横浜市都筑区の北川表の上遺跡で、古墳時代後期(6世紀前半)の竪穴式住居から出土したおにぎり。
火事にあって焼失した住居から出土したそうです。見事な焼きおにぎりですね。
写真では真っ黒い塊にしか見えませんが、現物を見るとお米のつぶつぶも見えて、
なるほどコゲコゲになったおにぎりということがわかります。
横浜市歴史博物館の「大おにぎり展」の詳細です。
宮本常一さん効果もあって熱が入り、長くなってしまったので、てきとうに読み流して下さい。
上の写真の炭化おにぎりの復元模型。おにぎりをいくつか重ねてカゴに入れてあったようです。
一緒に玉や土器なども出土しており、なんらかの儀式と関係のあった住居ではないかと説明にありました。
しかしきれいに形が残ったもんですね。。。
同じ遺跡にあるお墓から、銭が入れられていたおにぎりが炭化したものも出土したそうで、
これも展示されていました。他の遺跡からも銭入りおにぎりが見つかっているそうで、
死者へのお供えに、おにぎりにお金を入れる風習があったのではないかと説明にありました。
死出の旅に備えての糧食と路銀というわけでしょうか。どっちも大事だもんね。
柳田國男さんの本で読んだんですが、実は焼けたお米というのは結構あちこちから出るそうで、
そこから色んな伝説が生まれたらしいんですが、もともとは葬儀やお盆などの死者の祀りの時に、
お米を焼いて煙にして天に贈る、という風習があったんじゃないかとありました。
だからもしかしたらこのきれいに焼け残ったおにぎりも、偶然の火事ではなく、
建物ごとわざと焼かれたものじゃないかと思ったんですが、どうでしょう…?
そういえば今私が住んでいる辺りでは、お盆の時、古くからの農家さんの家の門の所に、
食べ物やキュウリやナスで作った送り馬をのせた小さな台が置かれているのを見かけます。
お盆の終わったあくる日には、台の上に灰だけが残っています。
これも焼かれて天に送られたお供えなのかなあと思いました。
米以前の重要な食料、木の実。写真はトチの実です。栃木出身なものでなんとなく。。
他には栗、くるみなどがよく食べられたそうです。木の実は栄養価高いんですよね。
時々旅先でトチの実まんじゅうとか見かけますが、独特の風味があっておいしいです。
このあいだトチの実のあんを作っている様子をテレビでやっていたんですが、
渋みのあるあくを抜くために丸一日釜で煮るので、すごく手間がかかるそうです。
そして栗。昔の日本には栗の木が今よりもっと多かったんだそうですが、
明治時代に鉄道の枕木に使われて、その時に大分減ってしまったんだそうです。
栗の木はすごく硬くて、江戸時代には牢屋の格子に使われていたそうです。脱獄できないよーー
山梨県の酒呑場遺跡から出土した、縄文時代中期の、ダイズ属の圧痕を持つ土器。
大豆を押し付けた痕があるはずですが、写真ではちと見えません。
特に飾りけもない土器ですけど、何千年という古色がつくと、日常使いのナベも芸術品みたいになりますね。
こんな風に調理したそうです。弥生時代頃の米は、粘り気の弱いパサパサしたお米だったらしく、
こうして多めのお湯でゆで、吹きこぼれそうになるとお湯を捨てる、
湯取り法という料理法で調理されていたようです。
後に広まる粘り気の強い米は、なべにくっつきやすく、糊のようになってしまうので、
甑(こしき)の上で蒸す調理法が主になってくるそうです。
展示の説明によると、蒸す調理法自体は縄文時代からあったようです。
お米の下が白いもので仕切られていますよね。これが「こしき」。
蒸し方自体は今とほとんど変わりませんが、この土かまど、火加減の調節がかなり難しそう。
釜飯屋の釜!大分時代が下って釜とかまどの一体化が進んでいます。
これがやがてコンパクトな電子ジャーになるわけですよね。ふうーん。
弥生時代の日常の食事の「こういうのもありえた」という一つの復元案だそうです。
ゴーヤに桃、栗、雑穀まじりのおかゆ?充分おいしそうです。
こちらはゴージャスなハレの日の食事!
手前は鯛にアワビに小さいタコ、左手奥は鶏肉の焼き物か蒸し物のよう。
ご飯は赤飯のように見えますが……あ~、食べてみたいよう。。
古代米の研究をしていた方のコレクション。すごいんですよ、沢山の品種の米が分けられてて。
稲については色んな方が研究していて、対立することも結構あったそうです。
そりゃ日本人だから米が重要なのはわかるけど、なぜそれほどまでに稲にこだわる人たちがいるのかと、
ちょっと不思議に思ってたんですが、稲作が伝わった頃には、稲作の方法を本やネットで調べられるわけもなく、
つまり稲と一緒に稲作の技術を持った人たちが来たわけで、すなわち稲のルーツをたどることは、
日本人のルーツの一筋をたどることでもあるんだそうです。そりゃー白熱するか。。。
「おにぎりの具」コーナーもあります。カツオということは、おかか!
今のコンビニおにぎりの具の豊富さはすごいですよね。
しかしやはりベーシックなシャケ、たらこ、梅干し、おかか辺りに回帰してゆくのですよ。ふふふ
昔のおにぎりは葉っぱに包んだりしてたようですが、近世からは海苔にグレードアップ!
下は海苔を入れる箱。湿気にめちゃくちゃ弱い海苔の保存は難しかったでしょうね。
こんな舟で海苔をとったんでしょうか。これは一本しかないから櫓(ろ)かなあと思いますが。。
櫓でこぐのにはコツがあるらしいです。
梅干しが入っていた瓶。日本は瓶やつぼや桶がよく作られ、使われたそうで、
発酵食品の類いがとても豊富なんだそうです。酒、みそ、醤油、漬け物。
大きい容器ができると、大量生産ができるようになるのは塩と同じで、
今、酒の名所として有名な所は、比較的早くから大きい樽が手にいれやすかった所なんだそうです。
たとえば灘で造られたお酒は、堺から船で江戸まで運ばれ、
その後の空いた大きな桶を利用して作り始められたのが、千葉の醤油なんだそうです。へええ~
炭化おにぎりと同じ、北川表の上遺跡から出土した土器。すでにきれいに整った形になってますね。
ろくろはやきものだけでなく、お椀など木地の器づくりにも欠かせない、重要な道具だったそうです。
ぱさぱさともちもちのお米の表情がグー!うんうん、そんな感じ。
以下、おにぎり展と宮本常一さんの本からまとめた所を書いてみました。
縄文時代の頃、日本列島には、土蜘蛛などと呼ばれた人たちが竪穴式住居に住んでいて、
漁撈、狩猟、採取などで食物を得ていた。アイヌ民族やマタギのルーツ?
↓
東南アジアの方にあった越という国で、筏舟と陸上と半々ぐらいの生活をしながら、
漁撈と稲作をしていた人たちが、古代中国の内乱で北に追われ、朝鮮半島を回り、
難民のような形で、家族単位で日本の地に逃げのびて来た。
この人たちが、高床式住居と稲作の技術を持って来て、祭祀の中心になった。
米は東南アジアで作られる、細長くて粘り気の少ないパサパサしたインディカ米。
これがエビスと呼ばれた人たちではないか。弥生時代頃、出雲?
島根県にはえびす神社の総本社、美保神社がありますもんね。
↓
さらにその後、北方系の騎馬民族がやはり同じようなルートで、馬ごと船に乗って渡って来る。
この騎馬民族は征服せんと来たために、男だけで来て、各地で妻をめとり、血縁関係を広げ、
強い武力をもって日本列島の統一を進め、政治の中心に立って権力を持つ。
古墳時代以降、高天原?
この人たちが持って来たのが丸みがあって粘り気の強い、もちもちしたジャポニカ米で、
今の日本のお米の主流になります。古くはもっと粘り気が強く、もち米に近かったようです。
細かくは、もっと何度かの時期に分かれて、また琉球諸島を伝ってなど他のルートからも、
人と稲が渡って来ていたのではないかと書いていましたが、
大きくはこんな感じが、宮本常一さんの考え方だったようです。
宮本さんの本を何冊か読んで、私がまとめたものなので、多分あちこち間違ってると思いますが、
まあ素人なんで、許してつかあさい。
でも宮本さん自身も、時期によって、少しずつ考えが変わって来ているように感じられました。
今は、宮本さんの時代にはわかっていなかったこととかもわかって来てたりするでしょうし、
まだまだ他にも色んな説があるんだろうと思います。
うん、でも、頭がだいぶ整理されたぞ。ありがとうおにぎりよ。
博物館のおみやげ、縄文クッキー「縄文の匠」。くるみ、どんぐりなどが使われています。
一枚140円でした。これがおいしかった…!
探してみたら、通販はどうもここだけのようです。
というわけで+送料価格の通販で買おか、また行った時に買って来よかと悩んでます。。
火事にあって焼失した住居から出土したそうです。見事な焼きおにぎりですね。
写真では真っ黒い塊にしか見えませんが、現物を見るとお米のつぶつぶも見えて、
なるほどコゲコゲになったおにぎりということがわかります。
横浜市歴史博物館の「大おにぎり展」の詳細です。
宮本常一さん効果もあって熱が入り、長くなってしまったので、てきとうに読み流して下さい。
上の写真の炭化おにぎりの復元模型。おにぎりをいくつか重ねてカゴに入れてあったようです。
一緒に玉や土器なども出土しており、なんらかの儀式と関係のあった住居ではないかと説明にありました。
しかしきれいに形が残ったもんですね。。。
同じ遺跡にあるお墓から、銭が入れられていたおにぎりが炭化したものも出土したそうで、
これも展示されていました。他の遺跡からも銭入りおにぎりが見つかっているそうで、
死者へのお供えに、おにぎりにお金を入れる風習があったのではないかと説明にありました。
死出の旅に備えての糧食と路銀というわけでしょうか。どっちも大事だもんね。
柳田國男さんの本で読んだんですが、実は焼けたお米というのは結構あちこちから出るそうで、
そこから色んな伝説が生まれたらしいんですが、もともとは葬儀やお盆などの死者の祀りの時に、
お米を焼いて煙にして天に贈る、という風習があったんじゃないかとありました。
だからもしかしたらこのきれいに焼け残ったおにぎりも、偶然の火事ではなく、
建物ごとわざと焼かれたものじゃないかと思ったんですが、どうでしょう…?
そういえば今私が住んでいる辺りでは、お盆の時、古くからの農家さんの家の門の所に、
食べ物やキュウリやナスで作った送り馬をのせた小さな台が置かれているのを見かけます。
お盆の終わったあくる日には、台の上に灰だけが残っています。
これも焼かれて天に送られたお供えなのかなあと思いました。
米以前の重要な食料、木の実。写真はトチの実です。栃木出身なものでなんとなく。。
他には栗、くるみなどがよく食べられたそうです。木の実は栄養価高いんですよね。
時々旅先でトチの実まんじゅうとか見かけますが、独特の風味があっておいしいです。
このあいだトチの実のあんを作っている様子をテレビでやっていたんですが、
渋みのあるあくを抜くために丸一日釜で煮るので、すごく手間がかかるそうです。
そして栗。昔の日本には栗の木が今よりもっと多かったんだそうですが、
明治時代に鉄道の枕木に使われて、その時に大分減ってしまったんだそうです。
栗の木はすごく硬くて、江戸時代には牢屋の格子に使われていたそうです。脱獄できないよーー
山梨県の酒呑場遺跡から出土した、縄文時代中期の、ダイズ属の圧痕を持つ土器。
大豆を押し付けた痕があるはずですが、写真ではちと見えません。
特に飾りけもない土器ですけど、何千年という古色がつくと、日常使いのナベも芸術品みたいになりますね。
こんな風に調理したそうです。弥生時代頃の米は、粘り気の弱いパサパサしたお米だったらしく、
こうして多めのお湯でゆで、吹きこぼれそうになるとお湯を捨てる、
湯取り法という料理法で調理されていたようです。
後に広まる粘り気の強い米は、なべにくっつきやすく、糊のようになってしまうので、
甑(こしき)の上で蒸す調理法が主になってくるそうです。
展示の説明によると、蒸す調理法自体は縄文時代からあったようです。
お米の下が白いもので仕切られていますよね。これが「こしき」。
蒸し方自体は今とほとんど変わりませんが、この土かまど、火加減の調節がかなり難しそう。
釜飯屋の釜!大分時代が下って釜とかまどの一体化が進んでいます。
これがやがてコンパクトな電子ジャーになるわけですよね。ふうーん。
弥生時代の日常の食事の「こういうのもありえた」という一つの復元案だそうです。
ゴーヤに桃、栗、雑穀まじりのおかゆ?充分おいしそうです。
こちらはゴージャスなハレの日の食事!
手前は鯛にアワビに小さいタコ、左手奥は鶏肉の焼き物か蒸し物のよう。
ご飯は赤飯のように見えますが……あ~、食べてみたいよう。。
古代米の研究をしていた方のコレクション。すごいんですよ、沢山の品種の米が分けられてて。
稲については色んな方が研究していて、対立することも結構あったそうです。
そりゃ日本人だから米が重要なのはわかるけど、なぜそれほどまでに稲にこだわる人たちがいるのかと、
ちょっと不思議に思ってたんですが、稲作が伝わった頃には、稲作の方法を本やネットで調べられるわけもなく、
つまり稲と一緒に稲作の技術を持った人たちが来たわけで、すなわち稲のルーツをたどることは、
日本人のルーツの一筋をたどることでもあるんだそうです。そりゃー白熱するか。。。
「おにぎりの具」コーナーもあります。カツオということは、おかか!
今のコンビニおにぎりの具の豊富さはすごいですよね。
しかしやはりベーシックなシャケ、たらこ、梅干し、おかか辺りに回帰してゆくのですよ。ふふふ
昔のおにぎりは葉っぱに包んだりしてたようですが、近世からは海苔にグレードアップ!
下は海苔を入れる箱。湿気にめちゃくちゃ弱い海苔の保存は難しかったでしょうね。
こんな舟で海苔をとったんでしょうか。これは一本しかないから櫓(ろ)かなあと思いますが。。
櫓でこぐのにはコツがあるらしいです。
梅干しが入っていた瓶。日本は瓶やつぼや桶がよく作られ、使われたそうで、
発酵食品の類いがとても豊富なんだそうです。酒、みそ、醤油、漬け物。
大きい容器ができると、大量生産ができるようになるのは塩と同じで、
今、酒の名所として有名な所は、比較的早くから大きい樽が手にいれやすかった所なんだそうです。
たとえば灘で造られたお酒は、堺から船で江戸まで運ばれ、
その後の空いた大きな桶を利用して作り始められたのが、千葉の醤油なんだそうです。へええ~
炭化おにぎりと同じ、北川表の上遺跡から出土した土器。すでにきれいに整った形になってますね。
ろくろはやきものだけでなく、お椀など木地の器づくりにも欠かせない、重要な道具だったそうです。
ぱさぱさともちもちのお米の表情がグー!うんうん、そんな感じ。
以下、おにぎり展と宮本常一さんの本からまとめた所を書いてみました。
縄文時代の頃、日本列島には、土蜘蛛などと呼ばれた人たちが竪穴式住居に住んでいて、
漁撈、狩猟、採取などで食物を得ていた。アイヌ民族やマタギのルーツ?
↓
東南アジアの方にあった越という国で、筏舟と陸上と半々ぐらいの生活をしながら、
漁撈と稲作をしていた人たちが、古代中国の内乱で北に追われ、朝鮮半島を回り、
難民のような形で、家族単位で日本の地に逃げのびて来た。
この人たちが、高床式住居と稲作の技術を持って来て、祭祀の中心になった。
米は東南アジアで作られる、細長くて粘り気の少ないパサパサしたインディカ米。
これがエビスと呼ばれた人たちではないか。弥生時代頃、出雲?
島根県にはえびす神社の総本社、美保神社がありますもんね。
↓
さらにその後、北方系の騎馬民族がやはり同じようなルートで、馬ごと船に乗って渡って来る。
この騎馬民族は征服せんと来たために、男だけで来て、各地で妻をめとり、血縁関係を広げ、
強い武力をもって日本列島の統一を進め、政治の中心に立って権力を持つ。
古墳時代以降、高天原?
この人たちが持って来たのが丸みがあって粘り気の強い、もちもちしたジャポニカ米で、
今の日本のお米の主流になります。古くはもっと粘り気が強く、もち米に近かったようです。
細かくは、もっと何度かの時期に分かれて、また琉球諸島を伝ってなど他のルートからも、
人と稲が渡って来ていたのではないかと書いていましたが、
大きくはこんな感じが、宮本常一さんの考え方だったようです。
宮本さんの本を何冊か読んで、私がまとめたものなので、多分あちこち間違ってると思いますが、
まあ素人なんで、許してつかあさい。
でも宮本さん自身も、時期によって、少しずつ考えが変わって来ているように感じられました。
今は、宮本さんの時代にはわかっていなかったこととかもわかって来てたりするでしょうし、
まだまだ他にも色んな説があるんだろうと思います。
うん、でも、頭がだいぶ整理されたぞ。ありがとうおにぎりよ。
博物館のおみやげ、縄文クッキー「縄文の匠」。くるみ、どんぐりなどが使われています。
一枚140円でした。これがおいしかった…!
探してみたら、通販はどうもここだけのようです。
というわけで+送料価格の通販で買おか、また行った時に買って来よかと悩んでます。。