家だったようです。能登は、北前船の寄港地でもあったようですしね。
百姓とは農民にあらず、本来は百のかばね、つまり様々な生業を示すものだと網野喜彦さんがしつっこく訴えていましたが。
これはたしか、時国家の古いふすまの裏紙に、交易の収支をつけた帳面かなんかの反古紙が使われていたのが発見されて、
くわしい内容がわかってきたそうなのです。うーん、ドラマチック民俗~!

そんな具合で、地図でもわかるように日本海にひょっこり飛び出た能登半島というのは、かなり独特の歴史を持っているようで、
さればこそ村人たちが、戦上手と評判も高い上杉謙信勢に夜襲をかけるぐらい向こうっ気が強かったという話もうなずけますね。


同じ太鼓でもこちらは牧歌的、愛知は犬山のでんでん太鼓。なんでしょうこの力の抜けるふざけた顔は。。


高知のしばてん塔。「しばてん」とはなんじゃらほいと調べたら、高知や徳島に伝わる河童に近い妖怪らしいです。
芝天狗、「芝」は小さいことを意味するらしいです。なあるほど。そっか、小さい天狗かあ。
でも日本の妖怪ってやたら相撲を取りたがりますね。昔は娯楽が少なかったのじゃ。


鹿児島神宮のシタタキ・タロジョ。調べてみたんですが、かろうじて玩具らしいということしか。
鳥のように見えますが、尾羽か頭の部分を押し下げるともう一方も連動して下がり、
上に跳ね返ってビヨヨヨ~ン♪みたいな音を出すおもちゃでしょうか。

上にあった深大寺や西瓜天神もそうですが、お寺や神社が郷土人形や玩具の発祥であることも多いんですよね。
昔の庶民の旅といえば寺社参りがメインだったでしょうから、そして大きな寺社の周りには、
寺社の仕事を請け負う職人たちが住まう門前町があったでしょうから、その職人たちが副職や手すさびといった感じで、
こうした郷土民芸品を考え出して作って来たのかなあと想像するんですが。


鹿児島の帖佐人形。武内宿禰と札がありました。こちら姶良(あいら)市のホームページに帖佐人形の説明が載っています。
姶良市の写真にこの武内宿禰とほとんど同じスタイルの人形がありますが、これもやはり武内宿禰?
人形の家の方では何を抱えているのかわからなかったんですが、新しいのを見ると、どうも赤ちゃんのようです。
帖佐人形づくりは一度途絶えてしまったそうですから、古い人形を参考にして、新しく作ったものかも知れませんね。


沖縄のヤンバル船グワー。ヤンバル船で検索すると居酒屋がトップに出て来ますが、有名なお店なんでしょうか。
おお、この機動性の高そうな身軽な船は、ひょっとしてジャンク船というやつかな?


宮崎は延岡の登り猿。これはきっとおさるを上まで引き上げると、カタカタ下りてくるのかな?
いや、登り猿だから上っていくのかなあ。

日本の郷土人形について調べてると、どうも宮本網野柳田氏ら民俗御三家から、
「おいでおいで~」と呼ばれてどんどん脇道に入り込んでしまうようです。きりがないのだ。
でもそうしてイモヅル式に調べてる内に新たに知ることも多くて、面白いんですよね。姶良市って読めるようになったし。

これで先日行った横浜人形の家の記事はおしまいです。ふ~。


                    


※後で思い出して、登り猿が登ってる動画はないかと調べてみたところ、延岡市のサイトにありました。
ここの一番下の動画の1分ぐらいの所で、登り猿が登っている様子が映されています。
なるほど、のぼり幡が風を受けるとお猿が浮き上がって、登っているように見える仕掛けのようです。
へええ、動きがユーモラスで面白い!なんか欲しくなってきたな………。
動画の中では大分大きなお猿も作ってましたけれど、五月の節句の時には、鯉のぼりと同じ竿に飾るんでしょうか。
そういえば宮崎県には海水でおイモを洗うお猿が住む島がありましたっけ。
申年の縁起物に、のぼりざるお一ついかがでしょう?ウッキ~