水瓶

ファンタジーや日々のこと

おにぎりさかのぼり

2014-10-29 08:26:12 | 民俗のこと
横浜市都筑区の北川表の上遺跡で、古墳時代後期(6世紀前半)の竪穴式住居から出土したおにぎり。
火事にあって焼失した住居から出土したそうです。見事な焼きおにぎりですね。
写真では真っ黒い塊にしか見えませんが、現物を見るとお米のつぶつぶも見えて、
なるほどコゲコゲになったおにぎりということがわかります。

横浜市歴史博物館の「大おにぎり展」の詳細です。
宮本常一さん効果もあって熱が入り、長くなってしまったので、てきとうに読み流して下さい。


上の写真の炭化おにぎりの復元模型。おにぎりをいくつか重ねてカゴに入れてあったようです。
一緒に玉や土器なども出土しており、なんらかの儀式と関係のあった住居ではないかと説明にありました。
しかしきれいに形が残ったもんですね。。。
同じ遺跡にあるお墓から、銭が入れられていたおにぎりが炭化したものも出土したそうで、
これも展示されていました。他の遺跡からも銭入りおにぎりが見つかっているそうで、
死者へのお供えに、おにぎりにお金を入れる風習があったのではないかと説明にありました。
死出の旅に備えての糧食と路銀というわけでしょうか。どっちも大事だもんね。

柳田國男さんの本で読んだんですが、実は焼けたお米というのは結構あちこちから出るそうで、
そこから色んな伝説が生まれたらしいんですが、もともとは葬儀やお盆などの死者の祀りの時に、
お米を焼いて煙にして天に贈る、という風習があったんじゃないかとありました。
だからもしかしたらこのきれいに焼け残ったおにぎりも、偶然の火事ではなく、
建物ごとわざと焼かれたものじゃないかと思ったんですが、どうでしょう…?

そういえば今私が住んでいる辺りでは、お盆の時、古くからの農家さんの家の門の所に、
食べ物やキュウリやナスで作った送り馬をのせた小さな台が置かれているのを見かけます。
お盆の終わったあくる日には、台の上に灰だけが残っています。
これも焼かれて天に送られたお供えなのかなあと思いました。


米以前の重要な食料、木の実。写真はトチの実です。栃木出身なものでなんとなく。。
他には栗、くるみなどがよく食べられたそうです。木の実は栄養価高いんですよね。
時々旅先でトチの実まんじゅうとか見かけますが、独特の風味があっておいしいです。
このあいだトチの実のあんを作っている様子をテレビでやっていたんですが、
渋みのあるあくを抜くために丸一日釜で煮るので、すごく手間がかかるそうです。

そして栗。昔の日本には栗の木が今よりもっと多かったんだそうですが、
明治時代に鉄道の枕木に使われて、その時に大分減ってしまったんだそうです。
栗の木はすごく硬くて、江戸時代には牢屋の格子に使われていたそうです。脱獄できないよーー


山梨県の酒呑場遺跡から出土した、縄文時代中期の、ダイズ属の圧痕を持つ土器。
大豆を押し付けた痕があるはずですが、写真ではちと見えません。
特に飾りけもない土器ですけど、何千年という古色がつくと、日常使いのナベも芸術品みたいになりますね。


こんな風に調理したそうです。弥生時代頃の米は、粘り気の弱いパサパサしたお米だったらしく、
こうして多めのお湯でゆで、吹きこぼれそうになるとお湯を捨てる、
湯取り法という料理法で調理されていたようです。
後に広まる粘り気の強い米は、なべにくっつきやすく、糊のようになってしまうので、
甑(こしき)の上で蒸す調理法が主になってくるそうです。
展示の説明によると、蒸す調理法自体は縄文時代からあったようです。


お米の下が白いもので仕切られていますよね。これが「こしき」。
蒸し方自体は今とほとんど変わりませんが、この土かまど、火加減の調節がかなり難しそう。


釜飯屋の釜!大分時代が下って釜とかまどの一体化が進んでいます。
これがやがてコンパクトな電子ジャーになるわけですよね。ふうーん。


弥生時代の日常の食事の「こういうのもありえた」という一つの復元案だそうです。
ゴーヤに桃、栗、雑穀まじりのおかゆ?充分おいしそうです。


こちらはゴージャスなハレの日の食事!
手前は鯛にアワビに小さいタコ、左手奥は鶏肉の焼き物か蒸し物のよう。
ご飯は赤飯のように見えますが……あ~、食べてみたいよう。。


古代米の研究をしていた方のコレクション。すごいんですよ、沢山の品種の米が分けられてて。

稲については色んな方が研究していて、対立することも結構あったそうです。
そりゃ日本人だから米が重要なのはわかるけど、なぜそれほどまでに稲にこだわる人たちがいるのかと、
ちょっと不思議に思ってたんですが、稲作が伝わった頃には、稲作の方法を本やネットで調べられるわけもなく、
つまり稲と一緒に稲作の技術を持った人たちが来たわけで、すなわち稲のルーツをたどることは、
日本人のルーツの一筋をたどることでもあるんだそうです。そりゃー白熱するか。。。


「おにぎりの具」コーナーもあります。カツオということは、おかか!
今のコンビニおにぎりの具の豊富さはすごいですよね。
しかしやはりベーシックなシャケ、たらこ、梅干し、おかか辺りに回帰してゆくのですよ。ふふふ


昔のおにぎりは葉っぱに包んだりしてたようですが、近世からは海苔にグレードアップ!
下は海苔を入れる箱。湿気にめちゃくちゃ弱い海苔の保存は難しかったでしょうね。


こんな舟で海苔をとったんでしょうか。これは一本しかないから櫓(ろ)かなあと思いますが。。
櫓でこぐのにはコツがあるらしいです。


梅干しが入っていた瓶。日本は瓶やつぼや桶がよく作られ、使われたそうで、
発酵食品の類いがとても豊富なんだそうです。酒、みそ、醤油、漬け物。
大きい容器ができると、大量生産ができるようになるのは塩と同じで、
今、酒の名所として有名な所は、比較的早くから大きい樽が手にいれやすかった所なんだそうです。
たとえば灘で造られたお酒は、堺から船で江戸まで運ばれ、
その後の空いた大きな桶を利用して作り始められたのが、千葉の醤油なんだそうです。へええ~


炭化おにぎりと同じ、北川表の上遺跡から出土した土器。すでにきれいに整った形になってますね。
ろくろはやきものだけでなく、お椀など木地の器づくりにも欠かせない、重要な道具だったそうです。


ぱさぱさともちもちのお米の表情がグー!うんうん、そんな感じ。

以下、おにぎり展と宮本常一さんの本からまとめた所を書いてみました。

縄文時代の頃、日本列島には、土蜘蛛などと呼ばれた人たちが竪穴式住居に住んでいて、
漁撈、狩猟、採取などで食物を得ていた。アイヌ民族やマタギのルーツ?

東南アジアの方にあった越という国で、筏舟と陸上と半々ぐらいの生活をしながら、
漁撈と稲作をしていた人たちが、古代中国の内乱で北に追われ、朝鮮半島を回り、
難民のような形で、家族単位で日本の地に逃げのびて来た。
この人たちが、高床式住居と稲作の技術を持って来て、祭祀の中心になった。
米は東南アジアで作られる、細長くて粘り気の少ないパサパサしたインディカ米。
これがエビスと呼ばれた人たちではないか。弥生時代頃、出雲?
島根県にはえびす神社の総本社、美保神社がありますもんね。

さらにその後、北方系の騎馬民族がやはり同じようなルートで、馬ごと船に乗って渡って来る。
この騎馬民族は征服せんと来たために、男だけで来て、各地で妻をめとり、血縁関係を広げ、
強い武力をもって日本列島の統一を進め、政治の中心に立って権力を持つ。
古墳時代以降、高天原?
この人たちが持って来たのが丸みがあって粘り気の強い、もちもちしたジャポニカ米で、
今の日本のお米の主流になります。古くはもっと粘り気が強く、もち米に近かったようです。

細かくは、もっと何度かの時期に分かれて、また琉球諸島を伝ってなど他のルートからも、
人と稲が渡って来ていたのではないかと書いていましたが、
大きくはこんな感じが、宮本常一さんの考え方だったようです。
宮本さんの本を何冊か読んで、私がまとめたものなので、多分あちこち間違ってると思いますが、
まあ素人なんで、許してつかあさい。
でも宮本さん自身も、時期によって、少しずつ考えが変わって来ているように感じられました。
今は、宮本さんの時代にはわかっていなかったこととかもわかって来てたりするでしょうし、
まだまだ他にも色んな説があるんだろうと思います。
うん、でも、頭がだいぶ整理されたぞ。ありがとうおにぎりよ。


博物館のおみやげ、縄文クッキー「縄文の匠」。くるみ、どんぐりなどが使われています。
一枚140円でした。これがおいしかった…!
探してみたら、通販はどうもここだけのようです。
というわけで+送料価格の通販で買おか、また行った時に買って来よかと悩んでます。。

大おにぎり展

2014-10-26 10:18:33 | 民俗のこと
昨日は横浜市歴史博物館で開催中の

「大おにぎり展」

に行って、融合して炭と化した古墳時代のおにぎりとか見て来ました。
宮本常一さんの本読む前なら全く興味なかっただろう内容が、とても面白かったです。
ちなみに民俗学とかにあまり興味ない森のなかまも、
「うん、まあ、思ってたより面白かった。」と言っていました。


ああー、これが…!と、ひときわ感慨深かった鉄製の塩釜。


白米、赤米、黒米で作ったおにぎりの模型。

展示は、米を煮たり蒸したりした土器とか、古代の稲とか炭化した米や木の実とか、
作りたての土器に押し付けられて残ったモミ殻の跡などの、なかなか渋い内容なんですが、
昔の調理道具や調理法などが、復元模型や図でわかりやすく説明されていました。
思ってたより人が来ていて、意外に若い人もいたのが驚きでした。
それと常設展の方の、横浜市辺りの原始時代から近代までの展示も面白かったです。
なんとナウマンゾウがいたんですと!

帰りにすぐそばの大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡公園にも寄って、
古民家とか古墳跡とか見て来ました。近くにこんなとこあったんだなあ。
あとで何度かに分けて、記事書くつもりです。


最寄りセンター北駅の前に生えていた赤い木の実。
調べてみたんですが、多分サンシュユかなあ。花のつき方と似てるし。
いよいよ秋も深まって来ました。

塩の道

2014-10-25 09:13:19 | 民俗のこと
今週のこころ旅は山口県だったんですが、
山口県は周防大島が、民俗学の宮本常一さんの出身地なんです…!
防府市にある、塩田に入る水路にかけられる、枡築(ますつき)らんかん橋という珍しい橋が出て来て、ほほお~っと。
瀬戸内海だよ!塩田だよ!しおだよしおー!

瀬戸内海は、日本で一番の塩の生産地だったそうで、
日本は海に囲まれてるんだから、他にもいくらでもありそうなものかと思ったら、
売るほど大量に塩を作るためには、いくつかの条件が必要なんだそうです。

一つは入浜という、浜が海に入り込んだ、天の橋立てのような地形が塩田に向いているそうで、
そういう地形が多いこと。

もう一つは、大昔は土器で海水を煮詰めて塩を作っていたのが、土器では大きい釜が作れないうえに、
何度か使うと土釜に入り込んだ塩が結晶化して割れてしまうので、大量生産ができなかったんだそうです。
それが、中国地方は古くからの鉄の産地でしたから、大きな鉄の釜で、沢山の塩が作れるようになったこと。
(鉄の釜の難点は、さびが出て混じってしまい、塩が白くなくなってしまうことなんですが、
花崗岩の一種の、平たく割れる片麻岩のかけらをはり合わせ、間を粘土で埋めて作った大きい石釜で、
さびの色がつかない白い塩が沢山作れるようになったそうです。
こういうこと考えつく人がいたんですよね。すごいよ。。。)

そしてもう一つは、煮詰めるための燃料に薪が大量にいるんですが、その薪が、近い山地で豊富にとれたこと。
この薪が手に入れにくくなったことで、塩づくりをやめてしまった村も多いそうです。

塩田の入川を小舟で行き来して塩を作り、作った塩をつめた俵を牛におわせて運ぶ。
大きい街道に沿うように、塩を運ぶ牛が通う細い道があって、これが塩の道なんですね。
(西の方では、長い運搬には牛がよく使われたそうです。
牛は腹ばいになって眠れるので、野宿ができたからだそうです。
馬は立ったまま眠るので、夜は屋内で休ませないといけないんだとか。
また、馬は藩の管理が厳しくて、あまり増やせなかったんだそうです。)
こんな風にして、かなり遠い地域まで、瀬戸内海の塩は売られて行ったそうです。ンモォ~~

ところで牛も運べないような険しい山地などは、ボッカ(歩荷)と呼ばれる人たちが担いで運んだそうです。
あっ、そうか。牛も馬も行けないような所にも、人間は行けるんだ…!

・・・と考えたら、動物のように、ある環境に特に秀でた体になるのではなく、
人間は、どんな環境にも少しずつ適応できる能力を手に入れたんだなあと。
ある過酷な環境に、特殊に適応した動物は結構いるけれど、
一つの種で、どんな環境にもまんべんなく適応することのできる一番の動物って、人間ですよね。
身体的な強さをある程度捨てても、家や衣服など、補助するさまざまな物を作り出すことで、
極寒のツンドラ地帯から赤道直下のジャングルまで、大昔から人が住んでますもんね。
さらに今では北極南極に深海、はては宇宙まで行けるようになってるし。
えらい今さらながら、ああ、これが文明なんだなあと感心しました。
そういえば宮本常一さんは、文明は器で、その中に入れるものが文化だと書いていました。

写真は枡築らんかん橋……ではなく、みなとみらいの汽車道の橋と屋形船。
正平ちゃん、再来週からは九州なんですよね。
九州といえば、さつまいもと対馬の魚なんですたい!

北鎌倉・建長寺

2014-10-21 08:39:47 | 
剣を振り上げる烏天狗。ここは建長寺の最奥にある半僧坊。
階段を上って上って行った先に、こんな奇怪な像が沢山立っていて、
下のお寺とはちょっと雰囲気が違うのです。

ずいぶん間があいてしまいましたが、北鎌倉へ行った時の、建長寺の記事です。
建長寺は鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山で、
鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立した日本最初の禅寺だそうです。(※建長寺のリーフレットから。)
北条時頼公は、円覚寺を建立した北条時宗公のお父上であります。
しかし北条氏の名前は時○・○時が多くて覚えづらいよ………


国宝の鐘。なんと重さ2.7トン…!!外につってあってもこの国宝は誰も盗みませんよね。
関東鋳物師の物部重光によって1255年に鋳造されたそうです。
ていうかこの鐘つり下げてる建物もすごいですよね。よく屋根落ちないなあ。


巨大な山門。一体この柱はどこから切り出して来たんだろう??

鎌倉には材木座海岸があって、調べたら、浜に船をつけるのが難しく、事故が多かったため、
勧進聖・往阿弥陀仏が港湾施設を造ることを願い出、これを二代執権北条泰時がバックアップ。
なんと和賀江島という人工島を造ったんですね。現存最古の港湾施設だそうです。
もしかして海路を渡って、紀伊辺りから材木が運ばれたかな。それとも川を通じて木曽辺りから?
紀伊も木曽も昔から有名な材木の産地だそうなんですが、これはわかりませんでした。


とにかく広い境内。建長寺は駐車場も広くて、大型観光バスが何台も停まれるようになっていました。


まるでお寺が一つの都のよう。


瓦も見事なもの。はしばしまで細やかに作り込まれています。
格子や曲線、直線、円などが素材ごとに組み合わされていていいですね~


広々とした方丈の中。この日は夏のように暑かったんですけど、中はひんやり。
奥に大きな太鼓が見えます。いつ叩くんだろ。。。


方丈から見た庭の眺め。右手に見える建物は得月楼というそうです。大覚禅師の作庭だそうです。
当時から芝生ってあったのかあ。


唐門。ちょっと他の色合いから浮くぐらい派手です。伊達政宗っぽい。


円覚寺と同じく、境内にあちこち庵のような場所があります。中は入れないんですけど、いい趣ですね。


半僧坊への表示にそって進んで行くと、いったん普通の民家があるような道に出ます。
すぐ横にある鎌倉学園の生徒さんの通学路になっていました。
さらに進むとこんな階段が見えるんですが、この少し前から突然大きな太鼓の音が響き出しました。
えっ、ひょっとしてさっきの方丈にあった太鼓???
谷のようになっているせいか、どこから太鼓の音が聞こえて来るのかよくわかりません。


和風ゴシックっていうのか…?なんて言うんでしょう、このちょっと異様な風景は。
どうやら太鼓の音はこの階段の上から鳴っていると確信します。
太鼓のテンポは速くなり、合間にチーン♪とか入ってお経を読んでいる声も聞こえ、もうのりのり。
森のなかまによると太鼓のリズムは二拍三連、でんつくでんでんつくでんでんつくでん♪らしいです。
早く行きたいけど階段長くてきついよ………ひいひい。


きっとこのあやしい階段の上ではお坊さんグループが太鼓叩いたり鉦叩いたりお経を読んでいるに違いない。
そんなにぎやかな現場を見たいぞ!!


ようやくとうちゃこ。。。この中から聞こえます。のぞいてみると………
なんとあの太鼓も鉦もお経も、全部一人のお坊さんがやっていたのです。
えええっ、あんなにでっかい音で太鼓叩いて大きな声で読経し続けて、しかももう30分近く!
お坊さんの後ろの席には二人の方が座っています。
調べた所、ここが半僧坊で、ご祈祷をやっているのですね。後ろに座っている方が頼まれたよう。
一番安い小祈祷が三千円とのことで、これ聞くためだけでも一回お願いしてみたいなあ。
なんか気持ちいいんですよね。お坊さんのグルーヴ感、あなどれません。


そしてこの半僧坊からさらに奥へ、上へ上がると、天園ハイキングコースに入って行けます。
実は二十年前ぐらいに、違う所から入って歩いたことあるんですが、
ここなんか階段になってるだけまだいい方で、ほんと大変な山道でした。。。
体力に自信のある方は一度どうぞ!


半僧坊展望台からの山深い眺め。

またまた宮本常一さんの本からですが、鎌倉はいかにも武士が造った都だそうで、
当時はまだ築城技術が発達していなかったために、鎌倉のような山間の枝谷からなる、
天然の要害の地が選ばれたらしいです。
そういえば鎌倉ってお寺や神社はいっぱいあるけど、お城も城跡もないし、
頼朝公や北条氏の代々の執権はどこに住んでたんだろうと調べてみたら、
鶴岡八幡宮の近くにあった武家屋敷に住んでいたそうです。
太蔵幕府跡という史跡があるそうです。意外に知られてませんよね。

鎌倉が広々と開けてるのは海の方に向かってで、その砂浜に大きな船を着けるのは難しいし、
切り通しがいくつも造られたのも、もともとが外と行き来しにくい地形だからですよね。
攻め込んで来る敵を防ぐ要素がいっぱいそろっている、まさに武士の武士による武士のための都。
(ただしそういう土地は商売交易には不便でしかたないそうです。城下町もしかり。)
それで1192つくろう鎌倉幕府から、1333年に新田義貞に滅ぼされるまで、150年近く存続するんですね。
鎌倉幕府滅亡の遠因は、二度の元寇に対抗するために負担を負わされた地方武士の不満が高まって、
幕府の求心力が弱まったからのようです。元寇防いだだけじゃ済まなかったのか。。。
昭和三十年代に行われた発掘調査では、由比が浜と一の鳥居の間にある砂浜から、
北条側の兵らしき人骨が何百体と出土したそうで、
それひょっとして、今は公園みたいになってて、地下駐車場とかある辺りなんでしょうか………
ひええ、全然そんな怖い感じしなかったよ。。。どうかちゃんと成仏してますように。
なんまんだぶなんまんだぶ。。

源頼朝に仕えていた熊谷直実という武士の子孫は、色々経緯あって足利尊氏にも仕えていたのが、
武士としての出世を思いとどまり、天竜川をさかのぼった信濃の山奥に村をつくって、
お百姓としてひっそり暮らしたそうです。これは残された記録などから信憑性が高いそうです。
動乱の時期はむごいことすさまじいことの連続でしょうから、武士という身分であっても、
そういう気持ちになる人がいたんでしょうね。。
この話は「山に生きる人々」に入っています。

というわけで、前回行った北鎌倉の記事はこれでおしまいです。鎌倉時代にちょっとくわしくなったぞ!
けんちん汁がおいしい秋になりました。

宮本常一

2014-10-16 08:45:29 | 民俗のこと
このところ、宮本常一さんの本を立て続けの一気呵成に何冊も読んだので、
どれがどれに書いてあったやら、また範囲が広いので、まとまらず。。。
その内一冊一冊、もう一度ちゃんと読み直したいと思いますが、
今はこの漠然とした状態で、印象に残ったことをいくつか書き止めておこうかなと。

渋沢敬三さんという経済界の大立て者に見いだされ、日本中歩き回ることになった方ですが、
その渋沢敬三さんの「物の意志を読み取れ」という言葉に深く感銘を受けたそうで、
庶民の使った生活の道具・民具について、注目するきっかけになったようです。
たとえば同じ料理に火を使うでも、東はいろりの上に鍋をつり下げる自在鉤を、
西は金物の足の上に鍋をのせる五徳を使っていたけれど、その違いはどうしてかと考えることで、
歴史的な経緯だとかが見えて来るんですね。
どういう環境の条件下にあって、どういう時代の流れから、どんな必要にかられて作ったものかということが、
深く調べている内になんとなくわかって来る、ということかと思います。
前に物語の「物」は何なんだろうと考えたことがあったけれど、物には過去が留められているという点では、
物語の物も、民具の物も同じなんだと思いました。

印象に強かったことの一つは蝦夷、毛人、エゾ、夷、エビスと呼ばれた人々の話。
この間こころ旅で島根県の美保神社という所に行ってましたけれど、
調べたら美保神社はえびす系の神社の総本社だそうで、
その時にえびす系の神社があるというのも初めて知りました。
このエビスの人々は、稲作が渡来する以前の日本で、
漁撈や狩猟、焼き畑などを中心に、移動しながら暮らしていた人々ではないかというのが宮本さんの説です。
・・・って考えると、七福神の恵比寿様が、釣り竿を持ってタイを抱えているというのも、
あ、な~るほど、と思えて面白いのです。

もう一つは「塩の道」の話。
これは、日本では岩塩というものがほとんど出ないために、塩は、海から手に入れるほかなかった。
だからどんなに辺境の深山でも、どこかしらで必ず海とつながる道はあったそうです。
ある村里からは知られていない山奥に暮らす人々はいたけれど、
そういう集落は必ず山の反対側にある村を通して、海へとつながっていた。
山奥での塩の不足は困ったもので、塩魚は魚を食べるのではなく、塩を食べるものだったそうです。
だからとてもしょっぱくて、一匹を何日かに分けて食べるんですね。
今は塩分不足から来る病気なんてほとんど聞かないですし、
とにかく塩分は控えめに控えめにと言われる現代からは、なんだか信じられないようです。
また、わざと悪い塩を買って、にがりを取って豆腐を作ったりしたんだそうです。よ~考える!

そしてもう一つ、お椀伝説というのが日本各地にあり、これは村人が淵や洞窟に行ってお椀を貸して下さいと頼むと、
後日、立派な漆塗りのお椀が置かれてある。それを特別な日に借り受けてまた返すのですが、
ある村人がそのお椀を返さなかったことから、もうお椀は置かれなくなってしまう。
これなんかは、山奥に住む膳椀を作って暮らす木地屋と呼ばれる人々が、貸していたのかなあと。
それで返す時に、村の方からお礼代わりにちょっとお米などを添えておいたことがあったんじゃないかなあと、
色々想像をめぐらせてしまいました。
農村に暮らす人々と山に暮らす人々の間にも、こんな風にして細い交流があったのかも知れません。

他にも漁の方法、田畑の作り方、家の形、道具、運搬や耕作での牛と馬の使い分けなど、
地方によって違うあり方とその理由を述べられていて、面白いです。
下は「日本人のくらしと文化・炉辺夜話」の冒頭の言葉です。

『普通伝統と申しますと、古いことになじんで、そうして古いことを大事にしていくのが伝統だとお考えになっておられる方が多いのではないかと思いますが、伝統というのはそういうものではなくて、自分の生活をどのように守り、それを発展させていくか、いったか、その人間的なエネルギーを指しているものであるだろうと思うのです。』

このことは、宮本さんの本を読んでいると、全体になんとなく感じられます。
村と町、狩猟と農耕、農と商工、東と西などを対比させて考えることのもっと深くに、
どんと構えているのがこの目線で、そのせいか読んでいる間、あまり浅薄に、
どっちが優れているとかこれが一番とかいう風には考えることがありませんでした。


※以下、全部文庫で買えます。文庫になってるものは読みやすく、
興味のある人には面白く読めると思いますよ。
タイトルが一見みな似ていて、重複している内容もありますが、
それぞれに重点を置いているしっかりしたテーマがあります。

「山に生きる人々」 山での生業をする人々について。木地屋、サンカ、船造り、桶造り、鋳鉄集団、山に落ちのびた落ち武者の集落など。落ち武者の子孫だという村は多かれど、信憑性のあるものは少ないのだそうですが、史実と照らし合わせると、本当らしきものがあるんですね。武士を捨てた人々のそれから。

「忘れられた日本人」 一般的な農村の人々、土佐の元博労、対馬の漁村の立ち上げにたずさわった人などの古老の話。文字を持たない人の語りは重いです。また文字の読めない人々の中で、重宝され、尊敬されながらも文字持つ人の孤独。

「塩の道」
 海での製塩方法や塩のルート、運び方などについて。正真正銘瀬戸のほんじお…!

「民俗のふるさと」 村や町、そして都市がどんな風に出来ていったか。成立した時代によって村や町のつくりが違う理由。

「生きていく民俗」 生業の推移。職工のこと。店や行商による商業の発展など。店は「見せ」から。

「日本人のくらしと文化・炉辺夜話」 各地で行われた講演集のようです。その土地土地について。

「絵巻物に見る日本庶民生活誌」 あまり記録に残されていない昔の庶民の生活ぶりが、一遍上人絵巻などを通して見えてきます。高床式の住居に住む貴族と、土間の家に住む庶民。物忌みだなんだでずいぶん窮屈だったろう貴族の宮廷生活に比べて、庶民は良くも悪くもおおらかだったようです。

「日本の村・海をひらいた人々」 子ども向けに書かれたもののようですが、充分面白い、というかかなりくわしくていねいに書かれています。漁師が金華山信仰などにあるように山を信仰するのは、陸へ帰る目印になるから。著者のスケッチ付き。記録の絵なんですけど、いい味出てます。

「日本文化の形成」 遺稿。日本への稲作の伝播ルートを北と南に大別してたどる。畑作の変遷。東と西の文化の違いとその由来など。おそらく宮本さんの調査研究の集大成になるはずだったものと思われます。中途で終わっているらしいのが本当に残念で惜しまれます。。。

宮本さんの本読んでから、こころ旅がますます面白いです。
大阪の屋敷町、兵庫は灘の造り酒屋の町、鳥取の海際の小さな町、そして島根。
都市部に昔の面影を見つけるのは難しいけれど、そういう場所にはかつての村や町の形が残っているようで。
(灘の町が新しいのは阪神大震災のせいでしょうか。)
う~ん、、山陰地方は、本当に古くから人がいた感じのする土地ですよね。